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 日比野は喫茶店の扉から雨の様子を眺めているようだ。一瞬声をかけようかと思ったが迷って止めた。  陽キャ集団にいる日比野と陰キャまでは行かないが平凡な真秀とでは同じクラスメイトとはいえ顔見知り程度、取り立てて親しいわけではないのだ。  だが教室にいるときと違って、誰もいないこのほんの一瞬だけは彼が自分だけの為にそこにいるような錯覚を起こす。 (じっと見られるのってきっとやだよな。だけど今だけ、この一瞬だけだから許して)  そんな風に心の中で詫びながらも、額から顎のラインまでが超絶に綺麗なその横顔をそっと盗み見た。シンプルな服装にエプロンを付けただけの姿でも、まるでこういうドラマの一部を見ているみたいに様になっている。  絵になる人というのは何をしていても、どこにいてもこんな風に人の心を打つのだなあと、真秀は妙に感心してしまった。  しかし至福の時間はあっけなく終わりを告げた。不意に突風が吹いて、店の前の看板に置いてあったメニューがかかれた看板が凄い勢いで音を立てて倒れた。風の勢いに押された看板は止まらない。倒れた状態で、がりがりがりと音を立てて信号の方まで動いていく。 (やばい。車道に飛んでったら大変だ)  真秀はスマホをポケットに押し込むと、濡れるのも構わずに看板を追って駆け出した。短時間で水たまりができるほど局地的な大雨だ。真秀は先日下ろしたばかりのスニーカーでバシャバシャとアスファルトを蹴り、看板をまずは片手で抑え込むと、後ろから追いかけてきた日比野が隣から助太刀するように看板に両手をかけた。  もうその場所は横断歩道の直前で、往来する人に当たったりはしなかったものの、赤信号で止まっている車にはあと一歩の距離だった。 「危なかったあっ」 「危なかった。ありがとうございます」  二人同時に同じ言葉を言って顔を見合わせる。日比野が大きな目を見開いて「佐倉?」と呟かれた。 「ひゃっ、あ、ああ。はいっ」 (うそ! 僕、推しに認知されてたあっ)   流石に顔は知っているとは思っていたが、きちんと名前を憶えて貰っていたとは驚いた。  どんな顔をして何を言ったらいいのか分からず、真秀は大きな目をしばたたかせながら「こんにちは」とだけ呟いた。  身体を起こしながら木の小さな看板を持ち上げた日比野は真秀に向かって手を差し出した。 「立てる? ずぶ濡れだな」   そう言われて初めて自分が咄嗟にびしゃびしゃの地面に片膝をついてしまっていたと気が付いた。真秀はこくんっと頷く。  日比野に向かって手を出そうとしたが、地面について汚れた手を出すの事が気が引け躊躇する。すると日比野がもっと腕を伸ばして迷いもせずに真秀の手を掴んだ。 「きて」  そのまま力強く引き起こしてもらうと手を引かれ、喫茶店まで駆け足で戻ってきた。 (なに、このシチュエーション、漫画じゃん)  なんて思って真秀は自分より大きな手とその先の綺麗な背中を穴が開くほどじっと見つめてしまう。  日比野が扉を開け、そのまま中へと入っていこうとしたから、真秀はびっくりして泥除けのマットの上で足を止める。怪訝な顔で振り返る日比野を見上げて、真秀はおずおずと上目遣いに呟いた。 「喫茶店って未成年は入っちゃダメなんじゃ……」 「いいって。今、閉店作業中だし。客は誰もいないよ」  言われるがまま初めて足を踏み入れたそこは、テレビドラマで見かけるような典型的な喫茶店だった。初めて入る空間が物珍しくて、真秀がきょろきょろと店内を見渡す。実際見たことがあるわけじゃないけれど、きっとこれが昭和風というのかもしれない。どこか古めかしい匂いと、染みついたたばこの香りが店全体に漂っている。大人の世界に急に迷い込んだ気がした。      

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