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第9話 セーフワードは「ハズレ」

 一月末。  夕夜は下着も着けずベッドに横たわったまま、窓の月を眺めた。いい加減カーテンを買わなければ。  なんて考えていたら、背骨を撫でられた。 「もっかいする?」  月明かりを浴びる真王が微笑む。大手弁護士事務所といえば激務なのに、疲れ知らずだ。 「あ? 性欲ばかに付き合ってられっか」  喉を酷使したせいで、どすの効いた声になった。すげなく毛布にこもる。  でも、はみ出た金髪を梳かれるのは止めない。真王は慣れた手つきだ。  それもそのはず、仕事始めの日以降、数日置きに真王とセックスしてしまっていた。  こうならないよう連絡先は交換していないのに、ベランダや帰り道で行き合っては誘われ、意味を成していない。 (身体の相性がいいのが悪い)  真王の腕の中では正直でいられる。真王が悦過ぎて叫びながらイくのも、可愛い。コマンドを使わず、ふつうの恋愛みたいなのがよかった。 (いや、よくねえんだって。おれはパートナーが欲しいんだ)  身体を満たされると、想いが募る。  想いが募るほど、踏み込めなくなる。  かと言って切り替えられもしない。今まではすぐ次のドムにいけたのに。  何より、プレイせずにいれば「結局真王も他のドムと同じ」と失望することはない、が。 (期限決めて、とっととプレイ試そう)  ひそかに決意した。ずるずるセフレでいるのは、理想の恋愛を諦めるのをやめたという真王にも悪い。 「ね。最近ドムとアフターしてないっしょ」  真王も似た心持ちだったのか、普段の他愛ないピロートークでなく、夕夜のパートナー探しに触れてきた。声が張りつめている。  この機会を逃す手はない。夕夜は毛布から顔を覗かせた。 「気を付けろって、てめえが言ったんだろ」 「へ。――うん、そうそう。けど、プレイしてなくて体調平気なの?」  心配、と顔に大きく書いてある。  二回目のセックスの際、夕夜は真王に無理にプレイさせたくないと気遣った。今度は反対に、真王が夕夜に無理にプレイを我慢させたくないというわけか。  二階堂の顔が浮かぶ。別に二股ではないが、黙秘はフェアじゃない。 「月一回プレイするパトロンがいるから、平気だ」  申告した途端、真王が跳ね起きた。眉尻を下げ、口角も下げ、拗ねている。 「聞いてないんですけど!?」 「そりゃ言ってねえし。だがな、」 「いまいちなドムばっかなのかって油断してたわ、なら俺ともプレイしよ、今しよ今!」  怒涛の勢いで申し込まれた。パトロンとは利害関係だとかの補足も差し挟めない。  プレイするに越したことはないが……。 「セックスはこんな悦いんだし、そこにコマンドがつくだけって考えよ。な?」  コマンドでもないのに、真王の声が甘く響く。  それに後押しされ、夕夜も腹を括った。  セックスで満たされている今なら、その気になれるかもしれない。その気になれば従うし、コマンドで気持ちよくもなりたい。 「なら、おれを[サブスペース]に入れてみろ。[セーフワード]は『ハズレ』な」  [セーフワード]は、唯一サブがドムに出せる命令だ。抵抗の大きいコマンドを出されたり、従っても褒めや労いが足りず不安になったりしたら、プレイを中止できる。 「言ったな? 俺は『当たり』だし」  また素直でない言い方をしてしまったが、真王は愛想を尽かさず夕夜を見つめた。 (サブスペースに入れりゃ、運命だ)  してみたいが避けていた、プレイが始まる。 「夕夜さん、『おすわり(kneel)』」  夕夜は白床タイルに降り、ぺたんと女の子座りした。いきなり特殊なコマンドではなくほっとする一方、眉間に皺が寄る。  プレイは基本、「おすわり」で始まる。しかし夕夜はこのコマンドがしっくりこないのだ。 「ちなみに痛いの好きだったりする?」 「殴りたきゃ殴れ、百倍にして殴り返す」 「うん、夕夜さんがMじゃないほうが俺としても助かる」  夕夜の「おまえだけは特別だ」を表すのは、痛めつけられてやることじゃない。恥辱でもない。  とはいえ、これなら一発でその気になる、というコマンドも見つからない。 「とりま『よくできました(good boy)』っと。ボーイって感じじゃないか」  真王はSになりだからないので助かった。  プレイはドムがコマンドを出し、サブが応える。うまくできたら「ご褒美」、うまくできなかったら「お仕置き」を使い分け、コマンドの難易度を上げていく。 「構わねえ、続けろ」  難易度と、達成できたときの充足は比例する。よってこの違和感を消すべく、ご褒美もそこそこに次のコマンドを求めた。  だが真王は下着一枚で胡坐を掻き、指で夕夜の唇をふにふになぞるばかり。  真王の躊躇は、夕夜の嫌いな焦らしになる。睨まないよう努め、真王の声を待つ。 「えーと、あ、ちんこ『舐めて(lick)』」  真王は見得を切った割にぎこちない。  夕夜の反応が悪いせいだろう。挽回すべく、真王の下着を口でずらした。極上品を露出させれば、濃い雄の匂いが拡がる。 (真王のコマンドに、今んとこ抵抗はねえ。だろ?)  半ば自分に暗示をかけ、じゅるりとしゃぶりついた。先っぽを舌でつつき、頬をすぼめて吸い上げる。 「は、ぁ……っ、『じょーず(good)』」  たちまち真王が嬌声を上げた。夕夜の小さな頭蓋骨を両手で包んで引き寄せる。夕夜としてもフェラは巧い自負がある。 「んっ、ふ、んぅ」  夕夜も声が出始めた。唾液がたくさん分泌してくる。「美味い」と悦ぶかのように。  身体の触れ合いによる気持ちよさなら、感じられる。  亀頭の形が浮き出た夕夜の頬を、真王がうっとり撫でた。こういう表情を見せられると夕夜も気分がよくなる。  何でもコマンド言ってみろ、と真王を見上げる。  真王ははっと我に返った。咥内の性器も芯をなくし、居たたまれなさそうにする。  一転して暗雲が立ち込めた。 (そうだ、真王の本音は「支配したくない」んだ。支配っぽくねえコマンドは……)  夕夜は必死に頭を捻った。でも、真王とのプレイを成功に導いてくれるコマンドは浮かばない。  そんなコマンドは存在しないのだ。ドムとサブである限り、支配関係になる。 「……『下の口見せて(roll)』、くれる?」  夕夜がコマンドに応えなかったわけではないので、真王は「お仕置き」はせず、新たな、かつ変に捻りのないコマンドをくれた。  コマンドが効いているところを見せれば、プレイを立て直せる。  しかし夕夜の後腔はひくつきもせず、陰茎も萎えたまま。 (くそサブが)  真王が相手でも駄目なのかと、苦味がこみ上げた。サブなのに、なぜ好きなドムとプレイしても満たされないのだ。いっそふつうに従えて気持ちよくなれるサブになりたかった。 「……悪い。毒に中っただろ。コマンドが効きにくいおれのほうが『ハズレ』だな」

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