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第12話 誓い2
「いっ!……ってぇ」
「……サトル?」
優希はサトルの声に反応し、むくりと顔を挙げた。そして、しばし寝ぼけたままこちらをく見ていた。何度か目を瞬かせたのちに、サトルが目を覚ましたのだということを理解すると、今度は突然ガバッと上体を起こした。
「サトル! サトル……目が覚めた……良かった」
大きな目を見開いて、目の前のパートナーをじっと見つめると、一度大きく息を飲んだ。どうやら彼は軽いパニックに陥ったようで、サトルに向かって手を伸ばしかけたかと思うと、今度は遠慮がちに引っ込めるという行動を、言葉を発しないままに何度も繰り返している。
胸に溢れ出しそうなものを堪えながらも、責任感の強さからパートナーとしてやるべきことを思い出そうとしているようだった。その真面目さゆえの我慢が、彼の心の中を更に大きく乱していく。
「よか……よかった。サトル、よかった。本当に。よかった……えと、そうだ、僕、先生に連絡しないと」
そう言いながら、立ち上がろうとすした。けれども、安堵したことで緊張が解けてしまい、震えが出始めた体ではうまく力が入らないらしく、力なくぺたりと座り込んでしまう。そして、そのまま身動きが取れなくなってしまったようだ。
そんな優希を見て、サトルは痛む脇腹にかまわずに手を伸ばした。
「優希」
しかし、手が届くよりも先に、再び鋭い痛みがビリビリと右半身を駆け抜けていった。意思でねじ伏せられるほどの痛みでは無く、どうしても手を伸ばすことが出来無い。
「いっ……」
サトルにはこのタイミングで優希に触れてあげないといけない理由があった。治療によりせっかく身についてきたものを、ここで無駄にさせたくなかったのだ。
優希は、泣くことは悪いことだと親から刷り込まれて育っている。子供が嫌いな母親から、泣くことを疎ましがられ、強くそれを制限されて育っていた。
母親と言ってもその人は継母で、優希は父の連れ子だった。実母から捨てられたと思っていた優希は、継母にまで不要だと思われることを恐れ、必死になってその理不尽な躾を守っていた。
実父が不在がちだったことが災いして、誰もその継母のエスカレートしていく躾と言う名のDVを止めることが出来ずにいた。
そのうちに、子供らしい行動のほぼ全てを禁止され、優希はそれが普通なのだと思い込んで育ってしまった。
『泣くな、笑うな、騒ぐな、喋るな、存在感を出すな、じっとしてろ、寝る時以外はどこかに行け』
この激しい制限により、優希は葵とサトルの前以外では、泣くことが出来なくなってしまっている。一人でいる時も、余程のことがない限り涙を流すことが出来ない。
そこで、ペドフィリア治療チームは、並行してトラウマ排除のために泣くことを許可するためのスイッチを彼の中に作った。
今の優希は、ルーティンを行うことでようやく自分が泣くことを許せるようになってきたところだ。
彼が抱えている問題のうちのほとんどは、親からの酷い扱いによる自信の無さが原因になって引き起こされている後天性のものだ。そのため、サトルという当然のように愛情を返してくれる存在が手に入ったことで、問題の八割程度は解消もしくは縮小されていった。
ただ、今回そのサトルが刺されたことで、その絶対的な存在を失うかもしれないという恐怖が、彼の精神をパニックへと追い込んでしまっている。
サトルがいれば大丈夫だと思っているということは、言い換えれば彼がいなくなるとダメだということでもある。それでは依存していることになってしまう。
そうではなく、自分だけでも感情の制御が出来るようになれるのが、治療上の理想だ。そのためには、今このタイミングを逃すことは出来ないのである。
条件付けをするためには、継続していくことが最も重要で、一度でも失敗をするとその全てが水泡に帰する可能性すらある。
サトルはそうやって、必死にそれらしい御託を自らの頭の中に並べた。しかし、実のところは彼自身が優希の温もりを感じたい、そのために傷の痛みをおしてでも優希に手を伸ばしたいと思っているのが本音だ。
気がつけば、段々と命を奪われかけた恐怖が、彼の背筋を冷やしていくようになってきた。その想いから逃れたいと願うようになっていった。誰かに刺されて死にかけたのだという思いは、一人では抱えきれないほどに重くサトルの肩にのしかかってくる。
——俺は一人では無いという実感が欲しい。
サトルはその思いに駆られていた。優希に触れることで、それを確たるものにしたかった。
そんな彼の想いが通じたのか、いつの間にか優希がこちらを見つめていた。見つめて、サトルを失わずに済んだことを、しっかりと実感しようとしているのかもしれない。
「優希」
サトルの声にピクリと反応した優希は、僅かに逡巡した後にゆっくりと這うように彼へと近づいて来た。そして、その頬に自分の右手で触れると、今目の前の彼がちゃんと生きているという確認をしていった。
「……あったかい」
俯いてポツリとそう呟いた。サトルはその手に頬を擦り寄せ、今度は彼が優希の存在を確認する。
「ごめん、心配したよな? 怖かったな」
サトルは悲しく揺れるオレンジ色の巻き毛に指を入れると、それを優しくかき混ぜた。大人しくそれを受け入れていた優希は、左手の薬指に嵌めた指輪をサトルのものに重ねる。
二つの指輪を軽く衝突させると、キィンと軽い金属音を立てて空気を波立たせていく。それは優希の涙腺を優しくほぐしていった。
ひく、と僅かにしゃくりあげる声が漏れる。微かな振動に揺れる細胞が、泣いていいよと優希に伝える。その度に、ひくっという声をまた漏らした。
キィン、ひっく、キィン……。
そうやって泣く準備を整えた体が、ようやく優希にそれを許可し始めた。
「よ、良かった。ほ、本当に……。い、い、いなくなったら、どうしようかっ……て、おもっ思って……」
それだけ言うと、堰を切ったように泣き始めた。
感情が洪水のように溢れて、子供のような泣き声と涙と共に優希の中を流れ落ちて来た。その勢いは強く、心の底にたまった澱を、まるで存在しなかったかのように綺麗に消し去って行く。
温もりを感じる事。そして、指輪を鳴らすこと。ぶつけたその影響で、その中にある装置を作動させる。そこから発生する音波が、優希の涙腺を刺激することで、半強制的に涙させる事が出来るようになっている。
これを習慣化し、優希が「泣いてもいい」と自分を許すための条件づけになるように訓練を重ねて来た。その一連の流れがうまく行えたことで、サトルは安堵する。そして、震える優希を右手で優しく抱きしめた。
引きつれるような痛みの中、それでもその手を離したくないと更に力を込める。その腕に、優希もしがみついて応えた。
「そうだな、ごめん。でも大丈夫だ。俺はお前を遺して死んだりしない」
サトルがそういうと、俄かに優希は腹を立てた。そして、しがみついていた腕を何度も叩きながら、
「死にかけてたくせに」
と言う。その声には、優しく揶揄う調子の後ろに、どうしようも無い不安の色が滲んでいた。
「あ、そうだったな」
そうとサトルが返すと、信じられないと言いたげな顔をしていたが、やや呆れるような顔をすると、そのうちに笑い始めた。その涙に塗れた笑顔には、深い安堵の色があった。
「そうだよ、いなくなったらダメだからね」
サトルの腕に縋り付くようにして、優希は叫んだ。
「うん」
サトルはその腕を曲げて優希を側へと引き寄せる。
「こんなに好きにさせておいて、置いて行かないでよね」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を近づけて訴えてきた。
「うん」
優希はサトルの体に負担がかからないように、しっかりと腕で体を支えながらも顔をさらに近づけてきた。
「絶対だよ!」
サトルは「絶対だ」と言いながら、そのまま優希の後頭部をそっと支えて引き寄せ、お互いの傷を塞ぐように深く口付けた。
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