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第245話 涅槃寂静

 五月雨を訪ねて、涅槃寂静のボスがロックバーにやって来た。 「やあ、あの日以来ですね。 その後、どうですか?」 「ああ、虚無だよ。」 悲しそうに言うボスに五月雨は 「全くの、無、ではないでしょう。 涅槃寂静なんだから。」 「ああ、数学教師の君なら気付くと思ったよ。 涅槃寂静は無ではない。 仏教では一番小さい数、だ。 どこまで行っても、無,ゼロにはならない。」 「数学的にも10のマイナス26乗ですから、無いに等しい、けれど、有る。」 「さすがだ。 飛鳥はいつも君に抱かれる事を夢見ているよ。  目の当たりにした君たちの性愛に心を奪われたようだ。」 「相手が琥珀だから、ですよ。 琥珀でなけれは愛せない。」 あの美しい女(ひと)に認められたようで、五月雨は、嬉しいと単純な感情を持った。 「飛鳥さんは相変わらず、お仕事を続けているのですか?」 「ああ、劇場のマドンナだからね。」 「ファンがすごいでしょう。」 「休みが取れないんだよ。」 「一つ伺ってもいいですか? ボスのメインの職業は、何ですか?」 「ああ、疑問に思うだろうね。強いて言うなら 遊び人、とでも。」 「不思議な人だ。F市の涅槃寂静と言えば全国に知られたラッパーチームじゃないですか。」  総勢数百人とも言われるF市のラッパーの頂点に立つ、涅槃寂静だ。 「私の個人的な話は退屈だよ。 ガキが喜ぶ武勇伝になってしまう。 面白くない。」  近いうちにラップバトルをやろう、と言って帰って行った。もっと何か話したそうだったが。あんな媚態を見せ合ったのだ。 謙虚な人だ。  五月雨は、ボスと飛鳥さんの事が気になったが 他者にできる事はない、と介入を遠慮した。  あれ以来琥珀が少し変わったようだ。 人前でプライバシーを晒してしまったのだから、 大きな傷になったのではないか、と気に掛かっている。  五月雨も大切な琥珀を人前に晒したようで思い出すとつらい。 母、玉梓にひどく叱られた。 「琥珀ちゃんの気持ちを考えなさい!」 こんなに玉梓に叱られた事は子供の時にもなかった。

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