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ふと、市村を見れば、遠く夜景を見ながら、もぐもぐと美味しそうに、ホットサンドにぱくついている。
その頬に、溶けたチーズが僅かに付いていたので、土方は親指の腹で拭ってやった。市村が土方に振り返ると、土方は拭った親指を舐めた。
「美味いか?」
「…はい」
「良かった。あったかい飲み物も買ってくりゃ良かったな」
土方はそう言って、自分が巻いていたマフラーをするすると解くと、市村の首にかけてやった。
「寒くないか?良かったら使ってくれ。オレの香水臭ぇかもしれないけど」
「…」
確かにふわりと、土方が普段から愛用している香水の香りがする。
甘くも、少しスパイシーにも感じられるオリエンタルな雰囲気を醸す香りは、市村にとって嗅ぎなれた、心安らげる匂いだ。
項に触れているマフラーの、カシミヤの肌触りには、土方の体温も添えられているような気がした。いつも傍に居てくれる土方の優しさに、今日もまたこうしてじんわりと包まれている。
市村は急に切なくなって、口を噤んだ。胸の奥の柔らかい部分が、ぎゅっと不意に締め付けられた感じがする。
「あの…、先生はいつも優しいから」
「うん?」
「か、勘違いしちゃいそうで、僕」
市村が少し声音を震わせてそう言ったあとで、どこか泣きそうな面持ちで笑顔になったから、土方は刹那、ぐ、と胸が詰まりそうになった。
切り出すには、今しかない。
「…テツ、オレが今から言うことが、お前にとって迷惑だったら、ちゃんと、無理って言ってくれ」
「え…?」
市村が、不安そうな顔色を浮かべて戸惑う。揺れる双眸がこちらを見ている。無理もない。彼には、土方が今まで思案してきたことの一片たりとも、知る由がないのだから。
結果がどうなろうと、言うと決めた。
それに、拒絶されたならされたで、今ならまだ、ただの思い込みだった、で、無理やり溜飲を下げることもできるはずだ。
子どもじゃあるまいし、どう転んだとて自分の気持ちには自分でケリを付けられる。
「テツ、」
土方は市村に向き合って、彼の小さな肩に手を添えると、傍にある街灯の柔らかい明かりを照り返して瞬く、綺麗な菫色の眸を見つめたまま言った。
「……オレさ…ずっと前からお前のこと好きだったんだ」
土方の言葉に市村は、こぼれんばかりに目を見開いた。
沈黙が訪れる。遠く、クリスマスソングが聞こえた。
市村は、自分をじっと真剣に見つめてくる土方の迷いない眸を見て、困ったように顔を歪めた。
それは、土方が今までに見たことがない顔だった。
ズキ、と胸が痛む。だが、もう後には引けない。
「お前の受験勉強を手伝ってる時からずっとだ。騙し騙しやってきたが、ちゃんと言わずにはいられなくなった」
「先生…」
市村は、ぽつりと呟くように言って俯いた。
アシンメトリーの黒髪の前髪がさらりと落ちて目にかかり、その表情が分からなくなる。
浮かれていた数時間前の自分とまるで別人であるかのように、土方から急激に自信が失われていく。
終わったな、と思った。
残りのホットサンドを一口に食べきると、土方は立ち上がろうとした。
「…悪かった、変なこと言って。返事はいいから、忘れてくれ」
「ま、待ってください。僕はまだ何も言ってません」
市村は、土方のコートを縋るように握って、どこか辛そうに渋い顔をしている土方を見上げた。
「…」
土方は無言で、またベンチに腰を落ち着けた。
今度はこちらが、まともに市村の顔を見れない。
情けない。
勘違いだと言って、終わらせる覚悟ですらいたのにだ。
今までに感じたことのない気持ちに圧しつぶされそうになって、黙りこくっている土方に、市村が切り出した。
「…僕、先生に勉強を手伝ってもらっている時から、先生に対する名前の分からない感情に悩んで、苦しんでました。でも、今また、先生から答えを教えてもらった気がします」
「…」
「あの時から、ずっと感じてる気持ちの名前は、恋心なんだって」
「テツ…」
市村がそう言って、今にも泣き出しそうに微笑みかけてくるから、その瞬間、全てが符合して、急激に愛しさが込み上げてくる。
土方はそのまま、彼の冷えた手を握って引き寄せ、衝動のままにその体を抱きしめたくなった。しかし、隣のベンチにカップルが座ったため、その衝動を乗せたままの手を、静かに密やかに引っ込めた。
「話したいことが沢山ある…。お前の今夜の時間、オレにくれ」
「…はい」
そのまま二人でベンチを離れると、無言のままで停めてある車へと向かう。
来た時より確実に増えた人の群れの中、時折、反対方向へ向かう人の流れに押されて逸れそうになる市村の手を、今度こそ土方は握った。
急に強く握られて、市村は、弾かれたように土方を見た。前を見据える、精悍な横顔に釘付けになりそうだ。
…何故か既視感が過る。
前にもこんなことがあったような。
先生とは、もうずっと前から出逢っていた気さえする。
悲しいくらいに前だけを向いて進み続ける姿が、朧気だけれど頭に焼き付いている。
奇妙なデジャヴを感じながら、少し遠慮がちに、つないだ手に力を籠めて返せば、また強い力でしっかり握り返してくれる。
市村は、胸に込み上げてくる言葉にならない愛しい想いに、俯いて口を噤んだ。
「夕飯はどっかで食ってこう。そのあとは…まあ、オレの家で良ければ」
恋人同士になったのだから、夜に食事のあとでわざわざ家に呼ぶことの意味を覚られても構わないのだが、下心が勝っているだけのようには思われたくない。あらゆる欲望を前にしても、市村だけには誠実な大人でありたい。
…しかしそうは言っても、ならまだ清いままでいいのかと言われれば、それは嘘だ。そこまでは大人しくしていられない性だった。
「先生の家にお邪魔していいんですか?」
市村の表情が、ぱっと明るくなった。
ゆるく優しいカーブを描く、綺麗な二重の丸い目が、光をたたえて見上げてくる。
…やばい。
この眼差しは、純粋な期待と喜びだ。それ以外の何物でもない。穢れの無い純粋無垢とはなんたるかを、土方は今、目の当たりにしている。
〝その先〟、なんてまるで考えていない、というか、考えもつかないのだろう。
薄汚い大人の煩悩が、この清浄な輝きを前にして情けなく思える。
しかし、想いの通じ合った愛しい人と繋がりたいと思うのは本能だ。オレはおかしくないし、間違ってもない。
「…先生?」
運転席に座ってシートベルトを締めたあと、急に黙りこくってしまった土方を、心配そうに市村が窺う。
「行こう」
土方はハンドルを握ると、車を発進させた。
「わ…降ってきましたね」
夜を切り裂く、ハイビームのヘッドライトに照らされて、暗闇の中ちらちらと、粉雪が舞っている。
明日の朝にはヴェールのように薄く雪化粧した景色が、マンションの窓から見えるかもしれない。
…その景色を二人で見られたら。
まだ少し先の未来を空想した土方は、助手席に手を伸ばし、膝上に行儀よく置かれている市村の手に自分の手を重ねた。
「…緊張するか?」
「え?」
「ん?…なんでもねえよ」
微かに含ませた疚しい意味など、感じ取れるはずもないか、と土方は思って、再び前を見た。
市村も、車窓の外を見やりながら言った。
「…雪、積もるかなあ」
その耳は、僅かに赤らんでいた。
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