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 先輩との食事を終え、アパートに戻る。すると、部屋の前に男がいた。 「――亜玲?」  名前を呼ぶと、うつむいていた亜玲が顔を上げる。俺を見て、笑った。 「突然ごめん。やっぱり心配だったから」  亜玲が肩をすくめる。  ……邪険にはできない。この間のこともあるし。 「祈はこの時間までなにしてたの?」 「……先輩にご飯奢ってもらってた」  鍵を開けてドアノブを回す。扉を開けて、亜玲のほうを振り返った。 「ちょっと寄ってく?」 「いいの?」 「この間のお礼」  亜玲は少し迷って、うなずいた。  俺に続いて亜玲が室内に足を踏み入れる。狭いワンルームのアパートは亜玲の部屋とは全然違う。 「適当に座ってて」  床には衣類が散らばっているし、布団も敷きっぱなしだけど。 「邪魔だったら衣類、端に避けておいてくれたらいいから」  冷蔵庫から麦茶を取り出しつつ、二つのコップに注ぐ。  生活スペースを見ると、亜玲が部屋の隅に腰掛けていた。……なんでだよ。 「確かに汚いけどさぁ」  ローテーブルの周りを適当に片づける。空いたスペースに亜玲を座らせて、俺は真ん前に座った。自分の衣類は尻の下だ。  テーブルの上にコップを置く。亜玲はきょろきょろと忙しなく視線を動かしていた。 「こういうのが普通の大学生の部屋だから」 「俺のは普通じゃないって?」 「当たり前だろ。お前、お坊ちゃんじゃん」  庶民の俺とは全然違う。 「……そんないいもんじゃないよ」  亜玲の手がコップに触れた。麦茶を飲んで、俺を見て笑う。 「俺は二番目だ。けど、二番目じゃ許されない」  意味深な言葉だった。 「祈は知ってるよね。……俺の家庭事情」 「まぁ、うん」  亜玲には兄が一人いる。人当たりが良くて明るい。優秀でたくさんの人に囲まれているアルファ。  ただ、俺は亜玲の兄が……こういってはなんだが、苦手だった。  そして、その兄と亜玲は『異母兄弟』なのだ。 「母さんは、俺が兄さんに勝つことを望んでいる」  コップをぎゅっと握って、亜玲がつぶやいた。 「俺こそが上月を継ぐべきだって言うんだ。小さなころからずっとそうだった」  俺は亜玲の母親の顔を思い浮かべる。  雰囲気は穏やかで、ふわふわしたオメガの男。いつだって物腰柔らかで、俺にも親切だった。 「とっても人当たりのいい人だから、誰も母さんの本性には気づかないけどね。母さん、俺にだけは厳しくて」  亜玲の声が震えている。俺は、どう声をかけたらいいんだろうか。 「俺、母さんの期待に応えなくちゃならなかった。『上月の優秀な子息』でいなくちゃならなかった」 「……うん」 「ただ、俺はわかってたんだ。俺じゃあ兄さんには勝てないって」  ――そんなことない、と言えたら、よかったのに。 「本当の俺は泣き虫で、祈にくっついていないと駄目な子のままなんだ。肝心なときに、勇気が出なくて臆病だ」 「この間俺を助けたのも、それが理由?」  亜玲の双眸を見つめる。 「あのとき、亜玲には俺を無理やり番にするチャンスがあった。だって、俺のヒートに当てられたって言えば、誰も亜玲を責めない」  俺も、きっと亜玲を責めなかった。許しただろう。 「なのに、亜玲は俺を番にしなかった。……なんで?」  亜玲の返答を待った。亜玲は渇いた笑いをこぼす。 「そうだよ、正解。『ここで番にしても誰も責めない』っていう考えは頭の中にあったよ。でも、これじゃダメだ。目を覚ましたときの祈が絶望したら――俺は、きっと後悔する。そう思った」 「お前、ちぐはぐだよ」 「知ってる。俺も自分自身の気持ちがわからないんだよ。自分がどうしたいのか、もうずっとわからない」  亜玲の目から涙が溢れたのがわかった。  あぁ、そうだ。亜玲は――。 「俺、どうしたいんだろ。気づいたら祈のところに向かってたし、もうなにもわからないんだよ」

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