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第5話

 その日はどんよりと雲が空を覆っていた。雨が降りそうで、降らない。夏なのに肌寒い風が身体を通り抜けていき、エルシュフィールは身震いする。  孤児院を訪問した日から数週間が経ち、暑さはかなり和らいでいた。  今日は大神殿に併設された施療院を訪れている。  施療院とは本来、巡礼者や旅人たちが宿泊をする施設である。ここでは貧しく、医者にかかれない者たちも受け入れ、食事や医療を提供していた。  しかしそこには別棟がある。別棟には今の医療知識や医療技術ではどうにもならない患者が収容されているのだ。  エルシュフィールは施療院で診察や治療、介護の指示をした後、足早に別棟へ向かう。セドリットも一緒だ。 「別棟はどんな場所かわかっているか?」  一応、聞いておく。別棟はデリケートな患者が多い。この前、訪れた孤児院とは訳が違う。悲しみ、苦しみに満ちている場所だ。 「はい、手の施しようのない患者さんたちが収容されている、と聞いています」 「専門的な知識を持っていたり、慣れている職員、神官たちでないと手伝いも難しい。別に来なくてもいい、外で待っていても構わないがどうする?」 「いや、行きます。何ができるかは分かりませんが、自分でもお役に立つことがあるはずです」  真っ直ぐな瞳でそう言われてしまうと、断ることもできない。  何かを手伝う、助けると言葉にすることは簡単だ。それよりも行動に移すことの方が難しい。けれどセドリットならできるだろう。エルシュフィールはセドリットを信じることにした。  エルシュフィールは大部屋に行き、様子を見る。  孤児院の職員は子供達が元気なためか、にこにこ、と明るい者が多い。しかしここは淡々としていて、重苦しい空気が常に流れていた。  介添がないと食事ができない患者、前屈みで苦しそうに胸を抑える病人、うまく息ができず、咳き込む老人など、見ているだけで辛くなってくる。 「エルシュフィール様、こちらです」  こういう人々を救いたくて、医者になったが、いまだにそれは叶わない望みだった。  苦々しい思いでセドリットは職員の案内に従った。  ベッドは大部屋の壁の端に設置されており、その真ん中をエルシュフィールとセドリット、職員は進んでいく。大部屋の奥には個室に繋がる扉があり、職員が鍵を開けた。  この部屋には南向きに窓がある。窓は開け放たれており、日光は部屋の中を明るく照らし、風が時折カーテンを揺らしている。しかし部屋の中には、籠った死の香りが染み込んでいた。  明るいのに何故か暗い、風通しはいいのにじめじめしている。嫌な雰囲気の部屋だ。 「ここは……」  セドリットも言葉が出ないようで、目線をきょろきょろと泳がせながら、所在なげに部屋へと入ってきた。  エルシュフィールも最近は足が遠のいていた。もうここで自分ができることはほとんどない。職員に薬の調合を指示し、それを患者に飲ませているだけだ。  それに否応なく、ここへ足を踏み入れれば自分の未熟さと向き合うことになってしまう。  それでも重い腰をあげ、ここを尋ねたのはいよいよだ、という報告を受けたからだ。 (救えなかった患者の最期を看取るのも医者の義務だ……、私の責任なのだから……)  エルシュフィールは自分に言い聞かせた。  奥の個室の、真ん中のベッドで横になっている女性は年老いた老婆のように見える。しかし実際はまだ初老だ。病気と長く苦しい療養生活で実年齢より老けて見えるようになってしまったのだ。  彼女は、医師になったばかりのエルシュフィールが初めて受け持った患者であった。  初めて彼女に出会った時、エルシュフィールは軽い肺病みだと診断した。  信心深く、よく大神殿に来ていた彼女は、まだ新人の神官で、医師になりたてだったエルシュフィールを可愛がってくれていた。  大神官以外に心を許せる人もいなかったエルシュフィールは、彼女の明るさと社交的な雰囲気に亡くなった母を重ね合わせていた時もある。  女神をどこか信じきれないことを吐露したこともあった。しかしそれを彼女は笑い飛ばした。『そういうこともあるさね! 別に変なことじゃないさ』という言葉に女神を信じていないのに神官になった、という矛盾と葛藤に悩んでいた当時のエルシュフィールは随分、救われたのだ。  薬を飲み、栄養のある食事を続けていれば治る程度だと、エルシュフィールは説明し、彼女も納得していた。あの時はまだ元気で仕事もしっかり行っていた。  しかし、彼女は恐ろしい病に罹っていた。本当は肺病みではなかったのである。臓器や血管、骨など身体の一部に悪性の病巣が作られ、血液の流れに乗って広がっていく、進行性の病であった。たまたま彼女の場合、最初に病巣ができたのが肺であり、肺病みと症状が似ていた。  あらゆる手を尽くし、治療に努めたものの、病巣は全身に広がり、ひっきりなしに苦痛が彼女を襲っている。今はその痛みを緩和する治療だけをしていた。あとはもういつ亡くなってもおかしくない状況だ。  彼女を見ていると、見ないようにしていた心のとある部分が揺さぶられてくる。  エルシュフィールは医師になり、たくさんの死やどうしようもない現実に直面した。  最初の頃はそれなりに悲しんだり、自分の技量の無さに憤ったりしていたものの、数をこなしてくるとやはり慣れてくるものだ。また慣れていかないと、自分の心が壊れていく、と感じた。  冷静に、と努めているのは心の中の麻痺させた部分が蘇ってこないようにするためでもある。  傲慢になってはいけない。助けられない、救えないこともある。むしろそういうことの方が多いだろう。だって世界には女神などいない。奇跡など起きない。だったら、人間が人間を救うしかない。  女神が奇跡を起こすのではなく、物事の原理に従って、時間が流れ、肉体や病気はいい方向にも、悪い方向にも変化していくものだからだ。  彼女が、うぅ、とか細く唸った。今の治療では、苦痛緩和薬が効かなくなってきたのだろう。だがこれ以上、身体にその薬を入れると、いたづらに死期を早めるだけになってしまう。 (どうなのだろう……、この苦痛を繰り返し、ただただ死を伸ばしている行為は、果たして人の為となっているのだろうか……)  だが医師として、という言葉が頭によぎる。人の命を救うため、医師になったのに、もっと死に近づける方向へ手を施すことはきっと間違っている。  エルシュフィールは、側の椅子に座った。どうすればいいのかわからなかった。  エルシュフィールが思考している間にも、苦痛は酷くなっていき、彼女の息は荒くなっていた。 「大丈夫だ、もう大丈夫だから……」  思わず泣きそうな声が自分の口から漏れていた。しかし、エルシュフィールは気が付かない。  エルシュフィールは彼女の枯れ木のように細い腕をさすった。それしか思いつかなかった。 (この人はきっと充分生きた……、もう苦しみから解き放ってあげてほしい)  願わくば、病気を治してあげたかった。しかしそれが叶わないなら、せめてこの苦しみから彼女を解放してやってくれ。 「うぅ……、あ、あぁ……、ぅ……」  彼女は目も見えておらず、耳もほとんど聞こえていなかった。視覚や聴覚を司る神経すらも病巣に侵されているからだ。  苦痛を訴える声もか細く、ほとんど息に近くなっていく。  それでも、少しでも苦痛が和らぐようにエルシュフィールは身体をさすり続ける。  たくさんの死を看取ってきた。最初こそ悔しく、自分の無力さを嘆いていた。しかし、その悲しみが積み重なる内にエルシュフィールの心は目の前に死に対して、次第に麻痺していった。  なのに、麻痺させていた部分が揺さぶられてくる。 (死んでほしくない、この人を死なせたくない……)  この人にだけ、強く生きてほしい、と願うのは医師として失格だろう。医師は万民を公平に救う存在でなければならない。  けれども、医師としてのエルシュフィールにも、もうどうしようもできない。身体をさすり、『大丈夫だから』と呟くだけ。こんなことしかできない自分が情けなくて仕方なかった。 (大丈夫って、大丈夫ってなんなんだ……、何も大丈夫じゃない……) 『大丈夫』という言葉自体、自分に向けて言っているのか、彼女に向けて言っているのか、エルシュフィールにはもうわからなくなっていた。  彼女の息がか細くなり、さすっていた部分がだんだん冷たくなっていく。  もうすぐ彼女の命が消えそうなことに、エルシュフィールは勘づいた。 (せめて、せめて……、苦痛がなくなってしまえば……、あぁもう何も考えられない……)  エルシュフィールの思考が停止し、心がまた固く麻痺しようとした時であった。  突如、エルシュフィールの後ろに立っていたセドリットが手を伸ばし、彼女の手を両手で握ったのだ。  突然の行動にエルシュフィールだけでなく、控えていた職員も驚いているのが見える。 「な、何をして……」 「安心なさってください! 女神ヘレージアは貴方のお側にいます!」  セドリットが大きな声で言葉をかけると、女性はゆっくりと目を開けた。  そして、声を発したセドリットではなく、エルシュフィールの方を向いた。  エルシュフィールは驚きで声が出ない。思わず身体を硬直させてしまう。  彼女は目も見えず、耳もほとんど聞こえていない。なのに真っ直ぐエルシュフィールを見ていて、視線が合ったからだ。 「なんて……、綺麗な赤い瞳……、女神……、さ、ま……」  言葉ももう発せないはずだった。セドリットの言葉に反応し、エルシュフィールを見つめ、彼女は穏やかな表情をしている。声も掠れてはいるが、はっきりと聞こえ、苦痛の色はなかった。  彼女は幸せそうに、エルシュフィールに対して目を細める。そして、しばらくすると、彼女は目を閉じ、ベッドに身体を預けた。セドリットも手を離した。  エルシュフィールは急いで彼女の脈を確認する。もうわずかともふれていない。彼女は亡くなっていた。  けれども、生前に見せていた苦痛の表情は全くない。穏やかで、安からかな死に顔だった。うっすらと微笑んでいるようにも見える。  ということは、彼女は苦痛なく、逝けたのだろう。 (何が起きた、一体どういうことだ……)  今、起きたことの説明がほしい。エルシュフィールは切実に感じた。 「目は、目はもう見えなかったはず……、どうして私を見て……」 「エルシュフィール様」  混乱して、思わず取り乱してしまう。心の中で留めておくべき言葉が口から漏れ出してしまい、ぶつぶつ、と声になってしまった。それを遮るように、セドリットに名前を呼ばれる。 「彼女の魂は女神ヘレージアの元へと召されました。どうか、弔いと安らぎのお言葉をお願いします」 「あ……、あぁ……、わかった」  動揺を隠せないまま、エルシュフィールはセドリットに促され、手を胸の前で組む。そして、死者を天へと見送る弔いと祝福の言葉をかけた。  エルシュフィールが主となり、セドリット、その場にいた職員と共に、三人で彼女の魂を見送る儀をした。  弔いと祝福の言葉をかけながらも、エルシュフィールには身が入っていない。  悲しいだとか、寂しいだとか、そういう感情よりも心の中は困惑と疑問、自分に対する無力感に埋め尽くされている。 (彼女は、どうしてこんなに穏やかな表情をしているんだ……)  一つ言えることは、今際の際に彼女からこの表情を引き出したのはセドリットの言葉と行動である、ということだ。  どんな形であれ、病で苦しんでいた彼女が最期のほんのひとときであっても、安らかな時間と彼女らしさを取り戻せたことは良かった、と感じている。  簡易の儀をした後、職員は彼女の穏やかな表情をしている顔に清潔な白い布を被せた。そしてベッドごと、安置室へと移動させていく。  いつもならそれも手伝うが、今のエルシュフィールは放心し、側にあった椅子に座り込んでしまっていた。 (目が見えなかった者が見えるようになるなど……、そんなこと、今の医学では説明がつかない)  いや、違う。それも疑問だが、一番の問題は別のところにある。 (一体、私は何をしていたのだろう……)  あのまま治療を続けていれば、彼女の延命はできたかもしれない。けれどもいたづらに死期を遅くさせ、そして苦痛も同じように長引いていっただろう。  最期の、あの穏やかな表情は決してエルシュフィールでは引き出すことはできなかった。 「私はただ……、彼女を救いたかっただけなのに……」  命も、尊厳も。かつて彼女の何気ない言葉で心が軽くなったエルシュフィールは恩返しとして、そして医師の使命として、彼女の病気を治し、また元気に生きてほしかった。 「救われましたよ、あの患者さんはエルシュフィール様を見て、そのお姿に女神ヘレージアを重ね、最期は穏やかに天へと召されたのです。これを救いと言わずになんと言うのですか」  もう自分の容姿云々、女神云々と文句を言う気持ちはなかった。実際、セドリットの言う通りだったからだ。 「あぁ……」  命は救えなかった。だが、セドリットの言葉に反応を示し、エルシュフィールを見、女神と重ね、確かに彼女の魂は救われた。それは紛れもない事実だろう。  それしか方法が無いみたいに、命を救うことに情熱をかけていた自分が馬鹿らしくなる。  かつて、セドリットを罵るために使った言葉が蘇ってきた。 (私も、狂信者と何が変わらないんだ……)  あるいはわざと目を背けてきたのかもしれない。本当はきつい治療をやめ、命の時間を縮めてでも、苦痛緩和薬の投与量を増やし、穏やかで彼女らしくなれる時間を取るべきだったのかもしれなかった。 (だが、私は『命を救わなければ』と考えるだけで、その方法を取ることができなかった……)  その結果、患者に苦しみを与え続けていたことも事実だ。  俯き、目をきつく瞑る。唇も閉め、拳を固めた。 (命を救うことと、魂を救うこと、両立することはできないのか、どちらかしか選べないのか……)  かつて、大神官に言われた言葉が脳裏に思い起こされる。 『人間ではどうしようもない現実に直面した時、信仰は人を救うことがあるのじゃ』  どうして、女神という存在がこの世にできたのか、ほんの少しだけエルシュフィールはわかった気がした。

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