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神秘

 電話が切れて数分後、インターホンが連打され、ドアを叩き壊す勢いで眞秀が外から叫んでいる。朝早くから騒いでいると、近所迷惑になる。千乃は急いでロックを外すと、思いっきり外からドアが開かれ、「千乃っ! 無事かっ」と想像もしていなかった言葉と一緒に眞秀が現れた。 「お、はよ。眞秀。ところで、無事かってどういう意味だよ」  質問する千乃を素通りすると、眞秀が部屋の中をキョロキョロ見ている。 「なあ、眞秀ってば──」 「ゆき、アニキは? あいつ、どこに隠れた」  眞秀がバタン、バタンとクローゼットやベランダを開けていると、 「お前は何を偉そうにしている。俺と千乃の問題で、お前は関係ないだろ」と、藤永がネクタイを締めながら洗面所から出てきた。  すかさず藤永の目の前まで近付く眞秀が、あるに決まってる、唾棄を撒き散らしている。 「問題ありありなんだよ。ゆきは俺の大事な親友だ。それをアニキみたいな人間に簡単にやれるわけないだろっ」 「なんだ、その言い草は。親友だろうがお前には関係ない。ったく、ひとり娘を嫁にやる父親みたいなこと言いやがる」 「アニキこそ。ゆきを幸せにする自信、あんのかよっ」 「ある、大いにある。だから部外者は黙っておけ」 「ぶ、部外者ってなんだよ。俺の方がゆきと付き合い長いんだからな」 「それがどうした。俺なんか昨夜も千乃と──」 「あー、あー、真希人さん。それ以上はぁ」  突然何を言い出すのかと、千乃が慌てて二人の間に入り、藤永の口を手で覆うと、兄弟二人が急に大笑いし出した。 「なんだ、千乃。俺は、昨夜も一緒に飯を食ったって言おうとしただけなのに。何か別のことでも想像したのか? ん?」 「ゆき、やらしいなぁ。俺もそんなこと聞き出そうとしてなかったのになぁ」 「や、やらしいって、何だよ二人して。もう、いいっ」  ニヤニヤしてこちらを見てくる兄弟に腹が立ち、眞秀が買ってきたクロワッサンをやけくそのように頬張った。 「怒るなよ、千乃。眞秀にはもう俺から話してあったんだ、千乃と真剣に付き合うからって」  藤永の言葉に、パンを口いっぱいに頬張ったままで凝視した。 「ゆき、よかったな。ちょっとびっくりしたけど、弟として言うよ。俺のアニキはお前を一人になんかにしない。俺より、ちょとだけお前を幸せにしてくれるから」 「ちょっとじゃない。宇宙以上だ」  なんだそれ、と呆れ顔の弟に言われ、いや、無限大か? と言い直している。  二人の温かなやり取りに腹が立っていた気持ちも薄れ、幸せすぎて涙腺が緩みそうになった。 「ほら、アニキが変なこと言うからゆきが泣きそうになってるじゃないか。ったく、先が思いやられるよ」 「なあ、お前、もう帰れば? せっかく千乃とまったり朝を過ごしてたのに。医学部は忙しいんだろ? さっさと大学行けよ」  虫でも追い払うように藤永が手を振ると、「今日は午後からだ」と、反抗的な態度を弟が向けている。 「そんなことより、ゆきを襲った犯人は兄さんが捕まえたんだよな。ゆきが拉致られたって知ったとき、気が気じゃなかったよ。アニキが助けたって聞いても、ゆきの無事な顔を見るまでは心配で仕方なかった」 「そうだな、危なかった……。本当に間に合ってよかったよ」  さっきまでの和やかな空気は一転し、真顔になった眞秀が心底安堵した表情を見せている。藤永も膝に自身の体重を預けたまま、上半身を項垂れさせていた。 「ごめん、眞秀。心配かけて……」 「ゆきが謝ることないだろ。ゆきは被害者なんだ。けどアニキ、ゆきにチラッと聞いたけど、捕まえたやつってあの連続殺人の犯人としては逮捕できないんだって? なんでなんだ?」  眞秀の言葉で藤永の表情が一気に曇る。 「……ないんだよ、決定的な証拠が。今回の由元の罪状は、千乃への監禁と殺人未遂だ。連続殺人の事件では立件できない。眞秀、俺はまだやらなければいけないことがある。だから、千乃のそばになるべくいてやってけれ。頼むな」 「何、その言い方。まるでゆきが兄さんのモンみたいじゃん」 「みたい、じゃなくて、千乃は俺のもんだ」  あまりにもキッパリと藤永が言うから、千乃も眞秀も目を丸くした。 「我が兄をこれほどベタ惚れにするとは、さすがはゆき、俺の親友だな。早起きしてパン屋に行った甲斐がある」  直球の感想は聞いてて恥ずかしい。  千乃は眞秀の分の珈琲を淹れら理由にして、台所へと逃げ込んだ。 「それよりお前は大学どうなんだ。医者になれそうか?」 「失礼だな。いくら兄さんでも怒るよ、毎日頑張ってるのにさ。それに最近は遺伝学に興味あってそっちにも力入れてんだ。教授の話が面白くてさ。俺、将来はゲノムの研究したいかも」 「遺伝学?」 「そうそう。この間は生殖細胞の話を講義で聞いてさ。それって、親から子どもへと遺伝情報を伝達するための特別な細胞なんだよ」 「生殖細胞? 何だそれ。俺にはさっぱりわからん」  目を輝かせて力説する眞秀を前に、意味不明な単語が理解できず、藤永は首を傾げていた。 「生殖細胞ってのは、体内で最も利己的な細胞でね。その中でも唯一、自己複製能をもつ細胞が精子幹細胞で、個体が遺伝情報を次世代に伝達するんだ」 「わかったわかった。お前はちゃんと医学の勉強やってる。俺は安心したよ」 「もー。兄さん、もっと興味持って──あ、こんな話はどう?」 「え、まだ講義は続くのか?」  理解不能な話しに苦手意識が顔を出しかけたが、可愛い弟ほ話しを聞こうと、カップを持つ手を止めて藤永は眞秀の話に耳を傾けた。勉学に勤しむ弟の姿を久しぶりに見るのは嬉しい。 「兄さん、キメラって知ってる?」 「キメラ? それって確かギリシャ神話の怪獣かなんかの名前じゃなかったか」 「まあ、元はそこなんだけど、生物学で同一の個体の中に、異なる遺伝情報を持つ細胞が混じってることを言うんだよ」 「同じ個体の中に別の遺伝子? どう言うことだ、もっとわかりやすく言ってくれよ」 「うーん。例えば、母親のお腹の中でニ卵性双生児だったけど、一人が死産だった。それってバニシングツインって言うんだけど、子宮から消えたように見えた細胞も、実際は子宮に吸収されちゃうんだ。そして残ったもう片方の個体と混ざる。わかる?」 「子宮が子どもの残骸を吸収するのか? 女性の体って凄いな」 「だろ? 俺も初めて聞いた時びっくりしたよ。でね、面白いのはこっからで、小さな組織のまま、死んだ片方の血液型がB型だとして、成長して生まれたもう片方の子どもがA型だったとする」 「それで?」  次第に興味深い話しに発展していくことに藤永は引き込まれ、眞秀の話を前のめりになって聞いていた。 「キメラってのは、子宮内で二つの胚が融合して生じる、凄く稀な遺伝子現象なんだ。本来なら二卵性双生児として別々に生まれるのが、残った片方の子どもに、二人分の組織が体内で融合し、合併してキメラ状態のひとりの人間として誕生するんだよ」 「二人分の組織……」 「そうなんだよ。生まれてきた一人の子どもの中に、本来一緒に生まれてくるはずの、もう一人の遺伝子が備わって、そのまま成長するんだ。体の部位によっては、遺伝子が男だったり女だったりするんだよ。な、面白くないか?」 「体の部位によっては別人?」 「そう! ひとつの体に別のDNAが宿る。人間の体って不思議で神秘的だよ──って、兄さん、どうしたのボーッとしてさ」  眞秀の話で藤永の顔から好奇心の色が消え、唇に指を当てたまま、何かを導き出そうと指先が急かすように唇に触れている。 「なあ、眞秀……さっき体の部位によってDNAが変わるって言ったよな」 「あ、うん。言ったけど?」 「その部位ってのは決まってたりすんのか? 例えば頭部から採取した髪や、血液に限るとか」 「ううん、決まってないよ。普通にDNAが採取出来るとこらから調べて分かるんだ。例えば血液型を調べた結果、比率の違うA型とB型の二タイプが出たりする。他にも、血液はAだけど髪の毛からはB型が出たって言う例もあるんだ」 「AだけどB……同じ体に二つの遺伝子……」  マグカップを握り締めたまま、藤永は口腔内で同じ言葉を繰り返していた。  不思議に思った眞秀が声をかけても藤永の思い詰めた表情は、静止画のように止まったままだった。 「──キ、アニキってば。一体どうしたんだよ、さっきから黙りこくってさ。俺の話ってそんなに考えさせた?」  眞秀に腕を揺さぶられた途端、藤永はある一つの仮説にたどり着き、見開いた眼光に一閃(いっせん)が差し込んだ。 「眞秀! ありがとう!」  藤永はソファから勢いよく立ち上がり、ジャケットを羽織った。 「ま、真希人さん、もう行くんですか?」  珈琲を手にした千乃が不安げな顔で、藤永を見つめている。 「千乃、メシありがとうな。美味かった。事件が解決したら、また作ってくれるか」  コートを羽織りながら千乃を見つめると、満面の笑顔で大きく頷いてくれた。  最高の原動力をもらい、「行ってくる」と告げて藤永は部屋を後にした。

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