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第15話 相応しくなりたい

 仕事を増やしたので週末も連勤である。  出勤前、掃き出し窓を細く開けて一本だけ煙草を咥えた。まだ隔板は修理されておらず、ベランダに出たら姿が丸見えだ。 「お、今日休み? 資格の勉強進んだ?」  真王の声だ。隠れた意味がなかった。  数日前に突き放したのが効いていないみたいに軽く、やはり魅惑的な声だ。気持ちがぐらつかないよう、そっけなく答える。 「古本は捨てた」 「えっ。あんた本当はどうなりたいの」 (……真王のくせに核心衝きやがる)  夕夜は言葉に詰まった。なりたいものや、叶わない夢や、捨てた恋が交錯する。  その隙に、 「俺はさ、変わるわ。夕夜さんの恋人に相応しいドムになってみせる」  と、真王が姿を見せないまま語り始める。 「手始めに、父さんの持ち物のマンションは引き払う。こうやって話すのは最後だと思って聞いて」  最後と言われて、背筋がひやりとした。先に終わりを決めたのは自分なのに。 「あ、命令じゃないよ」  夕夜は、甘い香りの煙をひと筋吐いた。自分の意思で隣にいると伝えるために。話に耳を傾けるくらいなら、未練にはなるまい。 「前にコマンド使いかけたのは、謝る」  ……やっぱり聞いていたくない。  謝るべきなのも、相応しくないのも、夕夜のほうなのだが。 「そうまでして一緒にいたかったんだ。飲みながら頭撫でてくれたときから、てか連れ込まれたときも、身体目当てじゃない。プレイ目当てでもない。ただ夕夜さんと一緒だと、居心地がいい。俺が俺でいられる気がする」  それも夕夜の台詞である。プレイ以外は相性抜群だ、と苦笑いせざるを得ない。 「支配しない愛し方じゃサブドロップになっちゃうかもだけど、ケアするし……俺のが夕夜さんを大切にできる。だから父さんには『夕夜さんと別れて』って言うつもり」  ――は? 急展開に、危うく煙草を落とし掛けた。  別れるも何も、利害関係だが。 「一回ちゃんと話すべきだったんだ。今まで何だかんだ甘えてた。てわけで明日十七時、この部屋であの人と話つけるから、窓開けててくんない? 夕夜さんが聞いてくれてると思ったら頑張れる。んじゃ、また明日な」  真王は言うだけ言って話を切り上げた。何とも横暴だ。  でも、「変わる」の一言が耳に残り、無視できない。  夕夜も変わりたい。……変われなかった。真王と一緒だったら?  振り子のような想いを抱え、月を眺めた。  日曜、リビングの窓際で胡坐を掻いた。ヒーターはつけず寒風が吹き込むままにする。 「わざわざ呼び出すほどの用件なのか」  時間どおりに、二階堂の声が聞こえてきた。 「うん。まず、あんたの事務所辞める」  耳を澄ますや、真王が端的に切り出す。  夕夜は眉を顰めた。たとえコネでも大手でのキャリアを捨てなくても、と思う。 「入所三か月も経たずに音を上げるのか。いい案件を回してやっているのに」 「……、感謝してるよ。けど、これからは自分で考えて自分で選ぶって言ってんの」 「失敗から学びたいなら、好きにしなさい」  二階堂は、せっかく引いてやったレールから外れるのが理解できないという声色だ。 「失敗上等だわ、そっちのが味がある」  だが真王は怯まない。その啖呵に、夕夜は無意識に背筋を伸ばした。  プレイ失敗を怖れて背を向ければ、傷つけも傷つきもせず済むが、味気ない……。 「次に、パートナーの件だけど。夕夜さんとは別れてください」  真王は一転して敬語を使った。めったになく頭も下げているかもしれない。 「そんなに私の物が欲しいかね?」 「そうじゃなくて、あの人が好きなんだよ」 「『血迷うな』。あれは男娼だ。愛人として共有させてやるから、それでいいだろう」  一方の二階堂は、さらりとコマンドめいた言い回しも含めて、いつもどおり。  夕夜は口の端を歪めて笑った。サブが周りの人間にどう見られているか、知っている。 「……は? いいわけあるか! 男娼って言い方もやめろ」  むしろ真王のほうが怒り露わに叫ぶ。ガタンと何か蹴って立ち上がる音もした。 「おまえも先週見たろう。サブの本能を」 「あんたがひとりで気持ちよくなってんのなら見たけど? 無理やり支配しやがって」  いまいましげに言う。真王は支配以外の愛し方を諦めていない。  その声を聞くと、不思議と力が湧いてくる。 「サブはドムの相手以外できない。ドムの支配下に置いてやるのが道理だ」 「そりゃ、ドムが恵まれてるぶんだけサブは生きにくい世の中だけど……あの人の限界を決めつけるな」  指先がちりっと痺れる。  法曹の夢も、理想のパートナーを見つける夢も、叶えられると信じてくれた人はいなかった。いつしか夕夜自身も、心のどこかで叶わないと諦めていた。だからいざ叶いそうになったら、後退りした。  でも、真王は信じてくれている。 「ドムとして当然のことができていないのに、私に意見するのか?」 「ど……どら息子が父親と意見違ってもいいだろ」  子が押され気味な父子の言い合いが続く中、夕夜は凛と立ち上がった。  好きな人をまた傷つけてしまう可能性があっても、それで自分が傷つくのが怖くても――真王を諦めたくない。  コマンドではないのに、コマンドより強く、真王の言葉に動かされた。  橙から紺へと変わりゆく冬空を横目に、ベランダを横断する。  真王の匂いでいっぱいな部屋で抱かれたら引き返せなくなる気がして、一度も訪ねたことはなかった、が。 「失礼します」

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