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第51話 逃げたくない
首元にナイフがあって、いつ切られても可笑しくない。嫌な汗が背中を伝っていって、怖くて堪らない。
――――会いたい……助けて花楓……。
心の中で呟くと、外から怒鳴り声が聞こえてきた。微かだけど、柑橘系の香りがしたような気がした。
間違いなく彼の声だ! 僕がそう思った次の瞬間、ドアが勢いよく開かれた。息を切らした彼がいて僕に気がついたようだった。
「湊!」
「っ……」
声を出したかったけど、そんなことをしたら取り返しがつかなくなってしまう。何も出来ずにいると、ニヤニヤしたお兄さんがナイフを僕の首元から離した。
僕は急に体の力が抜けて、息が荒くなってしまった。しかし安心して直ぐに、僕の体を縛っていたロープを切られた。
次の瞬間……後ろから首に腕をかけられて、少し首を絞められてしまう。苦しい……しかも、開いている手でナイフを再び首元に当てられてしまう。
「やっ! 止めろ! 湊から手を離せっ!」
「あははは! いいなその顔っ! 俺はお前のいつも澄ました顔が、嫌いだったんだよっ!」
「止めろおおお!」
次の瞬間……首元にあったナイフを上に掲げて、僕の体目掛けて振り下された。
僕たちの方に向かって来た彼が見えて……死を覚悟して目を瞑ったけど、一向に痛みが襲ってこない。
それどころか、いつの間にか放り出されて床に叩きつかれた。何やら温かいものに、全身が包まれているように感じた。
おそるおそる目を開けてみると、僕の上に覆い被さって、血まみれになっている彼が目に入ってくる。
「えっ……な、んで……か、えで……ねえ、めを……さましてよ」
「おいっ! 湊! しゃ……ちょう」
「とう……ま、助けて! このままじゃ! 彼がっ!」
「落ち着け! 今警察と救急車が来るから!」
赤くなって動かない彼を見て、僕は我を忘れて絶叫してしまう。駆け付けてくれた透真に、何かを言われたけど耳に入ってこない。
気がつくと、僕は気を失ってしまったようだった。目を覚ますと、見慣れない白い天井が見えた。
「ここ……は」
「湊! 目、覚めたか!」
「湊くんっ! ほんとによかった」
「とう……ま、りつ……さ」
心配して泣いている二人が目に入ってきて、そこでさっきのことを思い出してしまう。首に巻いてある包帯や、全身が痛いので夢じゃないと突きつけられた。
それと同時に、彼がどうなったのか気が気じゃない。僕は無我夢中で起き上がろうとしたが、起き上がることが出来ない。
「無理すんなっ! お前あれから、二日も眠ってたんだぞ……俺は、もう」
「透真も僕も、生きた心地がしなくて……よかった」
泣いている二人を見て、心配してくれているのは嬉しかった。でも今は、それ以上に彼のことが気がかりだった。
声を出そうとしても、喉がカラカラで上手く話せない。それでも僕は、頑張って声を絞り出す。
「か……え、で……は」
「社長なら、隣で寝てるよ。先に起きて、取り乱したから……鎮静剤打って寝たよ」
透真にそう言われて、横を見てみると彼が寝息を立てていた。よかった……よかった、本当によかった。
喉はカラカラなのに、不思議と涙が溢れてくる。そんな僕を見て二人は、優しく微笑んでくれた。
それから先生を呼んで、精密検査をしてもらった。どこにも異常はなく、一週間大事をとって入院することになった。
病室に戻ると、彼が目を覚ましていたようだった。僕の姿を見ると優しく微笑んでくれていて、僕は透真の静止を振り切って彼に抱きついた。
「か……ご、め……僕のせいで」
「ばかだなあ……湊のせいじゃないだろ」
「だっ……て、僕が捕まったから」
「俺が蒔いた種だ……湊に余計なことを言った時に、決着つけるべきだった」
僕を頭を撫でてくれて、優しく抱きしめてくれる。暖かくて柑橘系の香りがして、心臓の鼓動が聞こえる……。
間違いなく、生きてる……間違いなく、生きててくれた。今はそれだけで、満足だから……。
僕は感極まって、自分から彼に優しくキスをした。彼の顔を見ると優しく微笑んでくれていて、僕がもう一度しようとすると透真に現実に引き戻された。
「ちょっ! 二人ともストップ!」
「透真、邪魔しないで」
「そうだな、今いいとこ」
「……あのな、周りを見ろよ」
何故か透真も律さんも、ため息をついていた。それに周りの先生や、看護師さんたちも……。
そこで僕はここは病室で、大勢人がいるという事を思い出す。急激に恥ずかしくなって、自分のベッドに潜り込み布団にくるまった。
あーもう、恥ずかし過ぎてしばらく顔を出せないじゃないか……まあ、それでも彼が生きててくれた。
もう会えないかと思って、本気で怖かった……今でも鮮明に覚えている。広がっていく赤い水たまりを……。
僕は急激に怖くなって、布団から少し顔を出して彼の方を見る。よかった、間違いなく近くにいる……。
安心したら眠くなってきて、気がつくと寝てしまったようだった。何か温かいものに包まれていて、柑橘系の香りがした。
「湊、起きた?」
「か……えで」
「泣かないで、ここにいるから」
ベッドに寝たままで抱きしめられていて、僕は安心して泣いてしまう。心臓の鼓動が聞こえてきて、安堵のため息が漏れる。
僕が彼の方を見ると、穏やかに笑っていた。僕は彼の上に跨って、優しく触れるだけのキスをした。
すると優しく腰を支えられて、抱きしめられた……僕たちは我慢出来ずに、舌を入れて絡めさせる。
「紋様が浮かび上がってきたな」
「か、えでの?」
「ああ、俺の紋様が」
そう言って舌を触られて、再度絡められた。彼となら、何があっても大丈夫……そう思っていると、突然咳払いが聞こえた。
声の方を見てみると、花舞さんが顔を赤らめていた。僕は途端に恥ずかしくなって、布団を被って丸まった。
「兄さん、それで用は」
「そう邪険にするな。聞きたくないだろうが、花向のことで話にきた」
そう言われては気になってしまって、僕は起き上がって聞くことにした。彼も起き上がって、背中を摩って抱きしめてくれる。
たったそれだけのことで、僕は不思議と安心できた。思わず見つめ合っていると、咳払いをされて我に返る。
「単刀直入に言うと、花向は逮捕されたよ。広瀬さんを誘拐して監禁して、花楓を刺したんだ」
「あの……僕取り乱していて、何が起きたのか覚えていないのですが……」
「聞かない方がいいと思うが」
花舞さんにそう言われたが、しっかりと聞かなくてはいけないと思った。僕は心配してくれている彼を見て優しく頬笑んだ。
そして花舞さんを見てゆっくりと頷いて、自分の言葉で告げることにした。
「逃げたくないです」
「ふっ……花楓は、いい人を見つけたんだな」
「ああ、湊以上の人はいない」
そんなことを、なんの屈託もない笑顔で言うのは恥ずかしいよ。だけど嬉しい……そう思っていると、花舞さん……いや、お兄さんは教えてくれた。
「俺が警察と共に行った時には、既に花楓が刺されていた。金城さんが、広瀬さんを抱き抱えたまま取り乱していた」
それなのに、花向さんは全く悪びれるどころか反省すらしてなかったらしい。それどころか、彼のことを罵倒していた。
そこで思わずお兄さんは、花向さんを殴ってしまった。警察に連れて行かれてから、廃人のようになっているようだ。
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