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第11話 誓い1

◇ 「でも五年かかったんだもんなあ」  気持ちを確認しあってすぐ、優希とサトルは共に生きていく約束をした。そして、そうすることでそれ以降の治療の全ては、パートナーであるサトルに全てを委ねる事にした。  一般的には主治医と患者が恋人関係へと発展することは、倫理的な観点からあまり歓迎されない。  しかし、ここの研究期間では、犯罪抑止に繋がる可能性が高まることが最も重要だと考えられていて、治療の内容が内容だけにパートナーが診た方が正確な観察が行えるという統計結果が出ていたことから、それが許されるようになっていた。  それから足掛け五年、優希は断続的な入院を経てようやく長期の治療中断期間に入った。完治や寛解といった決定的な終了の宣言が出来ないことから、今の段階が事実上の治験終了に当たる。  それまでにも治療を受けて日常生活での問題が起きない程度に改善された人はいた。しかし、優希ほどはっきりと欲のコントロールが出来るようになった人はいなかったため、最も大きな成功例として扱われるようになった。  そこで二人はパートナシップ宣誓をすることを選んだのだった。優希の経過によっては、今後の患者のモチベーションになり得るロールモデルとなる事が出来る。考えられるだけの幸せを詰め込んでみようということで、可能な事には全て手を出していった。  積極的に良い環境を求めて二人で暮らす様になった。共同で購入するものを持つことで、お互いのつながりが人生を共にするものにしかモテないものだということを実感し、幸せを噛み締めてきた。 「やっとスタートしたと思ったらこんな目に遭わされるなんてね」  ようやく掴んだ幸せが、今誰かの手によって奪われようとしている。幸せを手にしたのが初めてである優希にとって、それを失うという経験は全くの未知なことだ。サトルを失うということがどれほどのものであるのか、考えるだけで恐ろしくなってしまう。その経験だけは、どうしたって避けたい。  それに、サトルは彼にとって最も信用するに値する人物だ。その彼が誰かに命を狙われていたということ、命を奪いたいと思うほどに怨恨を持つ者がいるということを、優希は受け入れたく無かった。  その二つの事実に対してぶるりと身を震わせると、軽く被りを振って悪い方へと流れていく思考を頭の中からを追い出した。 「ねえサトル。いなくなったら嫌だよ。今更僕をひとりにしないで。置いていったら許さないからね」  サイレンの音の中に紛れるような小さな声で、彼は何度もこの言葉を繰り返した。 「誰にどうやって邪魔をされたとしても、僕たちは絶対に離れないって決めたよね」  優希は病気を克服したとはいえ、マイノリティであることには変わりはない。サトルもそうだ。だからサトルと二人で生きて行くことを決めた時に、世間に忌み嫌われる可能性があることも見据えていて、二人で何度もそのことを話し合った。  ただし、それが命を狙われるような出来事にまで発展しようとは、どちらも思っていなかった。  でも、たとえ誰かに迷惑をかけたとしても、優希にはもうサトルと別々に生きていくことを選ぶつもりはない。 ——僕はパートナーだ。入籍は出来ないけど、緊急時に面会できる資格はある。何かあれば、最後についての判断を任されることも出来る……。  優希はそう考えながら、流れていく夜景を見ていた。気がつくと街に溢れていた陽気な人々はいつの間にか消え、見えているものは病院の灯りのみになっていた。    ふと触れた左手の指輪は、サトルへの思いを寄せる優希の体に、その気持ちは正しいものだよという肯定の信号を送り続けてくれていた。 ◇ 「ん……? コーヒーか?」  鼻先にふわりと香るコーヒーに、能天気な葵の笑顔が目に浮かぶ。そのあまりの締まりの無さにふっと口の端をもたげたあとに、サトルはゆっくりと目を開いた。視力のひどく悪い目には、目の前に浮かぶ白いものがなんであるのかがわからない。  僅かに首を捻り、周囲を見渡す。輪郭のぼやけた景色では色味を捉えるのが精一杯ではあるものの、ここが自分の家ではないことだけは理解できた。    コーヒーの香りの向こう側に、消毒液の匂いがすることに気がついた。今やどこへ行ってもアルコールや次亜塩素酸の匂いが付き纏うが、その存在感が異様に強い。  その香りの特徴に気がついたところで、右即腹部に鈍くも鋭くもある痛みがあることに気がついた。その痛みは、徐々に存在感を増していく。 「っ……。いってぇな」  それによって、今日自分は刺されたのだということを思い出した。あまりに予想外の出来事に襲われて、ショックで受け止めきれていなかったのだろう。どこか他人事のような気がしている。  しかし、麻酔が切れて次第に強まる痛みの存在が、あれは自分に起きたことだったのだと強く主張してくる。そして、それを起こした人物に思い当たる者がいないことで、ヒヤリと背筋が冷えた。 「あの女、誰だったんだろう……」  サトルは刺された時のことを、詳しく思い出そうとした。  オールソーツ裏の暗がりで、後ろから女に刺された事だけはわかっている。人がぶつかる衝撃、鋭い痛み、そしてそれに続く焼けるような痛み、出血による急激な血圧低下が引き起こした強烈な不快感に襲われていったこと、それらを思い出しては状況を自分で整理しようとした。  ふとその中で、道路に倒れ込んですぐに、女の悲鳴を聞いたことを思い出した。その声がミドリのものであったことだけはすぐにわかっていた。 「きっとミドリが通報してくれたんだな」  霞んで行く視界の中に、震える手でスマートフォンを握りしめたミドリが見えていた。その恐ろしさを思うと、サトルはミドリに申し訳ない思いがした。    おそらく、ミドリはサプライズのために外で待っていたサトルを呼びに行かされたのだろう。お祝いの前の浮かれた気持ちで、あの裏通りにやってきたに違いない。  それなのに、曲がり角を曲がるとすぐに血溜まりがあり、そこに倒れている俺が見えたはずだ。ミドリは確か、血が苦手だと言っていた。そんな子をあの現場に引き合わせてしまう事になってしまった事に、サトルの胸はずきりと痛んだ。  自分でもわかるくらいに、かなりの量の血が流れていた。その影響からか、今も体を動かそうとするが、重だるくてなかなかいうことをきかない。  どうにかして体を動かし寝返りを打とうとしたところ、左側に人の気配がした。 ——誰だ?  刺されたばかりの人間にとって、人の姿が見えずに気配だけを感じられる状況は、恐怖でしか無い。サトルは首だけを捻り、そろそろと視線をそちらへ動かした。  確認出来る視界の端に、外灯のオレンジ色の光に紛れて似たような色の巻き毛が揺れているのが見えた。その中に埋もれていたのは、頬にうっすらと涙の跡を残し、疲れ切って眠る優希の横顔だった。 「優希」  優希はベッドの端に頭をもたげて、顔をこちらに向けたまま突っ伏して寝ていた。サトルはそのフワフワの髪を少し指で掬おうとした。しかし、途端に右即腹部に鋭い痛みが走り、思わず唸り声を上げて動きを止めた。  傷は右側にあると思って左手を伸ばせば大丈夫かと思っていたが、思わず体を捻ってしまったのがいけなかったのだろう。  起こさずにその存在を確かめようと思っていたのに、思いの外大きな痛みに驚いてしまい、予想外に大きな声を出してしまった。

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