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第110話 リストカット

 下北沢から帰って来て、琥珀は落ち着かない気持ちになった。一触即発の雰囲気は何とか回避したが、五月雨の暴力性を垣間見た気がしている。  五月雨は強いのだ。なにか、こう、神がかって強いのが琥珀にはわかる。わかってしまった。 「何で、暴力に親和してしまうんだろう。」  メイ先生は穏やかな優しい先生だったはず。仮面をかぶっていただけなんだ。  琥珀を殴ったりはしない。絶対に酷いことはしないと信じられる。 「琥珀を守るためなら何でもするよ。」 と言った。    この所、また、リストカットに逃げるようになった。古傷を隠すためにリストバンドをしているが、新しい傷も増えている。 (俺は弱い人間だ。いつも逃げ場を探している。)  五月雨は琥珀がリストカットをやめられないのに気付いていた。 (どうして、僕じゃダメなんだ。 満足させられないのか。 不安にさせてしまうのか。)  咲耶さんのロックバーにやっとハコバンが出来そうだ。メンバーが落ち着いた。  粟生がヴォーカル。犬遠藤さんのギターと五月雨のドラム。松ちゃんのサックス。上達して来たハヤシのエレキベース。  安定の顔ぶれだ。その日もライブの練習に集まって来た仲間たち。ラッパーたちもギャラリーになっている。  粟生が五月雨と琥珀を見つけると、 「お揃いのリストバンドなんかつけちゃって、何よ。」 そう言って一瞬の隙をついて琥珀の手首のリストバンドをむしり取った。 「あ、琥珀、大丈夫か。」 五月雨が駆け寄る。  その場にいた全員が固まっている。琥珀の手首を凝視しているのだ。  そこには古傷から新しいものまで、禍々しい無数の傷が刻まれていた。はじめて目にする者もいる。 「うん、大丈夫。 粟生が見たかったのはこれか? そう、リストカットの痕だよ。  死にたいと思ってた時期があるんだ。 高校生の時、深く切って救急車で運ばれた事もある。何で死ねないんだ!って絶望したよ。 メイが救ってくれたんだ。 暴き立てて面白いか?」 「ごめんなさい。 でもリスカって女々しいよね。 女の子のやることじゃん。」  粟生は膨れっ面で謝る気はない。 五月雨の心を独り占めしている琥珀が憎らしかった。何もかもが手に入れているような琥珀が許せなかった。

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