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一時間後。出勤して店で品出しをする俺の元にナイムさんがやってきた。
彼はファイルのようなものを持ち、いつも以上にニコニコと笑っている。
「ユーグくん。実は、新しいお得意さまが出来そうなんだ」
ナイムさんは嬉しそうに言う。彼の声には強い喜びの感情が宿っていて、俺は「よかったですね」と言葉を返した。
この『ポエミ』ははっきりと言って、そこまで繁盛していない。近隣にはほかにも花屋があるし、雰囲気的にもがつがつと商売をしようという気が感じられない。
だから、お得意さまも古くからの人ばかり。新しいお得意さまなんて滅多なことでは現れない。
「あぁ、そうなんだよ。それで、実は折り入って頼みがあって」
しかし、嬉しそうな表情から一転、ナイムさんは申し訳なさそうにする。
別にこき使ってくれてもいいのに。
「内容によりますが、構いませんよ」
出来る限り柔和に見える笑みを浮かべ、ナイムさんの言葉にうなずく。
内容によるとは言っているけど、本当のところは引き受ける覚悟は出来ていた。
色仕掛けで仕事を取ってきてとか、そういうことじゃなかったら、だけど――。
(ナイムさんはそんなことを言わないだろうし)
ナイムさんの目を見つめていると、彼は手に持ったファイルを差し出してきた。受け取って、中を開く。
入っているのは地図のようだ。あと、適当な資料。
言葉を待つようにナイムさんを見つめると、彼は困ったような表情を浮かべていた。
「そのお得意さま候補のことなんだけど、定期的に花を仕入れたいらしいんだ」
「はぁ」
「それにあたって、値段の交渉とかをする必要があるんだけど……」
「けど?」
「ほら、僕ももう年だしね。足腰も悪いから、正直あんまり歩きたくないんだ」
つまり、俺に値段交渉をしてこいということだろう。理解した。
「意味は理解しました。でも、俺に交渉役が務まるとは……」
俺は自分に交渉役が務まるとは思えなかった。口が上手いわけでもないし、愛想がいいわけでもない。いたって普通の男だ。
そんな俺に交渉役が務まるわけがない。
「いや、いいんだ。僕はユーグくんに任せたいと思っているから」
ナイムさんの表情を見ると、彼が本気で言っていることがわかる。ファイルをぎゅっと抱きしめる。
「僕は妻を亡くして店を続ける気力を失っていた。そんなときに、キミが来てくれたんだ」
懐かしむような声。黙ってナイムさんの言葉の続きを待っていると、彼は笑う。
「キミは真面目に働いてくれた。そんなキミに、僕は元気をもらっていた」
そんなことを、言われても。
「当然のことじゃないですか」
お金をもらっている以上、それ相応の働きはしなきゃならない。それに、俺にはもう家族なんていない。
独りぼっちなのだ。だから、誰にも頼ることが出来なくて、ナイムさんに見捨てられるわけにはいかなかった。
「この世にはそういう考えを持っていない人だっているんだ。だから、ユーグくんは立派だ」
彼の言葉に感極まってしまった。兄さんはよく俺を褒めてくれた。
抱きしめて「大丈夫だ」と言ってくれて……。
「僕にも葛藤があるよ。けど、やっぱり一人で生きていくためには交渉術はあるに越したことはない。幸いにも今回の依頼者は騎士の人だ。無茶ぶりはしないだろう」
俺はナイムさんのやろうとしていることを理解した。
ナイムさんは俺のことを少しでも立派にしようとしてくれている。生きる術を教えようとしてくれている。
「どうだい? やってみないかい?」
問いかけに答えは決まっていた。ナイムさんの目を見て、俺は口を開く。
「ぜひ、やらせてください」
了承を示す言葉。でも、俺はこの後この選択をひどく後悔することになる。
それがわかるのは、もう少し先――。
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