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⑤
京介と続けて連絡を取っていたが、朝晴は何だか気まずかった。対して京介は他愛もない話題を振ってくれているので、なるべく不快にならないような返事をしていく。それでも、気まずさは消えなかった。
そうしていくうちに数日が経過した。この日は朝晴は出社しなければならないので、支度をした後にリュックを背負ってから家を出る。
出社は週に一度の頻度であるが、やはり通勤ラッシュの時間帯はいつ遭遇しても慣れない。それになによりも、会社に行く為にこうして早めに起きなければならない。朝晴にとってはそれが辛い点でもある。
最寄り駅に到着すると、構内だけでも人だらけであった。げんなりとしながら、朝晴は足を進めていく。
改札を抜けてから、ホームへと向かおうとする。人の流れに乗っていき、乗車列を視界に入れた、その時に後ろから手を引かれた。咄嗟にその方向を睨むが、目の前には見覚えのある顔がある。やけに整った顔をしている京介だ。
京介はスーツ姿で、同じく通勤途中なのだろうか。朝晴は表情を変え、驚いた目で見る。
「京介さん!? お、おはよう! まさか京介さんだと思わなくて……奇遇だね」
京介のスーツ姿はかっこいい。先日の私服は何とも言い難いのだが。なのでドキドキとしながら見ていると、京介が笑顔で挨拶を返してくれた。
「おはよう。いや、見覚えのある後ろ姿だったから、つい……すまない」
自身の地味な後ろ姿を見て気付いてくれたのか。何と俊敏な対応だと思えた。すると京介が隣に来てくれるが、相変わらずの身長差にが少しもどかしい。
だが朝晴はその身長差であっても悪くはないとも思える。寧ろ幸運と言うべきか、京介と会うことができて嬉しくニヤニヤとしてしまう。それが、恐らくは京介からはあまり見えないからだ。
すると電車が来るアナウンスが聞こえた。二人は会った時よりも長くなっている乗車列に並んだ。その際に、背負っているリュックを手に持つ。
順番を待つように列に並んでいき、次第に短くなっていった。そして朝晴たちも乗ろうとしたのだが、後ろからぐいぐいと押されていく。これは他の乗客らだが、もうじき乗車率が百パーセントを越える頃だからだろう。朝晴は焦りながら電車に乗る。
運良く壁際を確保できたものの、京介とはぐれてしまったのだろうか。そう思っていると隙間から京介が来てくれた。なので目の前には京介が居る。
早く電車から降りたいのだが、京介と気まずさを感じることなく傍にいることはなかなかできない。なのでどちらなのか分からず板挟みになっていると、乗車率が更に上がった。京介の体がこちらに来ると、抱き締めてくれる形になる。思わず心臓を疼かせた朝晴は、次に自身の好きな京介の匂いを感じる。車内は満員であるものの、不思議と京介のものだけを感じ取ることができた。それはあまりにも好き過ぎる故にだろう。
「す、すまない、朝晴君。少し、我慢をしてくれ」
「うん、僕は大丈夫……」
京介の肩や首が目の前にある。よく見ればしっかりとした骨があり、そして肉がある。
間近で観察していた朝晴は、次に温かさを感じ取る。人の体温なので当然のように包まれるかのような仄かな熱があった。朝晴はそれに包まれているようなものなのだ。つい目を細めてしまうが、京介にはそれがどう見えているのだろうか。
電車が動き出すが、目的の駅まではたったの三駅だ。その間に京介の熱に包まれていくことになりそうだが、この熱が逃げてしまえばどうすればいいのだろうかと考える。この熱に、もっと浸っていたい。この熱に、もっと包まれていたい。
離れがたい衝動が抑えられない朝晴は、そこでどさくさに紛れて京介の腰に手を回してみる。思ったよりも腰が太い。ここも男らしい体つきに、惚れ惚れとしてしまっていた。
「朝晴君……?」
「い、いや、その……」
どうやら気付かれてしまったようだ。だが京介は少し考えた後に「リュックが無くて掴まれない……?」と呟くと、朝晴はそれが正解かのように何度も何度も頷く。するとそれで納得してもらえた。
「ちょっと、我慢してもらえるかな……?」
上目遣いになりながらそう言うと、京介は快諾をしてくれた。安堵をした朝晴は、電車に揺られていく。
目的の駅は次、そのところで京介が訊ねてきた。
「そういえばどこで降りるんだ?」
「この次だよ」
「俺も、そこだ」
目を輝かせてしまった。会社の最寄りまで一緒だとは思わなかったからだ。
すると電車が減速をしていき、降りる駅のホームが見えてきていた。やはりここも乗客が多いのか、かなりの乗車列が形成されている。
電車が完全に止まるが、開く扉は反対側だ。なので京介がまずは人を掻き分けるが、なかなか進むことができない。なので朝晴が大声で降りる意思を伝えようとすると、京介が先にしてくれた。男の低い声にしてはよく通る声で、人々を退かしていく。
朝晴はリュックを持ち直すと、京介に着いて行こうとした。だが当然、歩幅などの違いがあり追いつかない。それに気付いた京介が手を掴んで引っ張ってくれた。おかげで電車から降りられるが、京介の引かれる力と自身のそれを上手くコントロールする力が噛み合わなかったらしい。二人の手が伸びた後に、京介の体に朝晴の体が収まってしまう。
「……っ! ご、ごめん!」
謝りながら素早く京介の体から離れると、朝晴は一定の距離を取った。このまま京介と密着していれば、どのような気を起こすか分からなかったからだ。
「大丈夫か? 力が強すぎたか?」
気に掛けてくれる京介だが、大丈夫だと頷く。そして手に持っていたリュックを背負ってから言う。
「うん。だから早く行こう。京介さんは、時間は大丈夫なの?」
「俺はまだ大丈夫だが、朝晴君は?」
「僕も時間はまだあるよ」
胸を撫で下ろした京介は「改札まで、一緒に行こう」と言ってから、改札を目指した。
ここから改札まではあまり歩かなくてもいいのだが、京介が隣を歩いてくれる。その中で短い会話をしてきた。
「朝晴君と、会社の最寄りまで同じなんて、嬉しいな」
声音は明るいのでこれが京介の本心で尚且つ、言葉に嘘がないことが分かる。誠実な態度を続けてくれて、朝晴はとても嬉しく思えた。
「そうだね」
なので朝晴はなるべく笑顔で返事をすると、同じく京介も同じ表情をしてくれる。心がまたしても動揺してしまう。そしてこの笑顔を独占したい、向ける感情を全てこちらに向けて欲しい。朝晴の中での欲望が大きくなってきていた。
すると残念ながら改札が見えたので、まずは京介がパスケースを取り出した。そして改札にタッチしてから通り抜ける。その次に、朝晴はスマートフォンをかざして通った。そこで京介の言う「改札まで」に来たのだが、京介は待ってくれている。
「朝晴くん、じゃあな」
「はい、京介さん」
顔を合わせると共に京介は朝晴とは反対側の出入り口に歩いていく。後ろ姿まで格好良いと思いながら、朝晴は会社のある方向の出入り口に向かった。
会社まではおおよそ五分だ。そこまでのところで、朝晴の足はいつもよりも軽かった。原因は一つしか考えられず、京介と通勤できたからだ。
朝晴は、京介のことを相当に好きになってしまったようだ。
そこで、知美と別れた傷は癒えたのだろうかと考える。気付けば京介と出会ってから、考える時間をあまり作らなかったのかもしれない。もう、吹っ切れたのだろうか。
すると会社に着いたので出勤をする。自身のデスクに向かった朝晴は、既に出勤している隣の席の先輩に挨拶をした。
「近江さん、おはようございます」
朝晴の隣の席の者は近江といい、何かと気にかけてくれる男の先輩だ。
「おはよう、桃井。ん……? なんだ、今日は元気そうだな。何か良いことでもあったのか?」
「えっ? いいこと? まぁ、ありましたけど……た、多分です!」
最後は誤魔化した。近江は詮索をしてくるような者ではないのだが、どうにも濁してしまう。
椅子に座ってPCの電源を点けるが、一瞬だけ見えた黒い画面に自身の顔が写っていた。その顔はかなり機嫌が良さそうにしか見えず、これは誰から見ても近江のような言葉が出るだろうと思った。
業務開始時間になると、朝晴は熱心にPCと向き合った。だがキーボードを打ちながら気付いたのだが、どうにも京介との電車での出来事を思い出してしまう。集中ができなかったが、まるでこれは恋する乙女のようだと思った。あのことしか考えられないのだ。
内心でこれはどうかと気持ちを律してみるが、脳は言うことをできない。なので頭の殆どを京介のことで埋まりながらキーボードを叩いていった。
昼を越えて定時前を迎える。隣の近江が体を伸ばしているのを見て、朝晴もつられて体を伸ばす。休憩を何度か挟みつつも仕事をしていたが、いつもより休憩の頻度と時間が長いように思えた。だが近江はそれを指摘しなかった。いや、勤続何年もの後輩に向けて、指摘する必要は無かったのだろうと推測する。
そして腕を組んでPCの画面を見るが、何かが違うような気がした。そう思うだけはできるが、何が違うのか具体的に見つけることができない。首を傾げていると、近江が隣から画面を覗いてきた。
「おう、桃井、もう終わっ……ん? 何かおかしくないか?」
「んー……そうなんですよね。僕もそれは思ってたんですけど、どこが違うのか見つけられなくて……どこだろう?」
近江が画面を凝視していると、そこでようやく問題点を見つけたらしい。大きな声で母音を発した後に京介に告げる。かなり焦っている様子だ。
「お前ここ……いや、違う! 最初からミスってるぞ! それがずれて、ここまできてる……!?」
「えっ!? あっ! 本当だ!」
ようやく違和感に気付けた朝晴はPCの画面を見た後に項垂れた。これはかなり初歩的なミスであり、そのようなミスを朝晴は普段はしない。なので余計にショックになり、肩までも落とす。
すると近江が肩にポンと手を置いた。そして軽く何度か叩くと慰めてくれる。
「……今日はもう休め。まだこれは急いでないから大丈夫。明日急いでやって、間に合うと思うから。手が空いてたら手伝うよ」
近江の声は優しい。それが自身の情けなさを感じてしまう。
だが決して怒ることもなく、きちんとフォローまで入れてくれる。朝晴は良い先輩だと痛感すると涙が出そうになってしまう。だが泣いている場合ではないので、必死に目を擦り瞬きを何度もする。
そうしていると定時の夕方六時を迎えたようだ。近江が帰る準備をしながら「今日は早く寝とけ」と言ってくれる。なので礼を述べた後に、帰る支度をする。今日は、言う通りに早く寝ようと思った。
近江が先に退勤をすると、その後に朝晴も退勤をする。リュックのせいもあるが猫背気味で歩き。十分といつもの倍の時間をかけて駅に着いてしまった。
退勤ラッシュは既に始まっているので、駅の目に来てすぐにうんざりとした。しかしこれは朝晴にも、誰にもどうしようがない。一つ息を吐くと、雑踏の中に紛れていく。
少し歩いて改札前に着けば、スマートフォンを取り出す。モバイルICカードには残高がある。なのですぐに抜けようとしたが、そこで目の前に見覚えのある後ろ姿があった。それは京介のような後ろ姿をした男である。背丈はちょうど同じくらいで、雰囲気もどこか似ていた。
だがこれは京介のことを一日中意識しすぎたせいなのだろうと、言い聞かせる。
京介と似た男がパスケースをタッチして改札を抜けようとした。だがタッチミスなのか、引っ掛かる。そこで横顔が見えるが、端正な顔の輪郭で京介だと確信した。
目を見開いていると、目の前の男と目が合う。そこで振り向くとやはり京介であった。
タッチし直してから、朝晴が改札をスムーズに抜けると、改札から出たところの壁際で京介と話す。
「朝晴君……! いや、恥ずかしいところを見られてしまった。タッチミスをしてしまってな」
「僕もたまにやらかすよ。たまにあるよね」
そこで並んで歩いていくと、自然に一緒に帰る形になっていた。緊張の為か、朝晴の心臓がばくばくとうるさい。
「いつもこの時間に帰っているのか?」
ホームに向かう途中で京介がそう話しかけた。人の流れに乗っているので、前を向いてただ歩くのみだ。
しかし気持ちが前に行ってしまっているせいか、無意識に歩く速度が速くなってしまっていた。一方の京介は速度を維持しているので朝晴が一瞬だけ歩く速度を緩めるが、その際に躓きかける。京介が心配をしてくれた。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
どうにか京介の方を見て笑顔を見せるものの、京介の筋の通った鼻やまっすぐな目を見ては惚れ惚れとしてしまう。
「……あぁ、うん。いつもはリモートワークなんだけど、今日はたまたま出社日でね」
「そうなのか」
つい返事を忘れてしまっていた朝晴は、京介の質問を思い出してから急いで答える。
このままでは、思考の全てが京介に支配されるのではないのかと思えた。想っている今は地獄であるものの、では結ばれた場合はどうなのかと妄想してしまう。そこでよくないと思った朝晴は、内心で否定をした
「そうだ、駅から出たら、どこかで茶を飲まないか? そうだな……この前のカフェででも」
「えっ!? う、うん! いいよ!」
本当は早く帰って休みたい気持ちもあったが、朝晴は下心を優先してしまった。自身の欲望の深さに呆れたものの、また京介と対面で話すことができて嬉しい気持ちもある。つまりは、自分自身で面倒に思ってしまっていたのだ。
すると京介は嬉しそうに相づちを打ってくれた。その顔を見れて、朝晴はいつもより遅めに駅に着けてよかったと考えてしまう。
だが、たまには朝晴からも誘わなければと思うものの、仕事がリモートワークではない京介を平日に誘うのはとても勇気がいる。疲れているか、残業している可能性もあるからだ。それでも、次は朝晴から何かに誘おうと決心をした。
ホームに到着すると、乗車列に並んだ。人がかなり居て、所々で乗車列が崩れているところもあった。乗る際に小さなトラブルが起きそうだと思いながら、スマートフォンを確認した。そこで、京介が話しかけてくる。
「そういえば、朝晴君の職業は何だ? 差し支えなければでいいのだが……」
勿論、差し支えも問題もない。朝晴は頷いてから答える。
「僕はシステムエンジニアだよ」
「システムエンジニアか。俺はその業種はよく分からないのだが、コード? を書く職業だったか?」
少し考えた様子の京介は、顎に指を添えてから考える仕草をする。そのポーズがとても様になっと思えた。だが凝視する訳にはいかないので、まだ電車が来ていない前を見る。
「うん、そうだよ。京介さんは何の仕事をしているの?」
「俺か? 俺は、普通の会社員だ」
京介の言う普通とは、本当に普通なのか疑わしくなっていた。本当に普通なのかと。京介の外見のこともあり、余計に普通という言葉が似合わないように感じる。普通の会社員とは、自身のことを指すのだから。
そこで電車が来ると、扉が開いてからまずは降りる人々が洪水のように出て行く。その後に乗車列が吸い込まれていき、朝晴たちも電車に乗っていく。その際に背負っているリュックを手に持つが、殆ど何も入っていないリュックが、いつもより重く感じた。
つり革に掴まることができると、そこで扉が閉まった後に動き出す。京介の方を見れば、同様につり革に掴まっている。だがそれが、モデルのように見えた。つい、朝晴は京介を凝視してしまう。
「ん? どうした?」
「いや、何でも……」
顔を逸らしてから、顔に見とれていたなどとは癒えない。なので少し考えた後に話題を変えた。それはいつからここに居るか等だ。この都市は特徴として、いわゆるよそ者が多いからだ。
「京介はここの生まれなの?」
「ん? いや、違うな。隣のI市出身で、十年前にこのM市に飛ばされた。本社はここにあるし、飛ばされても問題はなかった」
溜め息交じりに京介がそう言うが、本社に行くことができたならば良いことなのだろう。そこで京介の社会的ステータスに、本社勤務が加わったことになる。相当にスペックが高い人間だと、朝晴は若干恐れてしまう。
「……そうということは、長く居るんだね。僕はここの生まれだよ」
「そうなのか。十年住んでいるが、ここはいいところだ。何かと便利でな」
「ありがとう」
そう話していると、いつの間にか目的の駅に到着していた。二人は急いで電車から降りると、京介がホームで体を少し伸ばす。解放感からなのだろうが、気持ちは分かる。
そして改札に向かうが、やはり退勤ラッシュであるので急いで改札を抜ける者が多い。たまにぶつかりながらも、先を行く京介に着いて行く。
改札を抜けて駅構内を出てから、そこで京介が立ち止まって振り向いた。
「よかった、置いて行っていなかった。前を歩くしかないが、振り向くタイミングがないから不安だった」
「きちんと着いて行けてたよ。ありがとう」
気遣いができて優しい態度に、朝晴は口角が思いっきり上がりそうになっていた。しかしどうにか真っ直ぐを維持する。
「では、行こう」
現在地からカフェまではすぐだ。到着すると、席は空いているのですぐに案内された。ちょうど窓際の席で、景観が良い。そう思いながら、メニューを見ようとした。だが京介がお冷やを持ってきた店員に、すぐにココアを頼む。特に飲みたいものはない朝晴は、続けて同じココアを注文した。提供を待つ。
京介は黙っているが、何かを会話しなければと思った。そこで思いついたのは、京介のプライベートに関することである。どうしても、気になってしまうのだ。
それは京介には現在恋人がいるかどうかである。初めて会った際にいきなり家に入ったが、女の影があまり見られないことを思い出していた。部屋は最低限のものばかりで、時折に同じ数の小物があるものの、判定が難しいからだ。
もしも居るのであれば、自身よりも恋人の方を優先して欲しいとも思える。これ以上は、京介に期待をして浮かれているのに疲れていると今分かったからだ。最も、今考えているのは恋人が居るというものであるのだが。
「京介さんは……今は彼女はいるの? ほら、アレ……僕との予定を優先してばかりだと思ったら、悪いし……」
「いないぞ」
京介は即答をした。あまりの回答の速さに、朝晴は「えっ」と気の抜けた言葉しか言えない。それくらいに、朝晴にとっては予想外だったからだ。
「いないものはいない。かと言って、もう作るわけでもない……」
そこで京介が暗い顔をするが、前に付き合っていた彼女と何かトラブルがあったのだろうか。それがきっかけで、もう恋人は作らない結果に至ったのだろうか。本人に聞かなければ永遠に分からない答えを、探そうとしてしまう。
だがいつもは暗い顔をしない京介が今、その表情を正にしている。ということは聞かない方がいいのかもしれない。知らない方がいいのかもしれない。テーブルの下へと手を潜らせると、強く握りしめる。
「……そういう朝晴君は、立ち直れたのか? やけにショックを受けていたからな」
「僕は……僕は、立ち直れたよ。もう大丈夫。心配してくれてありがとう」
「で、好きな人はいるのか?」
突然に振りかけられた質問に、朝晴は口をあんぐりと開けてしまう。そして驚くが、一方の京介はきょとんとしていた。先程の暗い顔は、面影すらない。
京介の質問に対しての答えはイエスだ。京介が好きなのだが、当然のようにそのようなことを言える訳がない。京介は、自身のことを友人として見ているのだから。
なので大きく嘘をついた。
「まだ、探してる最中かな」
「そうなのか。だが……申し訳ないが、俺は人脈がさっぱり無くてな。良い人を紹介したいのだが、できない。だが好きな人ができたら言ってくれ。応援しよう」
心が苦しかった。好きな相手にそう言われるなど、地獄そのものだ。奥歯をぎりぎりと噛み締めながら、返事をする。
「う、うん。その時にはよろしくね」
納得などできるはずがないが仕方がない。息をついていると、ちょうど注文していたココアがきた。目の前に置かれると、白い湯気が顔にかかるかのように思えた。
二人はカップを手に取り、ココアを少し啜る。熱さが胃の中に収まり、腹が温まった。すると心が少しは落ち着いたので、京介の方を見る。まだ話していたらしく、こちらを見ていた。
「では、朝晴君は、どのような人が好みなんだ?」
「好み……? 優しい人かな」
分からないと思うが、なるべく京介を見ながらそう言った。伝わる筈もないのに、虚しさが残ってしまう。
「なるほどな」
対して京介はニヤニヤとしているが、朝晴は溜め息をつくことしかできない。
次第に切なくなっていると、京介がココアをもう一度口に含んだ。呑気に「美味いな」と言っている。
こちらの気持ちも知らないで、と理不尽に毒づいてしまいそうになっていた。それくらいに、朝晴は京介のことが好きだというのに。
朝晴はそう想いながら、京介との雑談をしていった。内容は他愛もない話であるが、京介に何か聞かれる度に緊張してしまう。もしかしたら好きだということを見破られてしまうかと、勝手に思いながら。
ココアが提供されて一時間が経過しようとしていた。ココアは既に冷め切っており、もう腹を温めてはくれない。それにまだ飲みきっていないので、全て飲むと京介が伝票を持つ。どうやら、京介がココア代を支払おうとしているのだ。
「ちょうど五百円だし、僕にも出させてよ。今小銭あるし、ここででもいいから払わせて」
そう言ってから急いで財布を取り出した。五百円玉はないもの、百円玉が五枚はある。それを京介に渡そうとすると、手を差し出してくれた。なのでなるべく手を触れないように渡そうとしたものの、触れてしまった。自身のものよりもしっかりとした手に触れてしまいながら、ココア代を渡し終えるとすぐに手を引かせる。
立ち上がってから京介が会計を済ませると、そこで別れた。
「今日はありがとう、朝晴君。また今度」
「うん。またね」
京介に背を向けた途端に、切なさが強く出てしまう。この街の明るさも相まって、その影は濃い。朝晴は仕事のミスとそれに、京介に様々な嘘をついて後悔をしながら家に帰っていった。
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