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ワンナイト・ヴァンパイア 9

「あれ……」 再び布団に潜り込んでから3時間後、顔を洗いに洗面所へ行って鏡を見てみたら、そこにあると思っていた噛み跡が綺麗になくなっていた。 寝る前に見た時には、たしかにくっきり跡があったはず。 それに、痛みもちゃんと……。 思い出そうと頭を働かせると、不思議なことに頭痛がして視界か霞む。 まるで思い出すことを拒んでいるみたいだ。 昨夜のことが夢だったのか、それとも今夢を見ているのかわからない。 「っ…!」 考えようとすればするほど頭痛が増して、意識を手放しそうになる。 こんなに頭が痛くなるのは初めてだ…。 仕方ないから考えることを放棄して、冷たい水で顔を洗ってから寝室へ戻る。 「おはようございます」 「おはよ。起こした?」 寝起きのふにゃっとした顔で挨拶をしてくれた。 いつ、どんな時でも可愛くて、一瞬一瞬を見逃したくないなと思う。 「んーん、自然に起きたから、大丈夫です」 目をこしこしと擦る南は子猫みたいで、さっきの頭痛のことなんか吹っ飛ぶぐらい微笑ましい。 「あのさ、南」 「はい?」 昨夜のこと――と言いかけて、言い淀む。 南が吸血鬼になって……俺の血を吸ったことを、どう伝えればいいのかわからなくなった。 「八雲さん?」 「あー…昨夜のことさ、覚えてる?」 「覚えてるけど……八雲さん、覚えてないんですか?」 なんて答えようか逡巡していたら、「でも、昨日けっこう飲んでましたもんね」と南がうんうん頷きながら続けてくれた。 どうやら、南の言うことが確かなら相当酒を飲んだらしい。 酒は強いほうだと自負してるけど、さっきの頭痛も二日酔いなら、まあ頷けなくはない。 それとなく「血」とか「身体が熱くなった」とか、そんなワードで話を振ってみたけど、俺の求めてる返事がくる気配はなかった。 あんなにリアルだったのに、やっぱり夢だったんだなと少しずつだけど納得。 「昨日のこと覚えてなくて、ごめん」 「謝らなくていいですよ、オレももう少し強く止めてればよかったです。ごめんなさい」 素晴らしすぎるこの心遣い、誰とは言わないけど南の垢を煎じて飲ませたい。 誰とは言わないけど。 「ところで……」 南がスマホの画面を確認しながら、期待のこもった瞳を向けて言った。 「八雲さん、トリックオアトリート」 「え?」 突然まったく別の話を振られ、なんとも間抜けな声が出てしまって少し恥じる。 なんとか思考の回路を南のベクトルに合わせて、普通に聞こえるように慎重に喉を動かした。 「そうか、ハロウィン」 「です!だから、ほら、トリックオアトリート」 にこっと笑いながら手を差し出してくる南は、きっと確信犯。 「あー……ごめん、今はない」 俺は参りましたとアピールするように両手を上げると、南は満足げに顔を綻ばせた。 「じゃあ、いたずらですね」 「お手柔らかに」 「八雲さんは絶対動いたらダメですよ。あと、目は瞑っててください」 「南が可愛いことをしなければ」 「絶対ダメ」 上目遣いに睨まれながら念を押されたけど、それがもうすでに可愛い。 今すぐキスとそれ以上のことをしたい欲を抑えて、目を閉じて南にいたずらされるのを待つことにする。 何をされるんだろうと考えるだけですごく楽しい。 修学旅行前夜のような、興奮して眠れない感じ。 南が近づいてくる音と気配。 どんな顔をしてるんだろうってついつい考えてしまう。 目を開けたくなるから、その考えは無理やり捨てて。 「ん……」 ふにゃ、と唇に柔らかいものが当たって、キスをしてきたのだとわかった。 唇をくっつけては離れ、くっつけては離れてを繰り返す、すごくもどかしいキス。 そんなんじゃなくて、もっと、貪りたい。 湧いてくるのはこんな邪(よこしま)な考えばっかり。 でも、そう思ってしまうんだから仕方ない。 男なら誰でもそう思うはず。 「む……ん……」 今度は下唇を不器用ながらも食み始めた。 僅かに漏れる南の声に、節操がないと思いつつもつい反応してしまう。 ちゅ、ちゅ、としばらくやってたけど、堪能したのか南の気配が一旦遠のく。 「もう終わり?今のじゃ全然足りないけど」 「ま、まだ!ダメですよ」 「そう?」 「でも、もう終わります」 もう?残念。 って言おうとして口を開いた瞬間。 「いっ…!」 首元に刺さる鈍い痛み。 脳裏に広がる、あの光景。 同じだ――。 びっくりして思わず目を開けると、怪しげに笑う南がいた。 けっこう強く噛まれようで、南の口元には少しだけ俺の血が付いていて。 「血……」 官能的に呟いて、ぺろりと舐めとる。 「南、」 確かめるように南の名前を呼ぶ。 情けないけど、その声は少しだけ震えていた。 それを悟られないように全身に力を入れて、しっかりと南を見据える。 するとさっきまでの南が消えて、いつもの明るくて人懐こい表情に戻った。 「ごめんなさい……驚かせようと思ったら、噛んじゃってました……」 血を見て南が狼狽え始める。 俺は安心させるように優しく抱きしめた。 「大丈夫、これぐらいすぐ治るし……南がよがって俺の背中に爪痕残した時のほうが、痛いかな」 「あっ、れは…!その、えっと……」 「可愛い」 南の言葉を吸い取るようにキスをすれば、あっという間にとろんと蕩けた顔になって。 さっきまで吸血鬼がどうとか考えてたのが馬鹿らしくなってきた。 そんなの関係なく、俺は南が好き。 この想いだけで十分。 「南のいたずらは終わり?」 恥ずかしさと罪悪感からか、顔を逸らしてこくんと頷く。 こんなちょっとした仕草だけで、俺の心臓はきゅんと跳ねる。 「そっか、じゃあ俺の番だね」 「え……」 「南、トリックオアトリート」 この後、南からされたいたずらの何十倍ものいたずらを仕返した。

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