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第30話
ジュニアスイートルームの南側の窓からは、ホテルの庭が見える。「花園飯店」と呼ばれるのに相応しい、大都会の中の緑だ。
そして、東側の通りを挟んだ隣には、上海でも有名なクラシックホテルがある。去年は、そのクラシックホテルを抜け出して、このホテルまで大冒険をした煜瑾だった。
文維と煜瑾は肩を並べ、手を繋ぎながら、その窓から街を見下ろしていた。1年前とは違って見える。それは、今が幸せだからだと2人は知っていた。
「煜瑾、お食事の前にお風呂に入って、それからドレスアップしてレストランへ行きましょうか」
文維が期待を込めて誘うと、煜瑾は意外なほどキッパリとそれを断った。
「ダメです。今、文維と一緒にお風呂に入ったりしたら、必ずレストランの予約の時間に遅れてしまいます」
「そんな事の無いように、私も気を付けますから…」
煜瑾をジッと見つめ、文維は、ちょっと怒ったような顔をする恋人を、甘い囁きと共に抱き寄せた。
「ね、煜瑾…、少しだけ…、少しだけですから…」
ねっとりと濃艶に口説き落とそうとする、「元プレイボーイ」の手管に、流されそうになる、初心 な煜瑾だが、ここはグッと理性で押しとどめた。
「絶対にダメです!文維の『少しだけ』は、少しで終わったことがありません!」
「…」
毅然とした煜瑾に、さすがにこれ以上は強引に迫れなくなった文維だった。
「でも…」
ふいに煜瑾が表情を緩め、頬を赤らめ、そっと文維の胸に顔を埋めた。
「でも、お食事のあと、お風呂に入る時には、文維がいつも私にしてくれるように、今夜は私が文維を丁寧に洗って差し上げます…ね」
「本当に?」
文維には、とても自分が煜瑾にするような挑発的な入浴中の行為が出来るとは思っていない。けれど、煜瑾のような清純な子に誘惑されるというのは、なかなか面白いと文維は思った。
「じゃあ、その後は私が煜瑾を洗ってあげますね」
「…はい…」
真っ赤になって顔を上げられない煜瑾だったが、胸は期待でいっぱいだった。
***
時間通りに高層階のレストランに行くと、そこは鉄板焼レストランだった。煜瑾は大好きな海鮮や柔らかな和牛を焼いてもらい、いつもよりたくさん食べることが出来た。
文維もまた、そんな煜瑾を見ながら、食欲も増し、いつもよりほんの少しワインも多く飲んだ。
「文維?」
「なんですか、煜瑾」
その名を口にするだけで、お互いに幸せな気持ちになれた。
「私は、文維と一緒にいるだけで、お食事も美味しくなるし、毎日が楽しいし、生きていることすべてに幸せを感じるのです」
はにかみながら、それでもハッキリと煜瑾は理知的で優しい文維の目を見つめて言った。
「それは、私も同じですよ、煜瑾」
寛容な態度で、それでも誠実さを見せながら文維も煜瑾に応える。お互いに信頼を寄せる2人は、静かに微笑みを交わした。
「文維に初めて出会った日、文維に再会した日、初めて…キスをした日、そして、一緒に暮らし始めた日…。全てを覚えています。全てが、私にとって大切な記念日なのです」
恥ずかしそうに、それでも心から嬉しそうな煜瑾は輝いて見える。それが眩しくて、文維は目を細めた。
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