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その言葉に無意識のうちに身体が震えた。
長年で植えついた恐怖心はそう簡単には消えてくれないらしい。
恐る恐る顔を上げる。記憶よりも年を重ねた兄――とも呼びたくない人。彼は年を重ねてもなお、美しかった。
なのにその口元は不釣り合いなほどににんまりと弧を描いている。まるで弱者をいたぶる悪人のようだ。
(いや、それは間違いじゃないんだ)
この人は正真正銘の悪人だから。
再認識して、俺は視線を下げた。俺の長兄――ソラル・ルキエは俺に視線を合わせるかのようにしゃがみこむ。そのまま俺の顔を覗き込んできた。わなわなと震えた俺の唇。必死に動かして言葉にする。
「……なんの、よう、だよ」
今にも消え入りそうな声だった。
虚勢を張ることさえできなかった。だって、俺の中にはこの男に対する恐怖心が根付いている。
簡単には消えないトラウマだ。
「いや、別に。用なんてないよ」
絶対に嘘だ。
だって、この人が用もなく俺のことを訪ねるなんて考えられない。
この態度からするに、わざわざ俺がここで働いていることも調べたのだろうし。
「ただ、お前が今どうしているかって、気になったんだよ」
立ち上がって俺を露骨に見下ろす長兄。その目は明らかに俺のことを見下していた。
けど、今の俺は。この男よりはマシな生活をしているはずだ。そう思うことで恐怖心をねじ伏せた。
「この間偶然お前が街を歩いているのを見てさ。ちょっと気になったから、調べただけ」
「……暇なのか?」
「まぁな。それにしても、お前も生意気な口を利くようになったもんだな」
意地悪く笑った長兄が憎たらしい。でも、それを口に出すことはできなかった。心臓がどくどくと嫌な音を鳴らして、反抗心を削っていくかのようだ。
「今、なにしてるんだ?」
話を逸らそうと必死に頭を動かして言葉を紡いだ。未だに起き上がることが出来ない俺。長兄はそんな俺の肩に脚を置いた。
「別に。適当な女の家にいてやってる」
「……養ってもらってるの間違いだろ」
この人はプライドが高いから。働くなんてことできない。つまり、女に養ってもらっているということだ。
「別に。あいつは俺がいてくれたらそれでいいって言ってるから」
「ふぅん」
素っ気なく言葉を返すと、長兄が俺の肩を蹴った。痛みに顔をしかめる。
通行人たちが何事かとこちらを見てひそひそと話しをしている。騒ぎに気が付いたのか、店の奥から「ユーグくん!」と俺のことを呼ぶ声が聞こえた。ナイムさんだ。
「ユーグくん!」
「……あんた、店主?」
長兄の視線が俺からナイムさんに移動する。
視線の先に気が付いて、俺は慌てて立ち上がった。
「あの人は関係ない。……俺に、話があるんだろ」
長兄の顔に自身の顔をぐっと近づけて、問いかけた。長兄は笑っていた。
「あぁ、そうだよ。場所を移動するぞ。ここじゃあなんだからな」
「……どういうことだよ」
どうして、長兄は場所を移動しようなんて言うのか。
眉間にしわを寄せていると、その唇が俺の耳元に近づいた。
「――聞かれて困るのが、お前だからだよ」
声はねっとりとしていて、背筋にぞわりとしたものが走った。……聞かれて困るのは、俺。
心当たりはある。――ルーのことだ。
(確かにルーのことだったら、ここじゃマズイ)
もしもルーと俺の関係が公になってしまったら……。俺はルーに迷惑をかけてしまう。
それだけはなんとしてでも避けたい。
「わかった。あと少しで休憩時間だから、そこまで待ってて」
「あぁ、いいよ」
不気味なほどに素直で、嫌な予感が胸の中を駆け巡る。
「じゃあ、一時間後に迎えに来る。……俺は適当に飲んでくるからさ」
言葉を残し、長兄は立ち去った。昼間から飲むのか。なんだろうか。完全なクズ男と化しているらしい。
まぁ、元からそうだったけどさ。
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