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第133話 三郎

 サブがジョーに「ネットに面白い書き込みを見つけた」と言って見せて来た。 ーー人間と宇宙の事。森羅万象の事。  人は死んだらどうなるのか、いつも考えている。消耗する肉体。やがて死ぬのは肉体だ。  それでは精神はどうだ?精神、あるいは魂、呼び方は何でもいいが、この心は何処へ行くのか。  古今東西、色々な考えが発表されて来た。特に、あらゆる宗教が、その死生観を語って来た。  中でも仏陀の残した教義にヒントがありそうだ。  今、地球上に生きている生命体は、生物としての限界がある。身体は驚くほど脆い。その精神はもっと脆い。しかし、強靭でもある。  精神は「一念三千」と仏陀は解く。解釈は様々だが、多分、一瞬の思いに三千の思考が含まれる、と拙者は理解した。  科学がもっと進めば、当たり前にわかることかもしれない。  今の人類にはまだ早い、と言うことか。科学の進歩によって人類は謎を少しずつ解明し、当たり前の事にして来た。  きっと精神の行方もわかる時が来るだろう。答えは一つではないのかもしれない。  人間は不完全な肉体に縛られている。個体差はあるが、長くても100年前後の身体。人類はその中で精一杯生きて来たわけだ。  そして歴史を繋いで来た。もしかしてこの宇宙のどこかに、もっと進んだ生命体が存在するとしたら。肉体を超越した精神だけの存在とは、どんなものだろう。  時間からも空間からも自由なのだ。死、の概念も超越しているはずだ。  その存在は肉体を持たない。たから死ぬ、と言う事も、今の人間の感覚とは違っている。  個体差があるかもしれない。まず、個人という存在がある。やがて、その個人の精神が個体から離れる。人の死、にあたることか。  個々の精神が、死、のようなキッカケで個体を離れて集合する。その場所では、大きな一塊の精神の集合体になるのと同時に個々の精神の記憶のようなものは残っている。  まさにデータベースだ。それに気づいた人は他にもいて、それが様々な宗教となったのかもしれない。そう、あくまでも「かもしれない話」だ。  思念、精神は死をキッカケにデータベースで自分が個として生きていた人生を振り返る。  できる範囲で修正をしたり、次の個として誕生するために備える。  それと共に、集合した精神は巨大な存在となってこの宇宙のどこかに集まる。それ自体が生命体でもある。そこには時間の観念もない。朽ち果てる肉体もない。終わりなき魂の集合体が、ある。  もしも肉体の縛りがなかったら、生きるって事はこれほどつらくはないかもしれない。  ああ、また「かもしれない話」だ。ーー 「パラノイア、だな。サブ、戻って来い。」 ジョーがサブを抱きしめて声を上げる。

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