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第6話

 もう時刻は夜中に近い。エルシュフィールは大神殿の敷地を歩いている。   いつもならこんな時間に、大神殿にいることはほとんどない。だが、今日は雑務が終わらず、自分の屋敷に帰るのも面倒になったので、急遽、大神殿に泊まることにしたのだ。  いつもなら集中し、雑務などさっさと終わらせて、明日に備えるところだが、今日は何一つ身が入らなかった。  雑務でさえ、身が入らない理由は、昼間のことが原因だろう。 (いったい私は、何をしてきたんだ……)  ずっと心の中に疑問と、後悔と、その他様々な感情が渦巻いていた。そんな状態が続き、泊まりがけで仕事を行う、と決めても、集中できず、エルシュフィールは遂に外へ出てきたのだ。  今は夏の季節だが、夜になると風が涼しい気候になる。様々なことを考えすぎて、熱を帯びていた頭が程よい気温にさらされ、冷やされていく。  チチチ、と羽虫が鳴きながら、夜風に乗って、エルシュフィールの側を通っていった。  執務室に篭っていると、どうしても彼女のことを考えてしまう。医師として麻痺させていた心が揺さぶられ、今日は随分、神官として、医師として、無様な姿をセドリットに見せてしまった。二度とこんなことはないようにしなければならない。 「ダメだ、ダメだ。気分を変えるために外に出てきたんだ!」  ぱし、と両頬を両手で叩く。痛くはない程度に力を抑えたつもりだったのに、左頬に少し痛みを感じた。  あの後、彼女は共同墓地に埋葬された。元より、身寄りがなかったのだ。墓地を管理している神官は『随分と良いお顔で逝かれたのですね』と嬉しそうに彼女を見て、微笑んでいた。  今、大神殿の敷地にはほとんど誰もいない。宿直の神官と聖騎士が数人いるが、交代で勤務となる。姿を見ないから、今は宿直室で休んでいるのだろう。  エルシュフィールはどこへいくともなく、足の赴くまま歩いていく。  どこの部屋も明かりが消されていて、辺りは暗いが、今夜は満月だった。足元は照らされていて、歩くだけなら難はない。  しかし自然と足はもっと明るい方向へと向かっていた。 「主聖堂か……」  エルシュフィールは口の中で小さく呟く。  ふらふらと大神殿の敷地内を彷徨っていたエルシュフィールが辿り着いたのは主聖堂だった。  主聖堂の祭壇は昼夜を問わず、蝋燭が灯されている。後ろの扉は開け放たれていたため、エルシュフィールはそこから主聖堂内へと入っていった。  いくつもの蝋燭の炎に照らされた女神ヘレージア像は手をこちらに差し伸べ、穏やかに微笑んでいる。 (私もあの手をとれば、もっと楽に生きられるのだろうか……?)  何だかぼうっと、頭が霞みがかっている。疲れが溜まってきたのだろうか。蝋燭の炎が今日安らかに亡くなった彼女の顔に一瞬見えた。  その手に導かれるように、エルシュフィールがゆっくりと歩みを進めているときであった。 「エルシュフィール様!」  蝋燭から彼女の顔が消えた。後方から大きな声で呼びかけられ、エルシュフィールは、はっと我にかえる。振り向くと、セドリットが立っている。いつもの騎士団服ではなく、地味な色の半袖上衣に、濃い色の長ズボンを履いていた。おそらく私服だろう。 「セドリットか……」  聖騎士の若い団員は基本的に、大神殿近くの宿舎で寝泊まりしている。セドリットもそこに住んでいたはずだ。  本来、セドリットはこんな時間にここはいるはずがない。また今日が宿直の日だという報告も受けていなかった。 「こんなところで何をしているんだ? 宿直なのか? 誰かと交代したのか?」 「いいえ。僕は毎晩、寝る前にここで女神様に祈りを捧げているのですよ」 「……そうだったのか、お前らしいな」  寝る前にわざわざ主聖堂まで来て祈りを捧げるなんて、本当にセドリットらしい、とエルシュフィールは感じた。  ちなみにエルシュフィールは儀式以外で、夜にここへ来たことはない。 「エルシュフィール様もお祈りに?」 「まさか……、仕事が終わらなくて、気晴らしに歩いていたらここに辿り着いただけだ。ここが一番明るいからな。夜になんてほとんど来たことはない」  はは、とセドリットは笑う。 「まさにエルシュフィール様らしい答えですね、あぁ、良かった……」  暗に夜の祈りなど女神に捧げたことはない、とエルシュフィールは言ったのだが、それをセドリットに軽く笑い飛ばされてしまった。  その反応を見て、エルシュフィールは、もうセドリットと信仰の違いで歪み合うこともないだろう、と感じている。  緊張を解きながら、そうだな、と言って、エルシュフィールは近くに設置されている長椅子へ腰をおろした。そこは祭壇から見て、斜め左に設置されている長椅子だ。 「せっかくですから、少しお話しをしませんか?」 「あぁ、良いだろう。構わない」 「では先に、寝る前の祈りを済ませてきますね」  長い間、ずっと執務室に一人で篭っていたからか、誰かと話すこと自体、新鮮に感じた。ぐるぐる、と大神殿内を一人で回って、考え込むよりも、セドリット相手に世間話でもしていた方が余程息抜きになるかもしれない。  セドリットは女神ヘレージア像の真正面へと行き、膝をついた。頭を垂れ、胸元で手を組む。  蝋燭の淡い光に照らされ、セドリットの横顔がゆらめいている。口元が小さく動いているから、祈りを捧げているのだろう。囁くような声は聞こえてくるが、何を言っているかまではこちらには聞こえてこない。 (確かに、神聖な雰囲気はあるな……)  エルシュフィールはセドリットから、女神像、蝋燭だらけの祭壇、天井へと視線を上に上げていく。  背の高い天井の、一番上にあるステンドグラスが満月の一際明るい月光に照らされている。大理石の白い床に様々な色を落としていた。  もうセドリットは何も囁いていない。しん、と張り詰めた静謐な空気が主聖堂内を満たしている。  そして、エルシュフィールは視線をひざまづいているセドリットへと戻した。 (何を……、どんなことを考えていたら、あんな言葉がすぐに出てくるのだろう、あんな行動ができてしまうのだろうか)  また今日の昼頃を思い出す。彼女も深く女神を信じていたし、セドリットも同じだ。何か近しいものを感じ、とっさに行動をとったのかもしれない。  また思考の渦に沈んでいく。  エルシュフィール様、と呼ばれ、声の方向へ視線を動かした。  いつの間にか、祈りを終えたセドリットが側に立っている。 「お待たせしました。横に座っても?」  あぁ、と素っ気なくエルシュフィールは、返事をした。セドリットは気にした様子もなく、エルシュフィールの横に腰を下ろした。  セドリットから、ほのかに石鹸の爽やかな、さっぱりとした香りがした。おそらく、風呂に入りたてなのだろう。 「風呂上がりに涼むには、一番良い季節だな」 「へ?」  考えていたことを、脈絡もなく、いきなり口に出してしまうことがたまにある。悪い癖だと思ってはいるが、なかなか直せないでいる。  でも今夜はそれについて説明するのも、謝罪するのも面倒だと感じている。ゆっくりと話をしたい気分だった。 「ほら、お前から石鹸の香りがする。風呂に入ったんだろう?」 「あぁ、匂いがきついですかね……、無香料の物を好んで使っているのですが……」 「いいや、石鹸の香りは好きだ。衛生的だし、さっぱりとした気持ちになる」  エルシュフィールは帰ったら、絶対に自分も風呂に入ろう、と心に決める。 「それなら良かったです……」  会話はそこで一旦途切れ、しばらく沈黙と静けさが辺りを支配した。  しばらく二人で同じ方向を見ていると、セドリットがもどかしそうに身体を動かしたのが横目で見える。 「実は今日のエルシュフィール様が、どうもエルシュフィール様らしくないように感じて……、気になっていました」 「あぁ、そうだな……、全く私らしくない。こんな時間まで簡単に終わる仕事を引き延ばしていたり、夜に出歩いて、主聖堂まで来てみたり」  わざと言葉を誤魔化し、話題をずらしてしまう。セドリットにまで見透かされ、しかも心配されてしまうほど、自分は取り乱していることを理解した。思っていたよりも、深刻だ。早く元の、いつも冷静な自分に戻りたい。  心とは厄介なものだ。言葉では何と言えても、その内まで騙すのは自分自身でも難しい。  エルシュフィールはいつの間にか、本音をこぼしてしまった。 「……彼女は初めての患者だったんだ」  誤魔化したはずの心が抑えきれなくなってくる。ぽろぽろ、と溢れ出る感情は止まらない。 「私が『女神を信じていないのに、神官になってしまった』と悩みを口にしたら、あの患者は、彼女は笑い飛ばしたんだよ。『そういうこともある』って。当時は医師にも、神官にもなりたてで、色々迷っている時期だったから。そういう風に笑ってくれる人もいるんだ、と思ったら随分心が軽くなった」  エルシュフィールは俯く。 「あの患者のお陰で、今の迷いない自分がある。だからどうしても、彼女の病を治したかったのに……、私は何もできなかった」  眉間に拳を当て、ぐ、と目をきつく閉じる。 「でもあの人は安らかに息を引き取りましたよ、エルシュフィール様のおかげで。あのまま苦しみながら死んでいくより、ずっと良かったと思います」 「彼女が安らかに逝けたのは私のお陰じゃない。お前だろう」 「え? 僕ですか?」  思ってもみなかった、というような声色が聞こえてきたので、思わずセドリットの方へ顔を向けた。 「お前だよ、お前の言葉と行動が奇跡……、いや、今の医学では説明のつかないことをやってみせたんだ」  この後に及んで、まだ奇跡という言葉を使いたくない自分の心の頑なさに思わず笑ってしまいたくなる。  自分はこんなにも頑固だっただろうか。行動も、考え方も一方向にしか進められない。 「狂信者はお前ではなく、私の方だったな……」  初対面の時が思い出される。セドリットに対して、啖呵を切った言葉がまさか自分に返って来るなんて、考えもつかなかった。エルシュフィールは、ふ、と自嘲気味に笑う。  セドリットと目が合う。心配そうな表情をしていた。 「やっぱりエルシュフィール様らしくない。普段の貴方なら、自分で自分を傷つけるようなことで笑わないはずでしょう」 「なら教えてくれ、どうすれば、患者の死の間際にあんなことが言えるんだ? あんな行動が取れるんだ? 医師である私は何もできなくて……、ただただ身体をさすることしかできなかったのに……」  悔しさの中に悲しさ、諦めの気持ちが混じってくる。  またぽつり、と漏れ出てくる言葉は自分を責め続けている。 「一体、私は何をしていたんだ……」 「エルシュフィール様は十分、医師として手を尽くされたのだと思います。だからこそ、今の言葉が出てくるのだと。それにあの女性の手の甲には誓印がありました。深く女神様を信仰している証です」  確かに彼女は右手の甲には、誓印と呼ばれる彫り物が施されていた。身寄りがいないから、せめて女神をずっと感じていたくて、手に彫った、と笑っていた彼女を思い出す。 「あの出来事が奇跡なのかどうか、僕にはわかりません。けれどあの人が女神様を拠り所にしていて、とても信仰心が篤かったことは理解できました」  女神、信仰心など思い出したくない過去がエルシュフィールに迫ってくる。自分を取り繕うことも忘れ、エルシュフィールはどうしようもなさをぶちまけた。 「どうすればその信仰心を保てる? 私もかつて篤く女神を信仰していたっ! この容姿だからな! だが女神は、彼女は、誰も救わなかったんだ、私のいた村は疫病に侵されて、私以外全員死んだんだっ! 家族も、友人も、何もかもっ! 彼女だってそうだ……、女神は私から大切なものを何もかも奪っていくんだ……」  心が熱く興奮してきた。声が大きくなり、主聖堂に響く。いつの間にか、セドリットに迫っていて、自分の行動に自分で驚いてしまった。  目の前には真っ直ぐで真剣な鳶色の瞳がある。無垢で、純真だと感じていた視線だ。しかしその中にどこか寂しげなものがあることにエルシュフィールはかすかに気がつき、息を呑んだ。 「エルシュフィール様、落ち着いてください」  そう言われ、手を取られた。そのまま両手を優しく握られる。エルシュフィールを包み込むセドリットの手は大きく、暖かい。それにガサガサしていて、ところどころ固いところがあった。きっと剣の訓練でマメやタコができているのだろう。  柔らかく包まれているわけでも、決して肌触りがいいわけでもない。  だが、握られた手からはセドリットの優しさが伝わってくる。 (どうしてこんなに落ち着くのか……)  振り解こうだとか、離そうだとか、考えられない。ずっと甘えていたくなるような、そんな優しさがセドリットの手から伝わってくる。  この暖かさを失いたくない、と思っている自分がいることに気がつき、エルシュフィールは唇を引き結んだ。  そんなこと、全く自分らしくない。ほだされそうになり、エルシュフィールは深呼吸し、自分で自分を宥める。  今夜はかなり感情的になりすぎた。本当に自分らしくない行動や言動ばかりをしている。 「すまない……、興奮しすぎた」  やっと手を離す。夜の空気の冷たさに触れ、ますます頭が冷えていった。けれど彼の優しさはまだ手に感触として残っている。  麻痺させていた部分が朗らかに解けていく。 「……僕の話をして良いですか?」  セドリットからの唐突な質問に対し、とっさに言葉が出なかった。神妙な、だけど真剣な眼差しをしている。やけに緊張感を孕んだ空気に飲み込まれそうになりながら、エルシュフィールはゆっくり頷いた。 「お前の話とは……、なんだ?」  純粋に気になる。エルシュフィールは急速に、セドリットに対して興味を抱き、もっと話をしたいと感じている自分に気がついた。 「僕もエルシュフィール様と同じように家族や友人を疫病で失っているんです」 「え?」  突然の告白に驚き、言葉が出なかった。思わず目を瞠る。そんな話が出てくるなんて思いもよらなかった。  セドリットは話を続けている。  「僕が九歳の頃です。僕の家族は五人家族で、下に弟と妹が一人ずついました。町で疫病が流行るとあっという間に僕以外の家族全員が罹ってしまったんです。医者も薬も間に合わなくて、体力のない小さい妹、弟から亡くなり、父さんはある日突然亡くなってしまって、最後に残ったのは母でした」 「そうだったのか……」  セドリットは自分と同じような経験をしているのか。エルシュフィールは衝撃的を受けた。  相槌を打ちながら、神妙に頷く。 「僕だけは疫病に罹る気配がなくて、すごく身体だけは元気だったんです。看病しながら、町の小聖堂で祈りを捧げていました。家族を救ってください、町のみんなを救ってくださいって。まあ……、祈りは届きませんでしたね」  セドリットが苦い笑顔で、エルシュフィールの顔を見る。瞳が少しだけ潤んでいるように感じた。その時の悲しみを思い出したのかもしれない。 「両親は僕が出来るまで、なかなか子を授からなかったんです。だから母さんが毎日、女神様に祈って、ようやく一年後に授かった子供が僕でした。その後、弟妹は立て続けにできた、と聞いています」  セドリットは淡々と語っている。その話し方に、エルシュフィールは妙に悲しみを覚える。いつもの彼の話し方ではない、と感じた。セドリットはエルシュフィールの様に感情を抑えた話し方をしない。  彼もまた心に大きな傷を負っていることをエルシュフィールは理解した。 「そういうことだからもちろん、家族全員が女神様に感謝していました。自分たちが生まれ、今、幸せに暮らしているのは女神様のおかげだ、と。決して裕福な暮らしではなかったけれど、女神様に感謝と祈りを捧げながら、僕たち家族は慎ましく暮らしていました」 『暮らしていました』という過去形の言葉にまるで自分のことのように、エルシュフィールの心はつきり、と痛んだ。自分の過去をなぞられているかのような気持ちがして、苦しい。 「そう、だったんだな……」  今は相槌を打つことぐらいしかできそうになかった。思わず下唇に力が入る。 「それで後はさっき言った通りですね。みんな疫病に倒れていって、死んでしまって、母さんと僕だけが残りました。そして、母さんも疫病に罹って、僕が看病をしていたんです。それでも良くならず……、薬もなかなか届かなくて……、医者もいないし。悪くなっていくばっかりでした」  エルシュフィールは話を聞きながら、動けないでいた。セドリットの辛さがしんしん、と伝わってくる。耳だけはずっと彼の言葉を注意深く聞いている。 「母さんがやったように僕も毎日、町の小聖堂へ行って、祈ったんです。でも良くなるどころか、悪くなる一方で……、思わず病で寝ている母さんに言ってしまいました。どうして毎日女神様に祈っているのに母さんは良くならないんだ、毎日女神様に感謝し、祈りと信仰を捧げて生きてきたのに、父さん、弟、妹は何で先に死んでしまったんだって」  セドリットは懐かしいものを見るかのように、白銀の女神像へ視線を送っている。少し口角が上がり、微笑んでいるのがエルシュフィールには見えた。 「僕もエルシュフィール様のように、母さんに言ったんですよ。女神なんていないって」  女神像を見ていたセドリットは、いつの間にか目をきつく閉じていた。 「そんなことを言ったら、母さんにきつく叱られました。『お前が疫病に罹らず、元気でいてくれている。それこそ、女神様がいる証拠だろう。奇跡に違いない』って。その言葉を聞いて、『それのどこが奇跡なんだ、母さんが死んだら僕一人になってしまう。そんなことになるなら、僕も病気に罹って家族みんなと一緒に死にたい』って言ったんです。その時は口論になりました。それで喧嘩して……、でもそれが最期の元気だったんですね。次の日、母さんはかなり衰弱していました」  膝の上に置かれた拳は小刻みに震えていた。温い風が主聖堂をゆっくりと通っていく。蝋燭の灯りでできた影が女神像にゆらめいていた。 「あの時の口論の決着はまだ着いていません。衰弱して、死期を悟った母さんは僕に『貴方が疫病に罹らなかったのは女神様のおかげで、奇跡だと今でも信じている。その恩を決して忘れてはいけない。だから、これからは女神様に感謝して、清く、正しく、強く生きてほしい』と言って、その後、何日かも経たないうちに母さんは亡くなりました」  セドリットの拳の震えはもう止まっていた。きつく閉じられていた瞳はもう開き、強く、真っ直ぐに女神像を見つめている。  エルシュフィールは力強さを孕みながらも、悲しみが見え隠れするセドリットの横顔から視線を逸らすことができなかった。 (あぁ、怒りはないのか……)  けれども揺れている。蝋燭の影のように、セドリットの心が過去に揺さぶられていることがよくわかる。 「……そうだったのか、辛い話を思い出させてしまってすまない」  そう返すことが精一杯で、他に言葉が出てこない。 「いえ、済んだことです。家族を失ったことは辛いですが、僕は母さんの言葉を支えにして生きています。生き残ったことが女神様のご意志なら、女神様、民、そして国に仕え、この命を全うしようと決めたのです」  セドリットの瞳には強さが漲っている。セドリットには彼だけを残し、家族を救わなかった女神に対する怒りがないのだ。  まるで、エルシュフィールとは真反対だ。 (セドリットは、彼は……、いつだって前を向いている。過去に囚われていないのか)  いつぞやの孤児院にいた子供を思い出した。  あの子も悲しみに囚われることなく、未来の話をしていた。  私も未来の話がしたい。未来に向けて、明るく頑張っていきたい。 「私は……、一体、何をしているんだろう」  心の底からの本音が声となってまろびでる。誰に聞かせるわけでもなく、解決方法もわからない。  今のエルシュフィールの自分に対する評価だ。  エルシュフィールの原動力はいつも怒りだった。冷静さを装いながら、女神を憎み、怒り、その思いを薪として、思考し、行動している。 「貴方はたくさんの人を救っていますよ」  いいや、自分は過去に囚われたままなのだ。 「エルシュフィール様は立派な神官で、そして腕利きの医者でもある」  セドリットの優しさが今は煩わしい。下手な慰めよりも、核心をついた言葉で詰ってもらった方がよほど良かったかもしれない。  そして、その優しい言葉に対して、何と応えれば良いのか、答えが見つからなかった。 「お前のことを狂信者と侮辱してすまなかった」  セドリットは盲目的に女神を信じているわけではなく、彼自身が信仰を揺さぶられる経験をし、それでいて尚且つ『女神を信仰する』という決断を下したのだ。  田舎から出てきたばかりで、世間知らずな、ただただ盲目的に女神を信じている者とは全く違う。 「いえ、僕もエルシュフィール様のことを勘違いしておりましたから。権力欲の塊、と言ったことは謝罪いたします。すみませんでした」  セドリットはふぅー、と長く息を吐いた。緊張から解き放たれたような、何か重しを取り外したかのような、そんな雰囲気だ。  エルシュフィールもセドリットの緊張につられていたようで、知らず知らずの内に、身体に力が入っていた。こちらも小さく息を吐き、余計に入っていた身体の力を抜く。  二人は同じ方向を眺めている。女神像と供物と蝋燭でいっぱいの祭壇だ。  しばらく沈黙が流れる。蝋燭は相変わらずそよかな風に揺れ、淡い影が白い床や煤けた壁に濃淡を作っている。  エルシュフィールは自分と似た経験をし、女神への信仰を棄教しかけ、しかしまた再度『女神を信仰する』という決意をしたセドリットの強さを羨ましく感じた。  それは、どうしてもエルシュフィールができなかったことだ。 「信仰は人それぞれですが、何があったとしても、この国で女神様を信じない、という決断をした神官はエルシュフィール様だけでしょう。それだけエルシュフィール様は自分を犠牲にして、人々を救おうとしている。すごいとしか言いようがないではありませんか」  セドリットに笑いかけられた。先ほどまでの悲しみや諦めはない。木漏れ日みたいに、素朴で優しい笑顔だ。  今の言葉がセドリットの本心であることはエルシュフィールにもわかっていた。 「……あぁ、女神はいつだって何もしてくれないからな。私が、私たち人間が、何とかするしかないんだ」  怒りを捨て、女神を信仰し、未来に向かって、進むセドリットと、過去を忘れられず、怒りを原動力にし、人間を救おうとしている自分。どちらが強く、正しいのかはわからない。  けれどこの後に及んで、まだ怒りを否定できない自分の弱さが憎い。憎まれ口を叩くことにより、心を守ろうとする小賢しい真似をする自分がずるくて、情けない。  エルシュフィールは目の前の巨大な女神像を睨む。忌々しいほどに自分に似ている。

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