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第7話
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ゆっくりと瞼を開くと、どことなく見知った天井が視界に映る。視線を彷徨わせれば、視界の端に黒い艶やかな髪が見え、先程までの行為がありありと思い出された。ふと見れば乱された制服は整い、乱した当の本人はソファに凭れるようにして床に座っていた。
すっかり陽は落ち、窓の外で星が一つ二つと姿を見せている。
どれだけの時間気を失っていたのかハッキリと分からないが、下校時刻はとっくに過ぎてしまったのだろう。校庭に響いていた生徒の声は聞こえなくなっている。蓮は慌てて体を起こそうとするが、動いた瞬間全身に痛みが走り、顔を歪めた。
「っ」
蓮が漏らした声に気づき相神が振り向く。腰から下に残る痛みと相神の顔を見たことで、先刻までの出来事が鮮明に蘇った。
体に負担がないように気にしながらゆっくりと体を起こす。相神を受け入れていた部分の違和感は拭えないが、痛み自体はゆっくり動けば我慢出来る程度で、どちらかと言えば気だるさの方が強かった。蓮が上体を起こしたことを横目で確認すると、相神はスッと立ち上がり、「帰るぞ」と二人分の荷物を手にした。情事後の甘い睦言などは皆無で、そんなところは相神らしいと思いつつ、蓮は慌ててその後ろをヒョコヒョコと着いていく。
校門を出る時警備員に早く帰るよう注意をされたが、遅くなってしまった理由が理由なだけに、蓮は赤面しながらすみませんと謝った。
「…帰るぞ」
だが悪びれた様子を欠片も見せない相神は少し呆れた顔を見せている。早くしろと目で促され、蓮は素直に従った。相神についていきながら家路を辿る。
「先輩の家ってどこですか?」
「…あっち」
相神は特に方向を指差すでもなくそれだけ答えると、黙って歩みを進めていく。その斜め後ろをついていくように蓮が歩く。それは蓮にとって不思議な感覚だった。
見慣れた通学路に相神がいるだけでまるで違う景色に見え、このまま家に着かなければいいのに、とまるで乙女のように願ってしまう。
「あ、僕んちここなんで」
特に会話を交わすわけでもないのに、無情なほど時間が経つのは早かった。ひたすらその背中を眺めながら歩く。ただそれだけなのに、時間がいくらあっても足りないくらいその背中を見飽きることがなかった。
「荷物、ありがとうございました」
蓮は名残惜しさを感じながらも相神から荷物を受け取り、お礼を口にする。自然と緩み始める口元を止められない。蓮は今この現実が夢ではないかと思いながらも、目の前にいる相神を見るとそれすらどうでもよく感じ、嬉々として家の中へと入っていった。
カチャッと音を立て玄関が閉まる。相神はそれを確認すると、もと来た道を戻り始めた。
翌日の昼休み、蓮はドキドキとした胸を抑えながら図書室を訪れた。そして真っ直ぐにソファを目指す。そこにはいつものように眠る相神の姿。恋人になれたことが夢のようで、蓮は柄にもなく浮かれていた。
昨日、この場所でこの腕に抱かれたのだ。好きな人に抱かれて浮かれずにいれるはずがない。
傍らに立ちその黒くサラサラとした髪に触れると、僅かに相神の目蓋が動く。その仕種すら愛しくて、思わず目を細めて微笑んだ。
薄っすらと相神の目が開く。
「あ」
「ジロジロ見てんじゃねぇよ」
「え…」
起こしてしまったのではと危惧し声をかけようとした刹那、相神のその言葉に蓮は何も言えなくなった。呟いた相神は何もなかったように背凭れ側へと寝返りをうち、再び寝息を立て始める。昨日確かにここで相神に抱かれたはずなのに、なぜこうも素っ気無い、以前と変わらないような態度を取られているのか。
好きになれ、と囁いたのは相神だ。彼から愛されているはずなのに。
ふとそこまで考えを巡らせて蓮は気づいた。好きになれと言われたが、相神の気持ちは何一つ聞いていない。更に言えば、会えば喧嘩ばかりで、委員会以外のことで話したことは殆どない。
蓮は初めて会った時、こうして眠る相神に一目惚れしていたのだから、後はそうなることが当然のように好きになっていった。
相神は一体いつ好きになったのだろう。
どこを好きなのだろう。
そもそも、相神は自分のことを好きなのだろうか。
雰囲気や興味本位で何となく抱いただけなのかもしれない。
そんな考えが頭に浮かび、向けられた背中に空しさが募った。相神の背中を暫く見つめた後、蓮はそっと司書室へと向かう。そこには思った通りの人物がいて、蓮は泣きつくように縋った。
「どうした、蓮?」
司書室の扉を閉めると、蓮は振り絞るように呟いた。
「ナツ……僕、相神先輩が好きです…っ」
「蓮…?」
思いつめたような顔をする蓮にいつもと違うと悟ったのか、ナツは読みかけの本を閉じ、隣に座るよう促した。
何かあったのか、と言葉で問わないものの、その視線が問いかけている。
「昨日、先輩が……俺を好きになれ、って…」
「相神が?」
一瞬怪訝な顔を見せたものの、ナツは問い返し、蓮は首だけで頷いた。
「だから僕…好きですって返したんです」
今度はナツが頷き返す。
「でも気づいたんです…相神先輩は何も、何も言ってくれてなくて……元々先輩には嫌われてたから、昨日のことは夢だったのかなとか、その…っ」
蓮はその先を言葉にするのが怖くて涙をグッと堪えるように口も噤んでしまう。言葉にすれば、余計に現実味を帯びてしまいそうで、怖くて仕方がなかった。愛されたと感じたあの瞬間が嘘だと思いたくなかった。
「嫌がらせだったのかもって、遊びだったのかもって思ってる? 蓮を惚れるだけ惚れさせて、手酷く捨てるつもりなんじゃないか、とか」
ナツの言葉に再び頷くが、今度は耐えていた涙もこぼれた。それをジッと見つめた後、暫く時間を置いてナツが口を開いた。
「…まぁ相神もよくわかんないところあるし、気をつけた方がいいかもな」
「ナツが…人をそんな風に言うなんて珍しいですね」
そう呟く蓮の瞳には後悔の念が浮かんでいる。
やっぱりそうだったのかと。相神は自分のことなんか好きではないのだと。
それなのに相神も好きでいてくれたと勝手に勘違いして、思い込んで、更に相神を愛しく感じて…体を許した。
どうして気づかなかったのか。相神は心の中で容易く騙された自分を、無様だと蔑んだり、卑下したりしていたのかもしれない。
こぼれた涙を袖口で拭う。
「気を、つけます」
それだけナツに返すと蓮は立ち上がった。
今気づけただけ良かったのかもしれない。これ以上好きにならなければ、今より深い傷を負うこともない。
もう好きにならない。
蓮は心の中でそう誓い、扉を開くと司書室を後にする。
「あいつが…そんな器用なわけ、ないじゃん」
パタリと閉じた扉に向けて呟いたナツの言葉は、誰の耳に届くことなく消えた。
それ以来蓮は、出来るだけ関わらないようにと相神を避け始めた。それは蓮にとって当然だった。顔を見れば好きになっていった時と同じように、それがまるで自然であるかのように想いが募ってしまう。だから避け続けた。
顔を合わせないよう月曜以外は図書室を訪れず、仕事の時は出来るだけナツの傍で過ごした。また同じようなことを相神に囁かれれば、確実に相神に流されてしまう。抗うことが出来ない自信があった。
好きにならないと決めたのに、生まれてしまった気持ちは少しも消えてくれない。
相神はあの日以来、特に何を言ってくるでもなく、以前と変わらない態度だった。口を開けば皮肉や嫌味で、口調もきつい。それが余計に蓮には辛かった。まるであの日のことはなかったことのようで。
「蓮、帰ろー」
委員会の作業も殆ど終わる頃、ナツが鞄を持って司書室から出てきた。
「最近、何だか二人とも、以前にも増してベッタリって感じね」
梨那が不思議そうに首を傾げ、訊ねてくる。
「そんなことないですよ」
蓮は苦笑を浮かべながらもやんわりと否定した。相神は梨那の言葉にも特に興味を示すでもなく、鞄を手にするとさっさと図書室を出ていく。ただ、今日はいつもに比べると不機嫌だったようにも思えた。出来るだけ視界に入れないように、避けられていた気がする。好きだなんて言葉にしてしまったから、嫌悪感を持たれたのかもしれない。
やっぱり…。
蓮はその先を考えるのが怖くなった。その先には真っ暗な闇しかないような気がして、怖かった。
「蓮? どうした?」
思い耽っていると、パッと眼前にナツの顔が現れる。蓮は驚いた勢いで後ろに仰け反り、ドンッと派手な音をたてそのまま転んでしまった。
「大丈夫か?」
焦りながらも、笑いを耐えたような表情でナツが手を伸ばす。蓮はその手に掴まり立ち上がるが、転ぶほど驚いてしまったことがあまりにも恥ずかしく、大丈夫としか答えようがない。派手な音だった割には尻餅をついただけだったので特に怪我もなく、大した痛みはない。それよりも、相神との中途半端な関係の所為で痛み続ける胸の方がよっぽど痛い。
相神の考えていることも分からなければ、気持ちすら見えない。いつまで苦しめばこの傷は癒えるだろうか。
自然と自分の表情が暗くなっていくのが分かった。
「帰るぞー」
蓮は鞄を手にすると、ナツに手を引かれ昇降口へと向かった。
昇降口に着くと、柱の陰に相神が立っているのが見えたが、目が合っても特に何か言うでもなく、ただジッと蓮を見ている。
何か言いたいことでもあるのだろうか。
蓮の中にあの拒絶された日の心苦しさが戻ってきた。あんな言葉を面と向かって再び言われたら、今度は立ち直れないかも知れない。否、確実に立ち直れないだろう。
「蓮?」
先に靴を履き替え終えたナツが名前を呼ぶ。ハッと驚いたように蓮が顔を向けると、ナツは既に相神を見ていた。
「あれ? 相神じゃん。まだいたの?」
先に帰るな、と蓮に声をかけ、ナツはそのまま相神に近づいていく。二人で何か話しているようだが、蓮の位置からはよく聞こえない。遠目で様子を窺いながらも蓮は急いで靴を履き替える。
靴を履き終える頃にはナツは相神の隣からいなくなっていた。蓮が近くまで行くとカッと目を見開き、怒りを露にした相神の顔が見えた。
「お前っ!」
蓮に気がつくと睨みつけるような視線を向け、その胸倉を掴む。
「誰がお前なんか……っお前なんか……好きになるかよっ!」
辛辣な言葉を吐いた後、荒く息を吐く相神。バッと押し遣るように手を離すと、相神は背を向け去っていった。
今のこの状況に思考が追いつかず、蓮は押し遣られた身体をそのままに、ただ呆然とそれを見送っていた。
相神の背中が遠のくにつれ、徐々に脳が働きを取り戻す。
『好きになるかよっ』
確かに相神はそう言った。
蓮の脳内を静寂が襲う。
突然の出来事に心臓は止まってしまったように鼓動も感じなければ痛みすら感じない。それなのに開いた目からは涙が溢れて止まらない。
明らかな拒絶の言葉を、頭が理解するより先に体が反応していた。
どうして急にこんなことを言われたのか。好きでもないのにどうして抱いたりしたのか。本当にただの嫌がらせだったのだろうか…。
きっとそうなのだろう。そうハッキリと相神が言ったのだから。でも、そうまでして嫌われる理由が蓮には分からない。
一度止まった心臓が痛みを伴ってドクドクと鳴り始める。それを隠す胸が痛くて、痛くて死にそうだった。どんなに手で覆い隠しても、その痛みを秘すことも、ましてや取り除くことも出来ない。消えない痛みが胸の奥を抉っていた。
空からハラハラと静かに雨が降り始める。頬を伝うものが涙なのか雨なのかもう分からなくなっていた。
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