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第26話 鬼ノ城の鬼
柔らかくて温かい何かが頬に触れている。手のような感覚で護の顔を押していた。
腕が動かない。何かに拘束されているようだ。
「うわぁ、自分から飲み始めた。こっちはチョロいなぁ」
うっすらと目を開く。
保輔が後ろ手に拘束された状態で顔を上げて真っ黒な液体を飲み込んでいる。黒い液体には嫌というほど覚えがあった。
与えているのは知らない人間だ。その奥にもう一人、人でない者がいる。
「笑いが止まらないよ、ねぇ、保輔」
自分の手から溢れ出る穢れた神力を保輔の口に流し込みながら、男がニタリと笑う。
保輔が恍惚とした表情でそれを受け入れている。
まるで少し前の直桜のような姿に、護は咄嗟に体が動いた。
ビタン、と頬を張られて、動きを止める。
朱華が護の頬を殴って肩に登った。
(起こしてくれたのは、朱華か。まだ動くなといいたいのか? でも、このままじゃ保輔君が)
もう一人の男の目が護に向いて、咄嗟に俯いた。
寝た振りを決め込んで気配を探る。
(あれは、鬼か? 人狼の里に何故、鬼が。穢れた神力を飲ませているのは人のようだな。天磐舟の人間か?)
保輔の表情からして、既にかなりの量の穢れた神力を飲まされているはずだ。護だけでは浄化が間に合わない。
護は神紋を通して直桜に声を掛け始めた。
「お前、その人間が嫌いなようだが、知り合いか?」
「お前じゃなくて穂積連だよ。何回教えたら覚えるの? 俺はちゃんと阿久良って呼んであげてるんだから、いい加減、名前呼んでよね」
穂積連と名乗った青年は高校生くらいに見える。
(阿久良? まさか、阿久良王か。黄泉返り? それとも反魂? どちらにしても、感じる鬼の気配が濃い。混じり物のない純粋な鬼だ)
しかも相当に人を喰っているのだろう。濃い瘴気が混じった鬼の気配だ。
肌にびりびりと感じる気配に、鳥肌が立つ。
「名に拘るのは人間だからか。くだらないし面倒だ。家畜の名を逐一覚えるような趣味はない」
「俺はお前の餌じゃない。妖怪連は天磐舟に協力するんじゃないの? 鬼ノ城の鬼は人を食うために入り込んだわけ? 自分で狩りも出来ないんだ。情けない鬼だね」
連が嘲るように笑う。
「お前のように下卑た人間は不味いから俺は好まない。そっちの男の方が人間としては美味そうだ。鬼の血が混じっているから喰わないが」
阿久良王が保輔を指さした。
保輔は依然、夢中になって連から溢れ出る穢れた神力を飲んでいた。
「そうだねぇ。保輔はとってもいい奴だよ。理研の保育園でmasterpiece候補だった頃からbugの俺にも優しかったんだぁ。だから、大っ嫌いだったよ」
真っ黒な神力を纏った手で、連が保輔の顔を鷲掴みにした。
保輔の顔が黒く汚れる。
それを、さも嬉しそうに連が眺めた。
「一段高い所から可哀想な人間を見下して優しさを振りまく気分は、どうだった? 結局、保輔もblunderにされて、卑しい暮らしに落ちたのに。今度は隠れた霊能? 鬼の遺伝子? どうしてお前ばっかり優遇されるのさ。本性はクズのくせに!」
連が保輔の顔を乱暴に投げ捨てた。
その手を阿久良が掴み上げた。
「鬼二匹は鬼ノ城が貰い受けていいと猫鬼《びょうき》が約束した。乱暴に扱うな」
顔を歪ませて、連が腕を振り解いた。
「あーぁ、でも、もういいんだ。真人様は俺を評価してくれる。名前も戸籍も、霊能だってくださった。穢れた神力で操れば保輔は一生、俺の奴隷だ。いっぱい可愛がってあげるよ、保輔」
保輔の胸倉を掴み上げて顔を寄せると、連が口付けた。
その口に保輔が吸い付く。口移しで穢れた神力を流し込んでいるのだろう。保輔が喉を鳴らして飲み込んでいる。
保輔の腕が伸びて、連の体を抱いた。
「連、生きとったのやな。良かった。お前、集魂会にもbugsにも来ぅへんかったから、心配しとったんや。俺が呼んだ名前、まだ使ってくれとんのやな」
保輔の手が連の顔に伸びる。
穢れた神力で汚れた黒い手が連の頬に触れた。
「違う。お前がくれた名前じゃない。真人様が俺にくれた名前だ。勘違いするなよ、クズ。保輔はもう、俺の奴隷なんだから。対等に話をするなよ」
「俺を使ぅてええよ。それでお前の胸がすくんなら、俺の全部、連にあげるわ」
保輔が自分から連に口付けた。
連の腕が保輔の首を締め上げて、顔を離した。
怒りに歪んだ連の顔に歪な笑みが浮かんだ。
「ああ、そう。だったら俺に抱かれなよ、保輔。穴に突っ込まれて女みたいに情けなく喘ぐ姿を俺に見せてよ。お前が嫌いだけど、お前の顔は好きなんだ。無駄に格好良いからさ。いいよね」
「ん、好きにして……」
連が口付けながら保輔を押し倒す。
「待て、向こうの鬼にも穢れた神力を流し込め。まだ十分じゃないだろう」
阿久良王が連の肩を掴んで護を指さした。
「えぇ、面倒だな。黒玉何個も飲ませたから、そのうち効果あるんじゃないの?」
「黒玉とは何だ。お前が垂れ流す穢れた神力より強いのか?」
あからさまに嫌そうな声を出す連を、阿久良王が睨む。
その顔は如何にも鬼の形相で、連が怯えた。
「真人様の穢れた神力を凝縮した玉だよ。俺が液体で流し込むより強いし穢れも多いから、そろそろ精神操作できると思うけど。何か命令してみたら?」
言うだけ言って、連がぐったりと倒れた保輔に馬乗りになった。
(そんなに飲まされたのか? 全く効果を感じない。翡翠に飲まされた神力の方が遥かに強かった)
護の体内に入った黒玉は恐らく神紋から流れてくる直桜の神力で浄化できている。
(真人とかいう奴の神力と翡翠の神力は同じではないのか。確かに翡翠はマレビトで、神に準ずる高位の妖怪ではあるけど)
翡翠はマレビトであり人魚の、半分神格化した妖怪だ。穢れた神力は自分の力だったに違いない。饒速日命の神力が混ざっていたのは、きっと護にヒントを残すためだった。そう解釈していたが。
(饒速日の神力が弱っている? それとも上手く扱えていないのか。だから妖怪を狩っているのか? いずれにしても、翡翠の力よりは、弱い)
首に手が掛かって、顔を上向かされた。
目の前に阿久良王の顔が迫る。護は息を飲んだ。
「やはり、効果はないようだ。俺の妖術で縛っていいか?」
連が慌てて駆け寄ってきた。
「待ってよ、ダメだよ。こっちは神殺しの鬼だから、鬼の本能を覚醒させて連れて帰らないと。鬼ノ城にあげるのは使い終わった後って約束だろ。鬼は約束も守れないの?」
連の顔を阿久良王が見上げる。
「鬼の本能を覚醒させればよいのだな。ならば簡単だ。穢れた神力など、使うまでもない」
阿久良王が護の首を絞めあげる。
「ぁっ、ぁ、っ……」
首をへし折られそうな強い力に息ができない。
「神殺しの鬼ならば、化野の鬼だな。神を殺せる唯一の鬼、産土神を喰った鬼か。面白いな。お前、俺の子を孕んでみるか?」
阿久良王の唇が寄る。
重なった口から、何かが流れ込んできた。強い妖気と濃い瘴気が混ざった気配に、嗚咽が止まらない。
「おっ、ぅっ……ぉぇっ」
息が吸えないのに嗚咽も止まらない。脳が酸欠を起こして、視界が霞み始めた。
突然、阿久良王の手が緩んだ。護は無意識に息を吸い込んだ。同時に大量の穢れが体の中に入ってきて奥まで流れ込んだ。
「ぉっ、ぁっ、ぁ……」
あまりの苦しさに体が倒れ込んだ。
体の奥深くに眠っている何かが目を覚ましそうになる。
絶対に開いてはいけない扉が、開いてしまう。そんな恐怖が全身を巡る。
(翡翠の時と、同じ。あの時も、本能が目を覚ましかけた。鬼の本能なんて、化野の鬼にはもう無いようなモノなのに)
化野の鬼が最強だったのは、神に愛されたから。
化野の鬼が人に負けたのは人を愛したから。
けれど、それだけではない。
愛してくれた神を喰ったから。だからこそ、人も神も愛した。
産土神を喰う信仰は、人がまだ文字を持たない大昔には存在した。人と神の距離がもっと近かった頃の話だ。
だからこそ化野の鬼は、どれだけ嘲りを受けようとも、その場所を墓にされようとも化野を離れなかった。墓守の鬼、穢れと罵られようとも、そこは産土神が愛した場所だったからだ。
(鬼の本能が目を覚ます。けど、大丈夫だ。だって、神殺しの鬼の本能は、鬼神の本能は……)
阿久良王の手が護の視界を遮った。
「人を飼い慣らし、人を喰らうが、鬼の本能。お前はどうだ、化野の鬼」
「俺、は……」
胸の奥が熱い。
知らない自分が、溢れ出てくる。
護の腹に、朱華が張り付いた。神紋が熱を発している。
(直桜、俺はここにいる。本能が目を覚ましても、俺は鬼神だから、大丈夫だ)
阿久良王が顔を上げた気配がした。
少し遅れて、連の気配が尖った。
「なんだよ、この神力。馬鹿みたいにデカい。まさか惟神、全員来てるわけじゃないよね」
連の声は怯えを含んでいる。
阿久良王が不敵に笑った。
「直日神の惟神。まさか、これ程とは思わなんだ」
直桜の神力を広範囲に感じる。智颯の神力と円の気配もした。
小屋の中と思われるこの場所にも、浄化の雨が降り注いだ。
「来とる惟神は二人だけや。お前ら如き、二人おれば十分やわ。最強が来とるけどな」
保輔が起き上がり、連の胸倉を掴み上げていた。
「この放蕩息子が、どこに行ったんかと思ぅたら天磐舟か。ちょうどええわ。内情、全部喋ってもらうで、連」
保輔が本を開くと、その中から手錠が出てきた。連の腕を後ろ手に拘束する。
あれはきっとマヤに貰った本だ。上手く使っていると思った。
「やめろ! ちょっと形勢逆転したからって、いい気になるなよ、クズ! ねぇ、阿久良、味方なんだろ、助けてよ!」
悪態を吐く連を保輔が無理やりに座らせる。
連には目もくれずに、阿久良王が護の胸倉を掴み上げて起こした。顔を間近でじっと見詰められた。
「何度も目覚めかけている本能が、また閉じたか。何故、怯える? 何故、拒む? 鬼の本能が怖いか」
心底理解できないという顔で、阿久良王が護に問う。
「私にも、わかりません。きっと嫌なのでしょうね。けれど、目覚めても良いと、貴方のお陰で思えましたよ。貴方の子を孕む気はありませんが」
阿久良王と護の顔の間に、朱華が飛び込んだ。
一瞬の隙を付いて、足を踏ん張り、保輔の方に飛ぶ。腕を縛る縄を千切り解いた。
朱華が護の肩に戻る。
「化野の鬼は人に寄った詰まらぬ逸れ者だと思っていたが、鬼神は面白そうだ。良いな、欲しくなったぞ。鬼ノ城の温羅様の土産に、持って帰ろう」
阿久良が顎を上げて、歪な笑みを護に向けた。
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