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第252話 ワンダフルトゥナイト

 粟生が気を利かせて、思い出の曲を演奏した。 五月雨と琥珀にとって、心から愛し合った夜を思い出させる、大切な曲だった。 (先生はオレを泣かせるつもりか。)今夜でこの町を出て行く。タイジにだけ話してあった。  『無頼庵』に私物を運んでいつでも出ていけるようにした。タイジが手伝ってくれた。  思えば、タイジはいつだってニュートラルな立ち位置を崩さなかった。  こんなタイジには、サイコも一目置いていた。 それを知っているから、琥珀は出ていく事をタイジにだけ、話したのだった。 (おじいちゃんの家に行く。しばらくは。 仕事を探して一人で生きていく。)  このまま終わってしまうのか? それで良いのか?  五月雨は気が狂いそうだった。  ライブが終わって後片付けをして、タイジが車を出してくれた。  機材を運ぶために乗っているハイエース。 こんな時には便利だった。  いつもの職業ミシン。これは手放せない。 それといくつかの裁縫道具。琥珀の宝物だった。  指に細い金の指輪。外して、でも捨てられない。そっとポケットにしまった。  五月雨が指に嵌めてくれた指輪だった。 おそろいのリストバンドは手首に付けていく。 五月雨がくれたものだ。リストカットの痕を隠すために手首に付けてくれた。 「大丈夫だよ。 琥珀の悲しみは,僕が引き受けた。」 五月雨はいつも、そう言ってくれた。  もう大丈夫だ,って思えたんだ。 リスカをするのは女々しい事だ。わかっているけど、止められなかった。  メイ先生と暮らして、手首を切らなくても大丈夫、って思えた。 「メイ先生がいないと生きて行けない。」 泣いてしまう。 「琥珀、戻ろう。メイ先生の家に帰るんだ。」 タイジが言ってくれた。  首を横に振る。もう嫌なんだ。自分の性癖。 そもそも、そこから始まった葛藤だった。 「厄介な性癖だ。俺はマトモじゃない。 タイジ、ありがと。おじいちゃんの家に行くよ。」  おじいちゃんの家は少し都会のK市にあった。

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