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:Day1(7)

 青が連れていってくれたバーまでは、それほど歩かなかった。  細い路地の連なるこの一帯には小規模な店が多く、ゲイバーもまた集中している。目的の店は細長いビルの二階にあった。  狭い階段を先に上ってゆく青の、かたちのよい背中を見上げて、なんだか夢のようだと思う。  彼氏にフラれて、でもそれは自分のせいで、ついさっき池田さんの顔を見つけたときは、ちょうどいいから誰かを紹介してもらおう、確かにそう思っていた。  でもなんていうか、この展開はちょっと、思っていたのとは違う。  十人入れば満席の、カウンタだけの小さなバーは背面がガラス張りで、夜景を楽しめるように店内はひどく暗かった。バーテンダーの手元だけがぼんやりと明るい。客はおれたちの他にもう一組、三十代くらいのスーツ姿の二人がいた。どうやらカップルのようで、肩をぴたりとくっつけている。  おれは、グレイヘアーに白シャツのバーテンダーにすすめられるまま、カクテルを二杯ほど飲んだ。柴さんがいればさぞかし怒られるとこだろうけど、少しくらいは見逃してもらいたいと思う。  飲みやすさを優先して作ってもらったカクテルは、柑橘系のフルーツベースで口当たりがよかった。二杯目の途中で青が、勝手に水を頼んでおれの前に置いた。 「別に、そんな酔ってないよ」 「そういうやつが危ないんだよ。いいから合間に飲んどけ」 「池田さんに頼まれてるもんね、おれのこと」 「まあそれだけじゃねえけどさ」  この店に来て、青のペースは早かった。おれの聞いたことのない名前のカクテルを立て続けに二杯飲んだあとは、キープしているボトルで水割りに変えた。それももう、三杯目になる。 「それだけじゃないって、なに?」 「酔って判断が狂ってた、なんてのは嫌だからさ、水谷くん」  わざとらしく、青は最後のほうを強調した。  帰りぎわの柴さんの失言は、当然青の耳にも届いていたはずだ。それなのにどうして、あえて池田さんの使った呼び名でおれを呼ぶんだろう。 「……名前、もう知ってるでしょ」 「あ、名前で呼ばれたい?」  ウザい。  と、いつもなら思う。からかわれたり意地悪されたりするのは好きじゃない。  好きじゃない、はずなんだけど。 「呼びたかったら呼べばいいじゃん」 「だって、本人から教えてもらってないしな」  ちょっと拗ねたように、頬杖をついた青が横目でおれを見る。  本当のところ、おれはたぶん、自分で思うよりもずっと酔っていた。頭がふわふわとする。さっきまで考えていたいろいろなことが、今はどこか遠くのほうにある。 「……こういち」  吐息とともに漏れたつぶやきに、え? と青が顔を寄せてくる。 「なんて?」 「だからあ、おれの名前。晃一っていうの。教えてあげたんだからさ、呼んでみてよ」  ふ、と青が、目を細めて笑った。なんだか嬉しそうに見える。その表情はずるい、と思う。なんでも許したくなる。 「晃一」 「……呼び捨て」 「そのほうが、親密な感じするだろ」 「親密に、なりたいんだ」 「なりたいからこうやってここにいる」  これってやっぱり、口説かれてんだよね。  おれの思い違いじゃ、ないよね。  久しぶりに接したイケメンには、抗体が弱くてすぐに侵食されてしまう。  でも、と、ぼんやりした頭を叱咤する。  さっき会ったばかりの相手をこんなふうに口説くのは、ワンナイ目的のために決まってる。はたしてそれで、いいのか。  ……別に、いいかも。  心地よい浮遊感に包まれながら、おれは簡単に陥落される。  せっかくだし。  好きな顔だし。  池田さんの知り合いだから悪いことされる心配もないだろうし。 「じゃ、おれも、青って呼ぶ」  一瞬、それまで余裕のある表情を崩さなかった青の目が、見開いて止まった。初めておれの声を聞いたとでもいうふうに。  でも、開いた瞳はすぐに三日月のように湾曲し、ほころんだくちびるが涼やかに言葉を発した。 「晃一もおれと、親密になりたいの?」  ここでうなずくのは悔しい。だから黙って残りのカクテルを飲もうとしたら、その手を青につかまれた。耳に触れるほど近く、青のくちびるが近づく。いや、ちょっと触れたかもしれない。  低く甘いささやきが、おれの鼓膜をじかに震わせる。 「……今日、泊まってく?」  ここでうなずくのも、悔しいから嫌だった。だからそっと、顔の向きを変える。すぐ近くに、青の顔がある。おれの好きな一重の、すうっと伸びる目尻をとらえる。  答えなんか、目が合っただけで充分だった。

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