通りから見える商業用ビルの自動扉を開け入ると、数坪の風除室にまず足を踏み入れる。 　次にダークブラウンの木目調で縁取られ、中が見えないよう配慮したグラデーション仕様の磨りガラスが、二枚目のドアとして現れる。そのドアを開けると、花のモチーフが付いた真鍮(しんちゅう)のドアベルが軽やかな音が客を迎えてくれる。 　癒しを求める人を繊細な配慮で招き、日常を忘れてもらう。 　ここは、癒しのサロン、縷紅草。 　少し違った自分を演じる人のために、今夜も看板が導(しるべ)のようにオレンジの光を放っていた。 　受付にいた千乃は予約ファイルを手にしながら、ふとその手を止めて店の中を見渡した。 　カレンダーを見て、ここで働き出してから三年が経とうとしているのを思い出した。 　一日も早く仁杉の家を出たかった千乃は、大学入学を機にバイトを始めた。 　体も心も成長した千乃に義母からの虐待もなくなり、反対に早く出て行けと言わんばかりの態度を向けられていた。 　僅かばかりの貯金を頼りに、今のアパートに住み始めた。 　八束と偶然出会ったのは、小さな城を手に入れたころだった。 　縷紅草でバイトしないかと言われたときは、本当に嬉しかった。 　八束は千乃を陽の当たる場所へと導いてくれた、唯一の味方の大人だった。 「千乃、もう来てたのか。今日は早いな」 「あ、お疲れさまです、八束さん」 　施術室を掃除していたのか、八束が廊下の奥から姿を現し、千乃から視線を壁掛け時計へと移して言う。 「どうかしたんですか、八束さん。何か気になることでも？」 　普段はあまり見ない、ソワソワする八束に引っかかりを覚える。 「いや、來田君がまだ出勤してなくてさ」と、心配げな顔をしていた。 「えっ、それは珍しいですね。てっきりもう出勤してて、奥で掃除しているのかと思ってました」 「來田君がここで働き出してから五年くらい経つけど、今まで遅刻、しかも連絡もないままなんてなかったからなあ」 「……何かあったんでしょうか」 　顎に手を当て考え込む八束と同じように、千乃も眉間にシワを刻んで考え込んだ。 　來田の勤務体制は、火曜と木曜日は横浜駅の店に出勤し、休み以外の日は縷紅草で働くのがスタンスだ。 　だが今日は金曜日。無遅刻無欠席の姿が見えないことに違和感を感じ、秒針の音が異様に大きく耳を支配してくる。 「いつも先に来て準備してる真面目な奴が、遅れるって。しかも連絡がないのは心配だな。何かあったんじゃ……」 「……ですね。俺、電話してみましょうか」 　言いながら千乃は尻のポケットに手を伸ばし、スマホを取り出そうとした。そのとき、店の電話が鳴り響いて、心臓をドキリと跳ねさせた。 「來田君かもしれない、ちょっとかけるのストップな」 　八束に制止を促され、千乃はスマホをポケットへ戻した。 　電話に耳をそばだてながら、予約ファイルに目を通していた。 「はい、嶺澤は私ですが──えっ！　警察？」 　八束の発した言葉にビクッとなる。 　思わずファイルを落としそうになると同時に、最近同じようなシチュエーションを味わったことを思い出す。 　幡仲を尋ねてきた警察。 　しかもその刑事が、忘れようとしても忘れられない人だったと言うことも。 　瞠目したまま会話をする八束を見ていると、普段から泰然自若(たいぜんじじゃく)な八束の表情が狼狽えていることに、不穏が孕んでくる。 「──はい、わかりました。これからすぐに伺います」 　静かに受話器を置いた八束の顔を覗き込んだ千乃は、何かよくない内容だったことを、彼の憂いた瞳で想像できてしまった。 「八束さん、今の電話って……」 「ああ、警察からだった……。來田君が任意同行で警察署にいるそうだ。さ、殺人の……容疑で」 「えっ！」 　躊躇いながら口にした八束の言葉に、千乃は手にしていたファイルを落下させた。 　ファイルを拾うこともせず、冷たくなっていく指先の震えを感じていた。 「全く意味が分からない。來田君が……あり得ないよ」 　冷静な八束が動揺を見せている。 　こんな風に狼狽える八束を見たのはこれで二度目だった。 　初めて見たときも、今と同じように不安げな色を浮かべていた。 　その光景は幼かった千乃でさえ、尋常じゃないことが起こっているとわかった。 「な、何かの間違いですよきっと！　來田さんがそんなことするはずありませんから！」 「ああ。そうだ、こんなの間違いだ。俺は今から警察へ行って話を聞いてくる。任意なんだ、本人が帰りたいって言えば帰らせて貰えるはずだからな」 「お、俺も行きますっ！」 「いや、千乃は店に残って──」 「行きます！　俺も、來田さんが心配で、一人で店にいても嫌なことばかり考えてしまいます。だから連れて行ってください」 　眉根を寄せる八束に必死で食い下がると、根負けしたのか、 「そうだな……。どのみち施術はできないし。わかった、一緒に行こう。車を取ってくる。千乃は警察署に着く間、客にキャンセルの連絡を入れてくれないか。インフルエンザになったとでも言って謝罪してくれ」 「……わかりました」 　こくりと深く頷くと、床に放置したままのファイルを拾い、エプロンを脱いでコートとリュックを手にした。 「心配するな、來田君は絶対に連れて帰る。あいつは何もやってない」 　力強く聞こえる言葉は、八束自身が自分に言い聞かせているように聞こえた。 　來田の身に何が起こっているのか分からないけれど、今は自分がすべきことをして彼の無事を祈るだけだ。