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第3話
中学生になるとそれまでのように小突いたりくすぐったりしてくることはさすがになくなったが、用もなく構ってくるのは相変わらずだった。幾重にも囲んでいる友だちの輪をするりと抜けて、陽平はいつでも気さくに猫美に声をかけてきた。
――おう、一緒に帰るか!
――甘味屋寄ってくか? あんみつおごるぞ。
――今日《黒猫堂》行っていいか? 晴江ばあちゃんの顔見たいしな。
しばらく会えなかったときなどは、わざわざ学校の裏山の猫の溜まり場まで猫美を捜しに来ては、他愛のない話を一方的にしていったりした。猫美はほとんどしゃべらないので、静かな山には陽平の張りのある声だけが響き渡り、ノラ猫たちは若干引き気味に生温かい目で二人を見守っていた。
中学・高校とそんな日々が続いてきた中で、猫美にとっても陽平がそばにいることが普通の日常になっていた。だから六年前、陽平が大学入学とともに地元を離れ上京してしまったときには、自分でもびっくりするほど情緒不安定になった。あるべきものが突然消えたような、そんな感覚に襲われたのだ。
猫美の様子がおかしくなったことに、店に出入りする馴染みの猫たちは気づいたのだろう。皆さりげなく猫美を気遣い、言葉を尽くして慰めてくれた。
――二人ともちょうど大人になる時期なんだよ。猫美もそろそろ自立しないと。
そんなふうに叱咤激励してくれる猫もいた。きっとそのとおりなんだろうと思った。
子どもの頃からの腐れ縁、不思議な幼馴染み関係もそろそろ終わり。大人になり羽ばたいていった陽平は、手のかかる変人の友のことを忘れ、東京でまた新しい友だちを百人増やすのだろう。そう思っていたのだが……。
(なんでだろう……?)と、猫美は改めて首を傾げる。
上京してからも陽平は頻繁に帰省しては、高校卒業後祖母の仕事を手伝っていた猫美のところを訪れた。高校までとまったく同じように気さくに、東京の銘菓片手に、よぉ、来たぜ、と片手を上げて。
祖母が病で倒れてからはさらに足しげく通い、頼れる親戚もいない猫美のフォローをしてくれた。入院手続きやら、祖母のやりかけの仕事の引き継ぎなど、社会性の低い猫美だけだったら、すべてを一人でこなすのは難しかったかもしれない。
そう、祖母を見送ったときだって彼がそばにいてくれたから、猫美はちゃんと立っていられたのだ。
そのときのことを思い出しそうになるといつでも、胸全体がもやもやと悲しみ色の雲に覆われてくる。浮かびかけたあの日の斎場の風景を、猫美はふるふると首を振って心から追い出した。
仏壇の前でじっと手を合わせていた陽平が、俯いていた顔を上げ目を開ける。そして正面の祖母の遺影に向かって、声を出さずに何か語りかける。何を言っているのかはわからないが、一連の流れの後彼は必ずそうするのだ。まるで大切な儀式のように。
遺影を見つめる澄んだ優しい瞳は、臥せっていた祖母のところにしょっちゅう見舞いに来てくれていたときと変わらない。痩せた祖母の手をさすりながら、面やつれした顔をそらさず見つめ、陽平は今と同じ目で励ましてくれていた。
――晴江ばあちゃん、今日はいつもより顔色いいし美人に見えるぞ。こりゃーすぐによくなるな。
そう言って彼が笑うと、祖母も笑った。笑う祖母の目は少しだけ涙を溜めていた。安堵の涙だったと思う。なぜなら陽平が名残惜しそうに帰っていった後、祖母は猫美にこう言ったからだ。
――猫美、陽平君となかよくね。きっと猫美にとって、大切な人になるに違いないから。
(大切な、人……?)
その言葉がよみがえるたびに、猫美の心はほんわりとやわらかくなる。
陽平は、自分にとってすでに《大切な人》なのだろうか。それとも、これから《大切な人》になっていくのだろうか。
少なくとももう、いじめられているとは思わない。口うるさくて嫌だとも、構いすぎてきてうざいとも思わない。来てくれると妙に嬉しい。ニコッとされるとなぜかドキッとする。彼に対する気持ちをはっきりと言葉にはできないが、今はとりあえず、そんな感じだ。
「猫美、台所借りるぞ。茶いれてくる。おまえこっち座って待ってな」
陽平はよっと声を出して立ち上がると、自分の家さながらさっさと台所に入っていく。
「店番が……」
「どうせお客来ねぇんだろ? 声かけられれば聞こえるし、大丈夫だよ」
一言もない。古書店の売り上げは日に三冊もあれば上々で、ほとんど趣味でやっているような店だ。主な収入源は猫関係の相談事解決であり、陽平もそんな黒崎家の台所事情をよく知っている。
和室の中央にちゃぶ台を出して、おとなしく座って待つことにする。服部屋の桜餅は猫美の大好物だ。
「あーあ、また冷蔵庫空っぽじゃないか。昨夜の夕飯は何食べた?」
勝手に冷蔵庫を開けたらしい陽平が、台所から聞いてくる。
「えっと……卵かけご飯……」
「まさかそれだけか? おまえなぁ……」
呆れ声が届き、猫美は首をすくめる。猫美は菓子以外の食べ物にはあまり興味がない。祖母が元気だった頃は、ちゃんと三食バランスの取れたおいしい食事を作ってもらっていたが、自分で用意するようになってからはかなり適当になってしまった。
それに加えて最近はちょっとした悩みもあり、ほとんど食欲がなかったのだ。
「まったくしょうがねぇな。だから放っておけないんだよ」
ため息をつきながら、お盆に茶碗を二つ乗っけた陽平が戻ってくる。いい香りのする緑茶をちゃぶ台に乗せてから、猫美の頭をこしゃこしゃっとかきまわした。そのぬくもりが小学生の頃よりずっと心地よくて、猫美は動揺を隠し、茶柱が立った緑のお茶をじっと見つめる。
「よし、今夜は精がつくように、俺がうまい肉料理を食わせてやる」
陽平はなかなかの料理上手だ。一人暮らしが長くずっと自炊なので、猫美が適当に作るものの何倍もおいしいものを作ってくれるのだ。
(それに……夕ご飯を作ってくれる日は、陽平が、少しだけ長くうちにいる……)
急に頬が熱くなってきて、猫美はごまかすように淡いピンクの桜餅をパクッと頬張った。今日のはやけに甘く感じる。
「う~ん、服部屋の桜餅、ホント最高だよな! ……ところでおまえの店、相変わらず猫の出入りが多いな。さっきはシロが来てたが、外でほかのが何匹か入りたそうにしてたぞ」
《黒猫堂》は基本ノラ猫の出入り自由だ。近所の猫は皆猫美が話を聞いてくれるのを知っているし、祖母や猫美に助けられた猫も多いので、入れ替わり立ち替わり寄っては挨拶をしていくのである。
「猫のお客さんは多いよ。連日大盛況」
「連中は金落としてってくれないけどな」
陽平はハハッと笑う。
「なぁ、前から思ってたけどさ。晴江ばあちゃんもおまえも自分では飼わないんだな。何か理由があるのか?」
「おばあちゃんが言ってた。用事ある猫が出入りしづらくなるから、決まった猫は飼わないんだって」
「ああ、なるほどなぁ」
ほら、と、二つ目の桜餅を皿に取ってくれながら、陽平が頷く。
「さしずめ《黒猫堂》は猫の駆けこみ寺って位置づけなわけだ。すべての猫に対して公平にってのは、晴江ばあちゃんらしいよ。……でもまぁ、あれだな。おまえも一人じゃ寂しいだろ? どうしても耐えられなくなったら、俺がここに住んでやってもいいんだぞ? ここのほうが今のアパートより若干駅に近いし、俺にとってもメリットはある」
陽平がどこかそわそわしながら視線を泳がせ、わけのわからないことを言い出す。
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