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第10話 玉梓の年令

 宇宙規模では人間の歴史なんてほんの一瞬、みたいなものだろう。一体誰が全てを理解できるだろう。観念的にわかったつもりでも、それを検証する事は出来ない。  伊邪那宮司は言う。 「わかる必要はないのだよ。 人の理解を超えてだだそこにある。 一体いつからかという質問には、無始無終、としか言いようがない。  初めなく終わりなし。 私は生命の流れは巨大な『メビウスの輪』のようだ、と思うのだ。  始まりもない、終わりもない、生命の連鎖か。」  鍾馗は『妙』という言葉を思い浮かべた。 (どうも私は、神道より仏教に親和してしまう。 まあ、どちらも人間の考え出したものだ。  私は神も仏もない、と思って生きてきたから。 親父の言う事は、神の概念より根源的なものなんだな。) 「鍾馗、玉梓の年令を知っているか?」 父はいきなり聞いた。  よく考えたら、玉梓の生年月日を知らない。 自分よりはずっと年下で、なんか学校には行っていた記憶がある。高校生の頃のセーラー服の美しさは近所でも評判だったはずだ。 「五百才、いや、それ以上だ。誰もわからない。 神社の古い文献にも玉梓のことが書かれている。数百年前の文献だ。」  鍾馗は幼い頃の記憶をかき集め、辻褄を合わせようと虚しい努力をした。  玉梓は昔の記憶をほとんどなくしている、という。それはそうだ。全部覚えていたら気が狂う。長く生きるのはどんなにツライだろう。覚えていない事はせめてもの救いだ。  普通の人間とは違う細胞の代謝なのか? 身体が衰える事はないのか?  肉体は老衰で弱っていくだろうに、何故かいつまでも若くて美しい。誰が玉梓だけにそんな『業』を負わせたのだ?  鍾馗が覚えているのは、自分が世界を見て周っていた頃から家には玉梓がいた、という記憶だ。  何の違和感もなく妹のように家に溶け込んでいた。いとこだという事で一緒に暮らし、妹のように思ってきた玉梓が哀れでならない。  鍾馗には、一緒に育ち、大きくなった玉梓の記憶がある。あれは一体何だったのか。  玉梓の生きる時間には何処かに『特異点』があり、繰り返されるのか?  裏の石の橋も玉梓の存在も、理解の範疇を超えている。しかし、ただ、そこに、ある。

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