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第8話 不穏な兆候

 空が薄っすらと青く染まり始めた頃、下着一枚の真王がグラスを運んできた。 「……そりゃ何だ」  毛布に包まった夕夜は、視線だけ動かして尋ねる。いくら慰めだからって、ひと晩セックスし通しは計算外だ。 「真王セレクションのハニーアップルソイスムージー。体力使ったっしょ、一杯飲んでから寝なよ」  真王は、性欲が尽きたかどうか怪しい笑顔で、とろみのある白い飲み物を勧めてきた。  他意はともかく、夕夜宅にミキサーはない。昨夜、夕夜のシャワー中に着替えもせず準備していたとみた。事後まで行き届いていることで。  もしかしたら、新歓の二次会でも、コマンドで従わせてしまった秘書たちをケアしたのかも――というのは買い被り過ぎか。  のそりと起き上がる。ベッドに腰掛けた真王を背凭れ代わりにする。真王はいやな顏ひとつせず夕夜を支えた。 「しっかし俺たち、身体の相性最高じゃね」 「……まあ身体はな」 「だろ。てことで、付き合わない? ただの隣人じゃなくて恋人になろうよ」  スムージーをひと口含んだところだった夕夜は噎せた。犯人に背中をさすられる。  セックス中、「好き」と、認めたての恋愛感情を口走ってはいないはずだが。 「夕夜さんが理想持ってるの聞いて、俺も『ふつうに恋愛できない』って諦めるのやめようと思ってさ。夕夜さんみたいなサブとなら、うまくいく気がする。あんたの運命のドムって、俺じゃね?」  真王は口調こそ軽いが、顏は真剣だ。  夕夜の心音が大きく速くなる。願ってもない――ニュートラルだったならば。 「プレイしてみねえと何とも言えねえ」  高ぶる身体と裏腹に、保留の言葉を告げた。 「んじゃプレイしよ、」 「てめえにプレイを強要もしたくねえ」  真王がはじめて食い下がってきたが、それもはね返す。  夕夜のために無理しないでほしい。意に染まないプレイがどんなに負担か、知っている。 「……、セックスはまたしてくれる?」  これも断るべきだが、夕夜はつい頷いた。眉尻を下げた、捨て犬みたいな真王の顏にやられたのと、夕夜自身恋心を捨てきれないから。  好きな気持ちひとつですべて満たし合えたらいいのに。  真王と恋人になるのを保留にして、数日。  若干の後悔を抱えて仕事始めに当たる。 (先に恋人になって、プレイ慣らしてきゃよかったか? でも、真王に一方的におれの好み押しつけるのは気が進まねえ)  他のドムを判定する気も起こらず、ひとり赤坂の会員制クラブを出た。  年明けの賑やかな繁華街を縫い、大通りへ向かう。みな新年会帰りなのか、タクシーがなかなか捕まらない。一方で尾行車は見つける。 (熱心だな。逆に感心する)  二階堂にハイヤーを頼もうか。いや、新年だし家族とくつろいでいるかもしれない。  ポケットのジッポを弄って、いらだちをやり過ごす。  不意に、目の前に白いマセラティがすべり込んできた。運転席のウインドウが開く。 「お疲れ。うちまで送ってあげる」  毛足の長いニットを着た、真王ではないか。無駄にウインクしてくる。  偶然通り掛かったのか? 驚いて立ち尽くしていたら、後続車にクラクションを鳴らされた。  追い立てられるように助手席に乗り込む。車内は真王の服と同じ匂いがした。 「後ろの灰色のバン、撒けるか」  和んではいられない。険しい目をサイドミラーに向けたまま訊く。難しければ適当に降ろしてもらおう。真王を面倒ごとに巻き込みたくない。 「お、カーチェイス? 俺の愛車ちゃんの性能ならお安い御用だよ」  真王は得意げに笑い、アクセルを踏み込んだ。  なめらかに加速する。信号で早くもバンを置き去りにした。  車窓に高層ビルが流れていく。何度か交差点を曲がれば、もうバンの姿はない。  ふう、と緊張を解いた。それを見計らったかのように、真王が言う。 「さっきの、いまいちだったドム? しつこいなら警察にチクっとけば」 「ふん。ドムとサブの痴話喧嘩は民事不介入だとよ」  夕夜は鼻で笑った。若い頃何度か駆け込んだが、当てにならない。ただでさえコマンド乱用の客観的な証拠を示すのは難しいのだ。  片手でハンドルを捌く真王は、「あー、ね」と何やらそわそわしている。 「何か言いたいことあんだろ。言え」 「え、なんでわかんの?」 「てめえはわかりやすいんだよ」  口説き言葉ではないのだが、真王はにやけた。その頬を摘まんでやって急かす。 「いひゃいよ。夕夜さんちテレビないし、ワイドショーのゴシップも見てないと思ってさ。最近、サブが海外出稼ぎさせられてんだわ。表向きは自分で渡航してっから、まだ立件とかには至ってないけど、組織的な売春斡旋が疑われてる。あんたも気を付けて」 「売春斡旋?」  夕夜は眉を顰めた。大晦日に欠勤した後輩は、依然連絡がつかない。念のため事務所に再確認を頼んでおこう。  真王の横顔を見やる。ゴシップと言う割に真剣だ。「カーチェイス」も、夕夜を安心させんと面白がってみせたように感じられる。  おそらく――守秘義務により明言はできないが、被害に遭ったサブからの相談が彼の事務所に寄せられているのだろう。  サブを本人の意思関係なく売り飛ばすとなれば、元締め側には間違いなくドムがいる。コマンドやグレアで制されないよう、ドムの弁護士が対応してもおかしくない。 「それで迎えにきてくれたんだな」 「そそ。あ、ちょっと休出もしたよ。上司は忖度して花形の企業案件回してくれっけど、俺なら個人的に関わってるやつでも成果出せ……なくもないんだわ、さり気なくな」  褒めてほしげにひけらかしたのを、夕夜の理想に沿うようにか慌てて差し引く。そんな真王の単純さに、今は和んだ。 「気になる案件とやらか」  大晦日の会話と、今回の話題がつながる。サブのために奔走しているとわかり、大いに真王を見直した。  夕夜の前では可愛くて性欲の強い犬だが、事務所では有望新人エースに違いない。 「うん。ただ、うちの事務所はあんま扱ってなかった案件だから、根回ししないとでな」 「そりゃご苦労」  たった一言の労いで、真王は一日の疲れが吹っ飛ぶみたいに笑った。  夕夜たちの住むマンションが見えてくる。駐車場は入居者以外入れない。安堵して降りようとしたら、ドアロックを掛けられた。  薄闇に真王の大きな目が光る。 「俺、クラブ遊び封印してんだよね。夕夜さんとしかセックスする気になんなくて」  なし崩しはよくないと頭ではわかる、が。 (今日は、真王のおかげで尾行撒けたしな)  礼代わりに、唇に噛み付いてやった。

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