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第5話 オショー
現代のオショーこと犬塚鍾馗は終戦の翌年に生まれた。1946年。
1970年代に「戦争を知らない子供たち」という歌が流行った。その歌の世代だ。
この戦後生まれでまさしく戦争を知らない若者は、日本の高度経済成長の波に乗ってアメリカの大学に行った。その頃は神社も信心深い氏子がたくさんいて、宮司の息子も外遊させてもらえた。
世界を見て学びたい事はたくさんあった。
1976年、アメリカは建国200年を祝い国中が浮かれムードで日本人にも優しい。
インド文化やヨーガと並んで「禅」がブームで日本文化を研究する若者も多かった。
まさにニューエイジだ。
大学のドミトリー(寮)は二人部屋で、鍾馗とブライアンは同じ部屋になった。
鍾馗のようにバックパッカーになって世界を見てから学生になるのも、珍しくなかった。
鍾馗はロスアンゼルスに来る前は、インドプーナのラジニーシのアシュラムにいたから、ブライアンは話を聞きたがった。
晩年のラジニーシがオショーと名乗ったのを真似て、鍾馗もオショーと自称している。
そしてブライアン・メイストームに「無頼庵・五月雨」という漢字をあてた。
5月の雨は春の嵐か。彼は漢字で書かれたその名前が気に入って、いつもサインに使うほどだった。ドミトリーのドアにも犬塚鍾馗と並べてこの表札をかけていた。
父の名付けた鍾馗の名は中国の道教の神から取ったらしい。
唐代に実在したと言われている。犬塚神社の先祖にも鍾馗という息子がいたようだ。その時の息子は訳あって養子に出されたらしいが。
鍾馗は日本人にしてはデカい。身長190cm、体重は100kg近い大男で、長い髭がまさしく鍾馗の風貌だった。
ブライアン・メイストームは『日本文学』を研究テーマにしていた。
そんな訳で、帰国が決まった鍾馗に付いて日本に来た。
久しぶりの日本、久しぶりの神社の森、九十九里の海の美しさも変わっていない。
ブライアンも感激しているようだ。
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