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希う 4
水族館内を一通り回ったけど、唇の傷が気になって気になって、正直それどころじゃなかった。
人の多く集まってたラッコとかペンギンあたりなんかは気が気じゃなくて、あんまり記憶にない。
せっかく八雲さんの初水族館を一緒に行けてるのに、なんてもったいない時間を過ごしたんだと猛省中。
オレは頬を叩いて、水族館を全力で楽しもうと意気込んだ。
この水族館にはレストランがいくつかあるんだけど、どうやら八雲さんは行きたいところがあるらしい。
「おいで南」
って言いながらナチュラルに手を繋いでくれる。
オレだけ恥ずかしがってるのもなんか八雲さんに失礼だし…ていうか、人目を気にせずこういうことしてくれるのが嬉しくて、オレはそっと手を握り返した。
八雲さんに連れてこられたレストランは、中央に天井まで突き抜ける大きな水槽があるお店だった。
店内は薄暗くて、その水槽の中には南国にいるような色とりどりの魚が泳いでいた。
「八雲です」
「八雲様、お待ちいたしておりました」
お店に入るなり八雲さんは前だけ伝えると、店員さんは深々とお辞儀をした。
その流れがあまりにも自然だったから、びっくりを通り越して放心状態。
しかもここのレストランってあれだよね、けっこういい値段するはずなんだけど…。
訳がわからないまま店員さんに案内された席に座れば、すぐ隣は水槽。
そしてテーブルの上には「RESERVED」の札。
さすがにオレでもわかる。これって予約席じゃん。
店員さんがイスの後ろに回って、座りやすいようにイスを引いてくれる。
オレはどぎまぎしながら小さく会釈してイスに座らせてもらう。
八雲さんはなんてことない(実際なんてことないんだろうけど)顔で座るから、ますます不明。
いやそもそもここの席って数か月先まで予約が埋まってるってネットに書いてあった。
水族館に来ようって決まったのが先週だから、ここの席の予約なんかとれるはずが、ない。
「八雲さんってスーパーマンなの?」
「さすがにそれは初めて言われたかな」
「でも、だって」
「たまたまキャンセルが出て予約がとれただけだから。南のことになると強運になるみたい」
「いや…スーパーマンじゃないですか…」
さすが八雲さん、イケメンで紳士なだけじゃなく運まで見方につけちゃうんだ…。
「恐れ入りました」
「それほどでも」
くそう、やっぱりこういうときでも余裕な笑顔は崩さないんだ。
もう最高にかっこいい。好き。
運ばれてくる料理はどれも美味しいし、水槽を泳ぐ魚はキレイだし、目の前の八雲さんはかっこいいし、まるで自分が恋愛ドラマの主人公になった気分。
世界中の幸せをオレが貰っちゃってるんじゃないか不安になるぐらいの幸福感。
「オレ、今すごく幸せです」
「今だけ?」
思ったことを口に出したら、意地悪な返しをしてくる。
にやっと笑う確信犯は、オレの次の言葉を今か今かと待っていて。
「……ずっと、永遠に」
どうしよう、恥ずかしい。
こういうキザっぽいことを言うのに全然慣れてないし、しかも雰囲気のいいレストランでだし、いっそ爆発してしまいたい。
「俺も――」
そう言いかけた八雲さんはちょいちょいと手招いて、小声で話すのかなと思ったから少し前のめりになる。
八雲さんも少し前のめりになって、そのまま流れるようにメニューを持ってさりげなく動かし、ちゅっとキスを落とす。
唇はすぐに離れたけど顔は相変わらず近くて、触れるんじゃないかっていうぐらいの至近距離で。
「ずっと幸せ。ありがとう」
オレが気がついたときにはもう普通の八雲さんに戻ってた。
人ってキャパを超えたら無になれるんだなってぼーっと八雲さんを見てたら、クスクス笑って、
「そんなに見てたらウインクしちゃうよ」
という言葉で一気に現実に引き戻され、頭から蒸気を出しながら最大限の「バカ……」を言うのがやっとだった。
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