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第34話 更待月の涙
吹雪がすっかり止んで、冬の澄んだ夜空が広がっていた。
露天風呂に浸かる背中が、ようやく顔を出した月に照らされて影を伸ばしている。
「隣、いい?」
直桜が声を掛けると、保輔が振り返った。
「瀬田さん、寝とらんかったの? それとも、起こしてしもた?」
食事を終えて温泉を堪能した面々は、すっかり寝こけていた。幽世で霊元を使うのは、現世の術者には想像以上の負荷だ。惟神である智颯や直桜でも堪えるから、円や護はそれ以上だろう。
勿論、保輔にも同じくらいの負荷だったはずだが、きっともっと大きな負荷が心に重くのしかかかっているのだろう。
静かに部屋を出ていく保輔を、直桜は追いかけてきた。
「目が冴えちゃったから、温泉入ろうと思ってね。更待月《ふけまちつき》は夜中近くにならないと見えないから、お月見にも丁度いいよね」
「更待月いうのや。詳しいのやね」
保輔の声が、小さく響く。
息が凍って、白く吐き出された。
辺りに積もった雪が月明かりに照らされて、キラキラと保輔の顔を照らしていた。
「昔はよく眺めていたからね。月の満ち欠け、好きだったんだ。最近はゆっくり眺める暇もなくなっちゃったけど」
夜は雑音が消えて静かになる。だから好きだった。
昼間に集落の大人たちに吐かれる言葉も態度も、夜の闇と月明かりが全部流してくれる気がしたから。
月を眺めるより護の温もりを感じながら眠れる今が、直桜にとっては幸せだ。
「俺も夜が好きや。静かで、落ち着く。月は詳しないけど、眺めるのは好きや。頭空っぽにして、何も考えんでもええ時間やから」
きっと、自分が自分に許した時間なんだろう。
一人になって、何も考えなくていい時間を自分に許して、保輔なりにバランスを取って生きてきたんだろうと思った。
「それくらい、昼間は色々考えてるんだね。仲間を守るために、頑張ってきたんだね」
bugsでも、恐らくは理研にいた頃から、仲間を守るために奔走していたんだろう。連の今際《いまわ》の言葉を聞いて、そう思った。
「……連に、神力流してくれて、有難うな。最期にあんだけ話せたの、瀬田さんと智颯君の神力のお陰やろ。でなきゃ、即死の傷やった」
深く抉れた連の肩の傷は、鎖骨と肩甲骨を砕かれるほどだった。神力ですら治療できない傷だと、保輔は気が付いていたんだろう。だからあんなに泣いていたのだ。
保輔が本に収めてきた要の回復術も、物理的な負傷より呪術による負傷を想定した術式だった。
「連は最初からbugのレッテル張られて、俺より先に集魂会送りになったのやけど、黒介んとこには行かなくて。俺がbugs作ってから、一回だけ会ぅたけど、それきり、どこ行ったんかも、知れんかった。まさか、天磐舟におったとは思わんかった」
静かに語る保輔の声はあまりにも落ち着いて、それがかえって悲しく響いた。
「連君は、保輔に会えて、嬉しかったと思うよ」
直桜の言葉に、保輔が顔を歪ませた。
「……俺、どうしたら、良かったのやろか。今まで、何人も、目の前で仲間が死んでった。美鈴と連は、特に酷い。なんで俺には、守る力がないのやろか」
ぽたりぽたりと、小さな雫が湯に落ちる。
直桜は保輔の頭を引き寄せた。
「朱華が言ったよね。自分に何が足りないのか、よく考えろって。何だと思う?」
保輔が首を振る。
「わからへん。ずっと考えてるけど、わからへんねん。円も化野さんも鬼力が使えたのに、俺は血魔術すらまだ使えん。何の役にも立たんかった。怯えて、蹲っとっただけや。鬼の力、持ってても、何の意味もあらへん」
とめどなく流れる涙が、直桜の肩に掛かる。温かくて、切ない。
「円くんは、智颯の傍にいられる力が欲しいと願ったよね。護はあの時、皆を守る力が欲しいって、強く思ったんだって」
保輔が勢いよく顔を上げた。
「俺かて、守れる力が欲しい! 皆を守れる力、欲しいよ!」
「その皆の中には、自分は含まれてる?」
保輔が、言葉を失くした。
呆然と直桜を眺める。
「保輔に足りないのは、自分を大事にする気持ちだ。保輔は自分を犠牲にして他人を、仲間を守ろうとする癖があるよね。今までの保輔の人生にはそれが必要だったんだと思う。だから、否定はしない。けど、これからは、それじゃダメだよ」
保輔が目を逸らし、小さく俯いた。
「せやかて、俺、他に方法がわからん。意識して自分を犠牲にしてる気ぃもない」
直桜は保輔の腕を掴むと、正面から向き合った。
「連君の言葉、ちゃんと思い出してごらん。一人で危険を犯して、全部被ろうとする保輔を、連君は心配して怒ってたんだよ。保輔の特別になりたかったのは、一緒に戦いたかったからだ」
「だから、戦えるだけの強さを求めて、連は天磐舟に行ったんか? やったら、俺のせいや。連が死んだんは、俺の……」
顔を背ける保輔の腕を強く握る。
「連君の判断と行動は、連君の責任だ。それを保輔が被る必要はないんだよ。全部自分のせいだって、思わなくていいんだ」
強く目を瞑る保輔の顔を掴まえて、直桜は無理やり向き合った。
「相手に委ねるのも、信じるのも、頼るのも、自分を大事にするのも、強さだ。保身は逃げじゃない。自分を犠牲にして誰かを守るのは強さじゃない。仲間のために自分を守る、それが今の保輔に必要な強さだ」
涙に濡れた目が直桜に向いた。
「どう、したら、ええの? 俺は、そういうやり方、ようけ、わからん」
「俺の眷族になってくれない? そうしたら、自分を犠牲にしたくても、できなくなる。その状況で、自分を守る術を覚えるんだ」
呆然としていた目が、徐々に見開かれた。
保輔の顔が驚きというより、驚愕の表情になった。
「でも、俺は、瑞悠のバディや。瀬田さんには、化野さんがおるんに」
「護とも話し合って決めた。今の保輔には、それくらい強制的な状態が必要だと思うんだ。眷族契約は神紋を定着させなければいつでも解除できるし、俺の眷族になっても瑞悠のバディは続けられる。本気で考えてみてほしい」
真っ直ぐに見詰める直桜の目を、保輔が呆然とした目で眺める。
「俺も護も保輔より強い。保輔が全身の力を抜いて覆い被さってきても、俺たちなら余裕で受け止められる。だからもっと頼っていいし、甘えていい。迷惑、掛けてくれていい」
見開いていた保輔の目にまた涙が溢れた。
「最強の惟神と鬼神に、そんなん言われたら……」
保輔が直桜の肩に顔を埋めた。
「人前でこないに泣いたん、初めてや。俺もう、とっくに瀬田さんに甘えとんのやわ」
直桜の肩に触れた瞼が熱い。涙がまた、直桜の肌を伝って流れた。
「それでいいんだよ。この程度、甘えているうちにも入らないんだから。それに保輔、重田さんに抱き付いて泣いてるよね? あの時はもっと大勢の前で泣いたと思うけど」
保輔がぐっと口を引き結んで気まずい顔をした。
13課組対室に来た直後に、優士の中の英里の霊元に触れて泣いたのは、割と最近の話だ。
連の前でも泣いていたが、流石にそれは言えない。
「あれは、懐かしかったから、思わずやん……」
「英里さんには甘えてたんだろ? 同じように甘えたらいいんだよ。組対室の皆は保輔が泣いたくらいで動じたりしないよ。むしろ可愛いって思う」
「可愛いは、微妙やんな」
直桜が小さく笑いを漏らす。
つられて、保輔が笑った。
「眷族契約は忍や陽人、あと清人にもちゃんと相談する。瑞悠にも理解して納得してもらわないと秋津に失礼だしね。だから、急がなくていい。でも前向きに考えてほしいんだ」
直桜の肩から離れて、保輔が向き合った。
「きっと、眷族になった方がええんやろ、思う。けど、考えるわ。瑞悠には、俺から相談してみる。他にも色々、したい話あるし」
「うん、ゆっくり、相談してみて」
明るい月が直桜と保輔を照らす。
揺れる湯に映る月が歪んだ。
保輔が、直桜の胸に凭れ掛かった。
「とりあえず、直桜さんと護さんて、呼ぶわ」
消え入るような声がくぐもって聞こえた。
「いいよ。もっと早くに呼んでくれて良かったのに」
「……だって、恥ずいやん」
直桜に抱き付いているこの状態の方が恥ずかしいような気がするのだが。保輔にとっては顔を見ながら話すほうが恥ずかしいんだろう。
保輔に自分を大事にする方法を身に付けさせるのは骨が折れそうだと思いつつ、可愛い弟が増えたような気分になって、こそばゆい気持ちを感じていた。
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