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第11話 したい、できない

「おかえり、夕夜さん」  仕事を終えてマンションのエントランスをくぐったら、後ろからスーツ姿の真王がモデルみたいに歩いてきた。  プレイ失敗以降、夕夜はばつが悪くてベランダにも出ずにいたが、五日で捕まったか。真王は今日こそ逃さないと、愛車で退勤後、駐車場で待ち伏せていたのかもしれない。 「パトロンって恋人じゃないんだよな?」  一緒にエレベーターに乗るなり訊かれた。顏には「恋人じゃないって言って」と書いてある。  押し負けて頷いてやれば、 「よかった。ところで腹減ってね?」  ときた。プレイ失敗を挽回しようとか、いつにも増して甘い声だ。  真王を想えば離れないといけないのに、離れがたくなる。  ただ、真王は自信を取り戻したふうに装っているものの、顔色が悪い。支配を伴わない愛し方が夕夜に届かなかったのが堪えている。  一緒にいたって傷つけるだけだ。  助け舟みたいに、夕夜のスマホが震えた。 [今夜時間をつくる。マンションで待っていなさい]  噂をすればではないが、二階堂からのメッセージだ。  真王に気持ちが向いていながら彼とプレイできそうもなく、会うのを先延ばしていた。痺れを切らしたのだろう。 「誰? それより夜食のリクエストは? てか俺にもメッセージID教えてよ」 「今日は食わねえ。寝ろ」  急な誘いを活用させてもらい、畳み掛けてくる真王を振り切る。  二階堂とプレイするなら、隣室に音が漏れないよう掃き出し窓の鍵を閉めておこう。  と思ったのに、リビングの中ほどで脚の力が抜けた。  どさりと頽れる。この感覚は。 (ちっ。サブドロップか……間の(わり)い)  夕夜はパラメータ値が不安定で、常に満たされていないゆえ、サブドロップに陥りやすい。  その割に、ここに引っ越してからははじめてだ。たぶん真王とのセックスのおかげ。  それが今週は真王を避け、仕事終わりの一服もしていなかった。  コートのポケットに入れたジッポを握り込み、深呼吸する。  消耗したサブをサブドロップから回復させるには、褒めそやす[ケア]が必要だ。ただし褒め下手ドムばかりなので、夕夜は自分で自分を褒めてしのぐ術を身につけた。 (十年も独りで頑張ってきた……、)  なのに今夜は早々に詰まる。  真王の腕の温かさを知ったから。うまくプレイできず真王に自信喪失させた自分を誇れないから。  プレイなしではまともに生活できないのも悔しい。分不相応な白床タイルを睨む。 「夕夜さん、そっちで音しなかった?」  窓越しに真王に呼びかけられ、愕然とした。倒れた音を聞きつけたらしい。地獄耳め。  まあ無視すれば諦めるだろう。今は大きい声も出せない。 (おればっか、甘えらんねえ)  出し抜けに、ドカッ、と不穏な音がした。  ドゴッ。再びベランダのほうで音。  バキャッ。前ふたつと音の感じが違う、なんてぼんやり思っていたら、 「夕夜さんっ! どっか痛いの!?」  真王が駆け寄ってくるではないか。身体の輪郭が月光に縁取られ、輝いて見える。  緩慢に頭を向ければ、ベランダに隔板の残骸があった。蹴破ってのけたらしい。ふたりの間の障壁を乗り越えてきてくれたみたいに感じ、手を伸ばしそうになる。  真王は夕夜の運命のドムではないのに。 「独りで、どうにかできる……帰、れ」  かろうじて呻いた。  しかし真王は夕夜の頬を撫でただけで、 「いやサブドロップだろ。置いてけるかよ」  と状況を把握する。 「ケアしたげる。ふふん、初対面と逆だな」  なんて嘯くが――夕夜を抱き起こす手が、震えていた。コマンドを出すのが怖いのだ。そんな状態で介抱させるわけにいかない。  それに、リビングには真王に見られたくないものもある。掃き出し窓の鍵を日頃から閉めておくんだったと、つくづく思う。  幸いサブドロップとしては軽めで、真王と話すうちに少し持ち直した。自力で立ち上がり、「ハウス」とばかりにベランダを指差す。 「いいっつってる。住居侵入罪で突き出すぞ。恋人でもパートナーでもあるまいし」  半ば自分への言い聞かせ。だが、真王はショックを受けた顏をする。 「……何だよ。あんたも、プレイできなきゃ『愛されてる感じしない』って言うの? 俺よりパトロンのがいーんだ」  そそるを通り越し、自己嫌悪した。  真王を否定するつもりはない。訂正したい。  掃き出し窓へ引き返す真王の後を追う。まだ脚に力が入らず、やむなくよろける。 「お、わ」  気づいた真王が受け止めようと振り向き、たたらを踏んだ。  結局、ふたりして転ぶ。 「()って、何か硬いもんに小指ぶっけた」  夕夜の身体の下で真王が唸る。その「硬いもん」が、どささと白床タイルに散らばった。 「ん? ポケット六法?」  表紙に憲法とか民法とか書かれた資格テキスト、判例集もある。掃き出し窓の横の赤外線ヒーターの陰に、まとめて積んでいた。  それらと夕夜が結びつかないのか、真王はきょとんと首を傾げる。 「あんたも弁護士目指してんの?」  夕夜はひたすら狼狽した。  学生時代、弁が立つので弁護士に向いていると言われ、満更でなかった。中二でダイナミクスが判明すると、青臭い夢ができた。  コマンドを使ったとき一定以上の脳内物質が分泌されるのがドムとサブ――など、科学の発展とともにダイナミクスの定義は整理されつつある。  だが法の整備はまだまだだ。  たとえばドムとサブの同性カップルを、社会の中でどう扱う?  たとえばサブの性質を他人に悪用され、心身を損なわれたら? 「断れたはず」と言われて泣き寝入りも多い。  そういったサブを助けられれば――なんて。  高三の冬。複数の大学の法学部を受験し、自己採点では合格点を上回ったにもかかわらず、すべて不合格に終わった。教師は「相良君はサブだったな」と憐れむような目をした。  このご時世、募集要項に「サブ不可」との記載こそないが、ドムの検察官や弁護士と対等に議論できなかったり、犯罪者に言い包められたりしないか危惧され、狭き門になっているらしい。  サブの法曹が少ないのは、サブ自体が少ないから以外の理由もあったのだ。片田舎で勉強ばかりしていた夕夜はそうと知らず、馬鹿正直に調査票を提出していた。 『受ける前に教えてくれりゃ……、それでも受けたな。結果は同じか』  他の分野に進路変更もしきれず、今の仕事に行き着いた。  夕夜を「成績のいい自慢の息子」と思ってくれていた両親には、サブに産んだ負い目を感じてほしくなく、「運命のパートナーを探す!」と立ち直ったように見せた。  派遣先の客の理不尽に言葉で対抗するうち、ますます口が悪くなった。  そのまま十年経った。他に何ができる? 溜め息を呑み下す。 「目指してねえ。早く立て」 「『待っ』、」  真王が手で口を覆う。咄嗟にコマンドで夕夜を言いなりにしようとしたのだ。  他のドムと同じだ。そんな面を知りたくなかった。  これ以上愛さなければ、愛されることもないが、傷つけず、傷つかずに済む。初恋みたいにきれいな思い出にできる。 (それでいい、だろ)  もう互いの性感帯も悩みも知っているのに?  自分を説得できず、真王の上から退けない。  言葉を探していたら、玄関扉がガタッと鳴った。  肩が跳ねる。引っ越し初日と似ているが、夕夜が鍵を開けずとも扉が開いて、長身の男が入ってきた。  パトロンの二階堂だ。  鉢合わせるとややこしくなる。とにかく真王を隣室へ追い返そうとする。 「父さん? 根回しの資料なら明日事務所で渡すって……てか、俺の部屋隣だけど」 しかし、真王が先に声を上げた。

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