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雨粒がガラスをたたく音で目が覚めた。少しして大きな雷鳴が聞こえて、身体が跳ねた。
窓のほうに近づくと、土砂降りの雨が降っていた。雷は容赦なく鳴り響いている。これはどこかに落ちたかも。
「ルー、大丈夫かな……」
ぽつりとつぶやく。
――って、俺が心配してどうなるんだ。なにもできないくせに。
視線を動かして、時計を見る。どうやらかなり眠っていたらしく、もう夕方だ。
「今日、休みでよかった」
この雨の中徒歩で帰るなんて、絶対にいやだから。
なんて思いつつ、部屋を出ていく。今は飲み物が欲しかった。
廊下を歩いているときにも、何度も雷が鳴った。さらに木々がざわめく音がした。強い風が吹いているのだろう。
厨房の扉を開けると、中で夕飯の仕込みをしていた料理人が俺に気づいた。彼はエプロンで手を拭いて、俺のほうに近づいてくる。
「どうなさいました?」
「ちょっと水が欲しくて」
要望を口にすると、彼は大きくうなずいて冷蔵庫に近づく。その間に、俺は厨房の隅にある休憩スペースに腰を下ろした。
しばらくして、カップを差し出される。水の上にはレモンが浮いていた。
「どうぞ、すっきりしますよ」
「……ありがとう、ございます」
気遣いは嬉しいけど、余計な心配をかけたみたいで心苦しくもある。
俺はカップを口に運ぶ。冷たさが喉を潤すと同時に、スーッとした感覚もある。ほっと息を吐いた。
「なにか、思うことでもありますか?」
俺の目の前に腰を下ろした料理人が、心配そうに見つめてくる。
「珍しくお料理を残しましたので」
「……まぁ、うん」
ごまかそうか。でも、うまくごまかせる自信がない。
悩むうちに自然とカップを持つ手に力が入る。うつむいて、水面を見つめた。
「別に大したことじゃないです。俺が贅沢なだけですから」
小さなつぶやきに、彼はなにも言わなかった。
どうしてかそれが心地よくて、言葉が続いた。
「前と比べたらずっと恵まれた環境にいるのに、これじゃあ満足できなくなってて。このままだとどんどん強欲になって、取り返しがつかなくなりそうで、怖くて」
ルーとの関係をあいまいにしたのは俺自身だ。だけど、あいつが俺に愛情を伝えてくれるのが嬉しかった。恋人になる勇気が出なかったくせに、与えられる愛情が心地よかった。
こんなあいまいな関係は、どちらかが終わらせようとしたらすぐに終わる。
しっかりした契約というわけでもないので、保証もなにもない。
もしも、もしもだ。こんな幸せを覚えた俺がルーに捨てられたら……そのあと、どうなるのだろう。想像するだけでも怖い。
「余計なこと考えてしまったら、全然食べられなくて。困らせるって、わかってるのに」
ただでさえ、この人たちにとって俺は突然転がり込んできたよそ者だ。迷惑をかけてはいけない。
「ずっと一人で生きてきて、一人には慣れたはずだったんです。……だから、大丈夫なはずなんです」
説明するというよりは、自分に言い聞かせている。慣れているから大丈夫。俺は一人に戻っても、大丈夫だって。
「きちんとしないとダメなのに。……俺、いつからこんな弱くなったんだろう」
兄さんが死んで、一人ぼっちになった。だれにも頼らずに生きていくと決めた。
ナイムさんはいたけど、あくまでも雇用主と従業員の関係だ。プライベートまで頼ることはなかった。
「こんな俺じゃ――ダメなのに」
幼少のころ。両親が俺を叱責するときは決まって「お前はダメだ」と言ってきた。忘れたはずの言葉が、胸の奥底からよみがえる。それは俺の心を侵食し、頭の中にもう一度こびりつこうとしていた。
「……それは」
強く目をつむっていたとき。ずっと黙っていた料理人が口を開いた。
「それは、弱くなったということではありません」
はっきりした言葉に、勢いよく顔をあげた。こちらを見る料理人の目は真剣そのものだった。
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