49 / 57
救出
寒い……な。
水を持ってきたあと、再び現れた柊から手渡されたのは薄っぺらい毛布一枚だった。
真冬で、床はコンクリート。しかも天井が異様に高く広い空間の中では身を縮めて毛布に包 まっていても、体温は奪われていく一方だった。
毛布の中で拘束された両手に息を吹きかけては擦り合わせ、千乃はどうにか血の巡りをよくしようとしていた。
今日が何日なのかも不確かで、時間すら知る手立てもない。
ただ、天井から差し込む月明かりが、夜になったことを知らせてくれた。
一度目に柊が顔を見せたときは、朝日のような日差しを感じられた。しかしその日差しは次第に翳ってしまい、外気は冷たさを増していた。曇ってきたのか、時間が経って日が翳ったからかはわからない。
意識を取り戻したてのときは感覚だけで、おおよその時間の経過は掴めたけれど、寒さで弱ってきた今となっては思考が鈍っているせいか自分の勘も怪しい。
「柊さんと一緒に食事したのって昨日だったのか、それとももっと時間経ってるのかな。わからない、でも何でこんなことに……」
スペイン料理を一緒に食べたときの柊を思い浮かべると、千乃は仁杉の名前を口にした柊の反応が気になっていた。
眞秀と行った美術館で彼と出会 したとき、千乃の父親が仁杉だと知られた。でもそれは柊には全く関係のない話だ。
それなのになぜ仇でも見るような目であんなことを言ったのか。いくら考えても千乃に心当たりはなかった。
何度か拘束を解こうとあがいても、手足は自由にならず、諦めた千乃は体力を温存することを決めると、とにかく凍えないように動ける範囲で手足を擦り合わせて暖を取ろうとしていた。
微かに聞こえる外の気配が恐怖を更に植え付け、闇と静寂 が部屋の隅から千乃の正常な心を呑み込もうとジワジワと影を伸ばしてくる。
まるで生き物のように、千乃を虎視眈々と狙っているように感じた。
「ここは仁杉の離れと少し似てるな。カビ臭さくて、薄暗い。夏はきっと同じようにここも暑いんだろうな……」
こんな時に限って、思い出したくないことが蘇ってしまう。
離れでひとり暮らすようになってから、父と義理の母と食卓を囲んだのは、後にも先にも一度っきりだった。
何かの取材で家族写真が必要だと仁杉の父は言い、用意された堅苦しい服を着せられた。豪華な食事も少し手をつけただけで、取材が終わると取り上げられ、また離れへと戻ったとき、お腹が鳴ったのは今でも覚えている。
ひとりだけの食事も、眠る時も、どれだけ寂しくても、辛い目にあっても涙は流さない。泣くのは母と葉月を思う時だけ。それだけを貫き生きてきた。
吐く息で熱を生み出すことを繰り返していると、人の気配と土を踏む音が外から聞こえてきた。音は徐々に近づき、施錠を外す気配に再び体が震えた。
重い欅の扉がゆっくりと開き、パーカーを頭に被った柊が姿を現す。
今度こそ殺されるのだと思った。
「やあ、ユキちゃん。眠れた──って、眠れないか。寒いのも相変わらずだもんな、ここは」
飄々とした顔で千乃を見下ろす冷めた眼光を見上げると、柊が見慣れたものを手にしているのに気付いた。
「あ、気付いた? ユキちゃん達の商売道具だよね」
手にしていた麻縄を弛ませては力強く左右に引っ張り、獲物に畏怖を植え付ける動作を繰り返してくる。
「……それ、どうするんですか」
「これ? これはもちろん、君の首を絞めるんだよ。そこの埃だらけの縄でやってもよかったんだけど、古いから絞めてる途中で切れちゃったら萎えるでしょ。だから新品を用意したんだよ」
躊躇なく殺害を予告する柊に背筋が凍り、千乃は濡れた羽を震わす鳥のように身を縮こませた。
「震えてるね。人って死を前にするとこんなに震えるんだ。今までの子はみんなヤってる最中に首を絞めたから、ユキちゃんみたいに、あんまり怯えなかったんだよな。だから今回はとても新鮮だ」
つらつらと語る柊の言葉に感情の欠片もない。あるのはただ一つ、千乃へ死の恐怖を与えようと嬉々している冷めた笑いだけだ。
ふと、イヴの笑顔が脳裏に浮かんだ。
イヴの人生を奪ったのは紛れもなく、自分の目の前で冷嘲する男だ。それがわかると、千乃は精一杯の反撃を虹彩に宿らせて柊を睨みつけた。
「へえ、そんな顔もできるんだ。かわいいばっかじゃないんだね」
柊の顔が一瞬で無表情と化し、一歩一歩近付きながら尻ポケットへ手を忍ばせている。そこから取り出された鋭利な光でヒヤリとした感触を頬にあてがわれた千乃は、冷たさ以上に柊の目の冷ややかさに背中が粟だった。
「俺、ユキちゃんといるの楽しかったんだよね。本当にマキちゃんから奪おうと思ってたんだ」
ナイフの先端が白い肌の上に赤い線を生み出し、柊がギラつく刃先に鮮血を啜らせている。
「痛い? でも、よく言うじゃん。可愛さ余って憎さ百倍って。あれなんだよね、俺にとってユキちゃんは。俺が苦しんできた時、君はぬくぬくと幸せに暮らしてたんだろ? そう思うと俺はユキちゃんが憎くって憎くってさー」
「幸せ……? 言ってる意味がわからな……う、ううっ、くる……し」
言いかけた言葉を遮るよう、柊の両手は細い首に絡まり、千乃は遮断されようとする気道にもがいて身を捩らせた。
「君は仁杉家の跡取りなんだろ? 大地主でなんだっけ、投資家? 何でもいいや。とにかく大金持ちのさ。高級そうな服着て、お前は仁杉と母親と三人で週刊誌に載ってたろ。そんなお前をずっと俺は憎んでいた。本当だったら俺の物だったかもしれないモン、全部お前は手にしてたんだからさ。でも君は後取りにはなれない、だってユキちゃんは今ここで死ぬんだから」
「ううっう……。や……め」
必死で柊の手から逃れようとしても、負の感情が込められた力は微動だにせず、千乃の意識は次第に遠のいていこうとする。徐々に抵抗する力は失なわれ、体はもがくことを諦めようとしていた。
「そうそう、そうやって大人しくしててよ。今から天国を見せたげるからさ。みんな気持ちよさそうだったから腕は信用して。それに蔵 は、この行為をするのに相応しい場所なんだよ」
薄れる意識の中、聞こえて来る狡猾な声。 柊の放つ言葉の意味を考えることもできない。視界に見えるのも、異形な目で舌舐めずりする姿だけだった。
「もっと早くこうしたかったけど、ウザい刑事やマキちゃんがアトリエに来ちゃうんだもん。時間を置いてたらこんなに外が暗くなっちゃって、君の悶え苦しむ顔が見にくいよ」
首に纏わりつく力を弛ませ、柊が手にしていた蝋燭に火を灯した。
チリチリと焔が紅く色づき、丸く膨れ上がると欅の隙間から侵入した風で輪郭が儚く崩れる。
芯の部分が温まると、中心部から蝋がじわりと溶け出して溢れる。
蝋燭を持つ手が傾くと、出来上がったばかりの蝋が千乃の手に落下した。
「熱っ!」
熱された蝋で刺激され、小さな悲鳴をあげると、それが柊を興奮させたのか、落ちては固まる雫を柔肌に次々と垂らされていった。
その度に、千乃は叫びそうな声を殺し、唇を噛んで我慢した。
「熱い? でも店では使い慣れてるでしょ。さあ、ユキちゃんさっきの続きしようか。あの性同一性障害の子も最後は気持ちよさそうだったよ。それを君にも味わってもらうよ」
「や、やっぱり、イ、イヴさんをっ! 柊さん、あなたはっ」
ふざけた言葉と共に嗤いを浮かべる柊が、手懐けたペットのように麻縄を千乃の首に巻き付けていく。白く細い首にとぐろのように這わせると、下半身を興奮させながは舌舐めずりをしていた。
「きっと気にいるよ、ゆき……」
甘く囁くような声で名前を囁かれたかと思うと、柊のこぶしに青筋が浮き上り、縄が徐々に千乃の首へと食い込んでいく。
「くっ……ううっ……かはっ……」
視界はかすみ、自由を奪われたままの身体は徐々に痺れていく。脳の中の酸素が薄くなる感覚を覚えると、歪む意識の先に大好きな母と葉月の顔が見えた。
死への恐怖を実感しながら、懐かしい笑顔に触れたくて拘束されたままの手を伸ばした。だが、それは虚しく空気を掠めただけで、懐かしい人に触れることはできない。
千乃は苦痛にもがきながらも、母の優しい手で首を絞められたことを思い出していた。
自分だけが生き残ってしまった後悔。
頭の隅で考えたのは、このまま死ねば母と葉月に会えるかもしれないと想像した喜びだった。
全身に込めていた抵抗する力を緩め、柊の手に命を委ねようとしたそのとき、扉の方から砂利の上を駆け抜ける激しい音を耳にした。
「やめろっ、由元!」
重い欅の蔵戸をこじ開ける音がし、聞き覚えのある声が近付いて来る。
「あー。いいとこだったのに、もう見つかった。マキちゃんは優秀な刑事さんだったなぁ。あー残念っ」
「千乃から手を離せ! そのナイフを捨てるんだっ」
銃口を向けられても狡猾な顔を崩さず、縄からナイフに持ち替えた柊がジリジリと後退している。
藤永に誇示 するよう、刃先を千乃の首へと押し付けながら。
「近付くとこの子を殺すよ」
「よせっ! 頼むから千乃を離し──」
藤永の声を聞き終わらないうちに、柊が焔の立ち上る蝋燭をつま先で蹴飛ばした。
火を灯したまま蝋燭は弧を描き、部屋の隅にある段ボールに到達すると、あっという間に火柱が立ち上っていく。
燃え盛る景色の中で千乃は首に巻きつけられた麻縄を思いっきり吊り上げられ、再び気道が塞がれ息苦しくなる。
業火のような炎が陽炎となって揺らめき、向こう側で心配げに見ている藤永が見えた。
まき……とさん、来てくれ……た。もう……それだけで、いい……。
「マキちゃん、銃下ろしてよ。じゃないとユキちゃんの首、これで掻っ切るよ」
柊の恫喝も、藤永が千乃を呼ぶ声も薄っすらとしか聞こえない。
力を緩めることのない柊に体を引きずられたままで、炎はどんどん大きくなって囲まれていく。苦しくて、熱い。
「よせ! もうこれ以上罪を犯すな!」
「その銃捨ててよ。まずそっからだよ」
頬を傷つけられても抵抗できず、痛みすら感じなくなった千乃は、自分の体を締め上げている柊の顔を見上げた。
ギリリと歯を食いしばり、銃を地面に置く藤永を愉快そうに見つめている。その顔には焔の影が映り、火の精を想像させる妖艶な姿だな、と恐怖の中で思ってしまった。
「いいね、素直だよマキちゃん。さあ、今度は入口を開けて貰おうか。ここは火が回って暑くなってきた。ユキちゃんと涼みに行くよ」
「この俺が、簡単にお前を行かせると思ってるのか」
欅の扉を背に、藤永が立ち塞がっている。千乃は心の中で叫んだ。
まき……とさん、逃げて。俺はもう、いい……このままで……。
藤永さえ無事ならそれでいい……と。
千乃の最後の願いは、藤永の命が助かることだけだった。
「人質って便利だよね。千乃 があるだけで刑事さんは、手を出すことが出来ないんだから」
「お前は人を殺し過ぎだ。ここを出ても捕まるのは時間の問題だ」
「えー、俺まだ殺してないよ。ほら、ユキちゃんは生きてるじゃん」
「……うっうう……」
グイッと縄を持ち上げられ、千乃は息絶えそうな細い息を細く吐いた。
「千乃! しっかりしろっ! 由元っ、お前、ふざけるなだ! これまでの絞殺遺体は、全てお前がやったもんだろっ!」
「ふーん。でも証拠は? 証拠はあるのかよ」
「そ、それはっ」
「ははっ! ないだろ。俺がやったって証拠なんてないのさっ」
勝ち誇ったセリフと共に柊が高笑いしたとき、天窓のガラスを突き破り、地面目掛けてジャケットに包まれた硬い物が勢いよく落下してきた。
その衝撃に怯んだ柊に隙が生まれると、藤永がナイフを持つ体へと飛びかかり、体当たりして柊の体を地面にねじ伏せた。
「観念しろ、由元柊。お前はもう終わりだ」
「くっそっ! 油断したわー。けど俺に余罪はない。だろ? 刑事さん」
捨て台詞のように暴言を吐く柊の体を拘束し、煤で汚れた手首に重い枷をかけた。
大人しくなった柊を、屋根から降りてきた伏見と他の刑事に託すと、藤永は急いで千乃の元へと駆け寄った。
火が燃え盛る中で横たわる千乃を抱きかかえると、藤永は火の回る隙間をすり抜けて蔵の外へと急いで飛び出した。
「……まき、とさ……ん、おれ……」
「千乃、もう大丈夫だ。よく頑張ったな」
心配する藤永をよそに、拘束から解放されても千乃の体はまだ恐怖に怯え、表情は蒼ざめたままだった。
恐怖と寒さで震えていた体を、藤永が労るようにコートでそっと包み、弱った体を抱き締めてくれた。強く、優しく。
「へ、いきで……す。あの、柊、さんは……」
「お前、あいつにどんな目に遭わされたかわかってんのか。あんな奴のことなんて心配すんな」
「で、も……」
「あいつは逮捕した。千乃はゆっくり休め」
「……は、い。あの、助けに……きてくれて……あり……」
最後まで言い終らないうちに、千乃はそのまま気を失ってしまった。
凍えそうだった体に体温が戻ってくる……。抱き締めてくれているのは、大好きな人の腕だ……。
薄れる意識の中、母と葉月の笑顔を見た気がした。
今、抱き締めてくれている腕の中が居場所なんだよ、と優しい声が聞こえた気がした。
ともだちにシェアしよう!

