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 長兄の背中が完全に見えなくなると、俺はようやく胸をなでおろした。  周囲の野次馬たちも興味を失ったように、足早に立ち去っていく。 「ユーグくん」  ナイムさんが俺に近づいてきた。彼は俺の肩を優しく撫でる。そこには靴跡がついていて、なんだかひどく惨めだった。 「……今の彼、ずっとお前に言っていたお兄さん?」  疑問符がついた言葉。けど、ナイムさんは確信を持っているみたいだった。  そもそも、あんなクズがそこら中に居たらたまらない。  俺は笑みを浮かべた。痛々しい笑みだったと思う。でも、弱音なんて吐きたくない。 「ナイムさん、けがはないですか?」  誤魔化すように問うと、ナイムさんが唇を噛んだのがわかった。  彼の手が俺の肩をつかむ。彼の手が震えていることに気が付いて、なんだか無性に申し訳なくなった。 「ユーグくんのほうが、心配だ」  まっすぐに俺の目を見つめるナイムさんから、俺はそっと視線を逸らした。  そんな風に純粋な心配を向けられてしまうと、なんだか苦しい。 「キミ、まさか行くんじゃないだろうね?」  それは長兄の元にということだろうか? いや、それしかありえない。 「行くんじゃないよ。なにをされるか、わからないじゃないか」  先ほどの短い時間で、ナイムさんは長兄の危険さを理解したらしい。……だからといって、会わないなんて選択肢はない。 (あの人がなにを考えているかはわからない。ただ、話をしないとなにをされるか……)  俺に攻撃が来るだけなら、まだいい。もしもナイムさんに風評被害が及んだら。  そして、なによりも。 (ルーとの関係がバレていたら……)  その場合、ルーにも迷惑が及ぶ。  単に男のセフレがいるとか、そういうことなら全然いい。問題は長兄がセフレの正体をルーだと掴んでいる可能性があるということ。  ルーは人気の高い騎士団長だ。これくらいで緩むような基盤は築いていないだろうけど、不安の芽は摘んでおくに越したことはない。俺だってルーの役に立ちたい。 「ナイムさん。俺、会ってしっかりと話をしようと思います」  意を決したように口を動かすと、ナイムさんの目が真ん丸になる。が、すぐに「冗談言わないでくれ」と言葉を口にした。  冗談なんかじゃない。俺は本気だ。 「別に俺がどうこうされるくらいなら、問題ないです。ただ、ナイムさんや周りの人に迷惑をかけたくない」 「……ユーグくん」 「あの人は下衆だし、外道だし、自分の欲望のためならなんでもするようなクズです。だから、ナイムさんに迷惑をかけたくない」  覚悟は決めたはずなのに、声が震えている。結局、俺はどこまでも弱虫らしい。ここまで来ると、惨めさなんてどうでもいい。 「ユーグくん。僕はキミのことを家族同然に思っているんだよ。だから、迷惑だなんて言わないでほしい」  ナイムさんの言葉が嬉しかった。けど、彼の言葉で俺の決意はもっと頑丈なものになった。この人に迷惑をかけられないという気持ちが強くなっていた。 「それは無理です。……だって、これは所詮俺の自己満足だから」  俺の言葉にナイムさんが目を大きく見開いた。そう、これはただの自己満足。 (ナイムさんにもルーにも、迷惑をかけたくない。それはただの自己満足。二人を庇って、自分に酔おうとしているだけ)  自分自身に言い聞かせることしかできなかった。そうじゃないと、気持ちが壊れてしまいそうだったから。  いきなりやってきて、俺の平穏を壊そうとする。そんな長兄が憎たらしくて、いっそ殺意まで抱いてしまいそうだ。  ただ、それを行動に移せないのは、俺の恨みがそこまでに至っていないからなのか。はたまた――俺が臆病だからなのか。  それは定かじゃなかった。

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