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第9話

 医療に携わる仕事を天職だと思って、働いている。だから、自分がどういう状況になっているのか、よくわかっていた。  かなり重症だ。発熱がとにかく治らず、意識が飛び飛びになっている。森の中で意識を失ったはずなのに、気がついたらベッドの上におり、日付を確認したらあの日から一週間も経っていたのだ。  エルシュフィールの左腕に刺さった矢には毒が塗ってあった、と聞いた。大型の動物を狩るときに使う狩猟用の毒で、麻酔作用があったらしい。  毒というよりも、身体を動けなくするための麻酔薬に近いだろう。もちろん解毒薬などなく、傷口を洗い、付近の血を抜き出し、後はひたすらその『毒』が身体から抜けていくのを待つしかない。  それと森の中の、不衛生な場所で矢傷を受けたからか、傷口が膿み、主にそれが発熱の原因となっている。 (私にはやるべきことがあるのに……)  それにあの女の子は無事だろうか。エルシュフィールが呑気にベッドで療養しているのだから、セドリットや他の聖騎士たち、兵士たちが助けてくれたはずだ。  おそらく野盗たちは捕縛されただろう。  今はベッドで動けない自分が情けなくて仕方ない。  エルシュフィールがうまく動かない身体で拳を握りしめた時、病室の扉が開いた。 「目を覚まされましたか、エルシュフィール様!」 「……あぁ」  小さく頷く。久しぶりに声を出したが、掠れていた。  医療神官に付き添われ、入ってきたのはセドリットだ。隔離されていたから会うのも一週間ぶりである。 「かなり回復されていると聞きましたが、体調はどうでしょうか? あの時、僕がもっとしっかりしていれば、貴方をこんな目に遭わせることもなかったのに……」  セドリットはしっかりと自分のやるべきことを精一杯していた。責められるべきは、こういう事態を想定せず、計画を作成したエルシュフィールだろう。 「いや……、皆に、お前……、セドリットに迷惑を……、かけたのは、私だ……」  全てを説明する体力はまだ戻ってきていない。そう言うのが精一杯だった。 (そういえば、子供は無事だろうか……。怖い思いをして、心に傷を負っていないだろうか……)  セドリットの顔を覗き込む。 「あの時の、子供は……?」 「エルシュフィール様が身を挺して守られたおかげで傷ひとつ負っていません。咳をしていましたが、病状も軽く、今は皆の手伝いをしてくれています」 「よかった……」  強張っていた身体の力が抜けていき、ベッドに身を預ける。エルシュフィールは病室の天井を見つめた。  一つ、懸念していたことが大事になっていないようで安心した。  そしてまた、視線をセドリットに戻す。 「セドリット……、助けてくれて、ありがとう」  身体の怠さと共に眠気もやってくる。これだけ他人と会話をしたのは本当に久しぶりだったのだ。 「エルシュフィール様?」  息がしにくい。内側から発熱がぶり返してくる。  不安そうなセドリットの榛色の瞳がいつまでも脳裏に焼き付いている。  意識が揺らめいている。エルシュフィールは自分の身体が眠っているのか、起きているのかその区別さえつかなくなっているのを感じた。  時間も、日にちさえもわからない。気がつけば陽光が差していて、ふとした瞬間に目が覚めると月が窓から見えている。  けれどずっと意識を保たせておくことはできず、瞼がスッと落ちてしまうのだ。エルシュフィールはこの繰り返しの日々を送っていた。  眠っている間は遠い昔の夢をみていた。  最初は子供時代の幸せな時のこと。  エルシュフィールは女神から祝福を受けた者として崇められてはいたが、特別視されることもなく、他の子供と分け隔てなく、育てられた。  星草を持ち、他の子供達と笑い、歌いながら農作物や家畜の世話をする。  女神の恵みに感謝しながら、日々の生活を営んでいたのだ。  そして、いつしかその生活に翳りが見え始める。村で疫病が流行り始めたのだ。  薬草は効かなかった。医者は間に合わなかった。祈りも届かなかった。  結局、女神は何もしなかったのだ。  幼い頃に感じた絶望感が、また今のエルシュフィールを支配している。 (私は何も成せずにここで死ぬのか……)  この無力感は当時感じたものと全く同じだ。  これは女神への信仰心を棄教した罰なのだろうか。そんな自分らしくないことを考えてしまう。  そして、セドリットの泣き顔と、最後に見た不安そうな小麦色の瞳が脳裏を過ぎる。 (あの無垢な瞳を陰らせたままでいいのだろうか)  責任感の強いセドリットのことだ。一生、気にしてしまわないだろうか。  エルシュフィールの瞼は閉じている。周囲の音はほとんど聞こえていない。  別棟で嗅いだ、死に満ちたあの香りが自分からしていることにエルシュフィールはようやく気がつく。 (死ぬのか……、私は)  頭があまり働いていないからか、自分の死の実感も湧かない。体調の悪さや、節々の痛み、高熱で怠い身体などが、エルシュフィールが生を感じる唯一の感覚だった。  早くこの辛さから逃れたい、楽になってしまいたい。  死ぬ恐ろしさよりも、一時の安寧のために命を手放してしまうことの意味をエルシュフィールはようやく理解できた気がした。 (私は最期まで……、良い医師にはなれなかった)  最期、という言葉が脳裏に思い浮かんだ時だった。  手に熱い感触を覚えた。がっちりとしたその熱さに魂を引き留められる感覚を覚える。その暖かさ、いや熱さに誘われ、エルシュフィールの五感がどんどん鋭くなっていく。  痛いほど握られているが、不快感はない。  その手に何か冷たいものが落ちてくるのを感じると同時に耳元で誰かが必死で祈る声が聞こえた。 「あぁ、エルシュフィール様、死なないで」  男性の声だが、ぐずぐず、と情けなく、鼻を啜る音も同時に聞こえる。 「僕の命と引き換えに……、どうかエルシュフィール様を助けてください。誰でもいい、何でもいい……、女神様が助けてくださらないのなら、もう何でも……」  手にはずっと冷たい雫が流れ続けている。  その冷やっこさにエルシュフィールは冷静な心を呼び覚まさせられた。  ハッと身体にも心にも波紋が広がり、一時の楽に身を任せようとした自分を恥じた。  医師である自分が、自分の命を簡単に諦めるなど、あってはならない。今まで救えなかった者たちに示しがつかない。 「死な、ない……」  絞り出した声はしゃがれている。喉に水気がほとんどない。けれど言葉は止まらなかった。 「私は……、死なない、お前を一人、に……、しない」  セドリットは疫病で大切な家族全員を亡くしている。それでも女神を信じ、ここまで生きてきた。  そして、自分が生き残ったことは女神の奇跡、意思で、その命は国や民のために使わなければいけない、という強い決意を持っている。  そんなセドリットの強い信仰が揺らいでいるのだ。そんなこと、あってはならない。かつて自分が経験した辛く、悲しい棄教心を味わって欲しくない。  生きなければ。今、死ぬことの楽さに流れてはいけない。  エルシュフィールが死ねば、セドリットを大いに傷つけることになる。  瞼を開けた。ぐしゃぐしゃに歪んだセドリットの顔が掠れて見える。 「あの時……、みたい、だ」  最初に出会った時、祭服を着用したエルシュフィールを女神ヘレージアだと思い、感動の涙を流していた。 「エルシュフィール様! 目覚めて……、起きていて、瞳をどうか閉じないで……」  表情は同じだが、セドリットが今、流している涙は決して感動や喜びから来るものではない。  この辛く、悲しい涙を止められるなら、自分は女神にでも、何にでもなってもかまわない。  エルシュフィールがそれを口にしようとすると、言葉が出ない。ぱくぱく、と口を緩やかに動かし続けていると、セドリットが聡く気がついてくれた。  セドリットが水筒から水を口に含む。そしてそのまま水を口移しで飲ませてくれた。  水は冷たく冷えている。それが喉を通っていくたびに、命が再び身体の中へ、みなぎってきた。  セドリットの唇の熱さが心地よく、エルシュフィールの心に離れ難い気持ちが湧き上がってくる。 「ありがとう、おっと……」  お礼を言うといきなり抱きつかれた。エルシュフィールはその背に迷わず手を回し、ひし、と抱きしめた。 「貴方まで連れて行かれたら……、僕はきっと、女神様を信じることができなくなってしまいます」 「そんなことにはさせない。女神を信じる心はとても尊い、と私はお前に教えてもらったんだ。私はどこにも行かない。お前のそばにずっといる」  さらさら、とセドリットの後頭部の髪を梳いていると再び、唇が合わさった。  その意味がわからないほど、エルシュフィールも疎くはない。 「好きです、エルシュフィール様、愛しているんです」  好意も、不安も全て孕んだ褐色の瞳がエルシュフィールを見つめている。その不安を取り除き、柔く包み込んでやりたい、という気持ちが湧いてくる。 「私も同じ気持ちだ」  エルシュフィールは微笑むと、セドリットの両頬に手を差し入れる。そしてエルシュフィールは優しく包み込むと、こつんと額と額を合わせた。  どちらからでもなく、淡い笑いが溢れる。  芽生えた愛の感情は女神の思し召しなのだろうか。  昔の自分なら即座に否定していただろう。 (どっちでもいいな、そんなこと)  エルシュフィールに出会い、女神なんてどうでもいいという気持ちにまでなってしまったセドリットと、セドリットに出会い、女神を信じる心の強さ、清らかさを知ったエルシュフィール。互いに正反対の気持ちから始まり、思いもよらない着地点についてしまったが、根本に感じているものはきっと同じだ。  誰かのために、互いのために手を取り合いたい、という気持ちだ。  病室のカーテンの隙間から陽光が木漏れ日のように溢れる。二人は陽だまりの中で思いを確かめ合っている。  ベッドサイドの女神像が二人を祝福するように手を差し伸べ、笑いかけていた。

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