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顔をゆがめた俺の視界に映る奏輔は、唇の端をあげた。
「お前は馬鹿だよ。……だから、質の悪い男につけ込まれるんだ」
こちらに身を乗り出してくる奏輔から逃れるように、後ずさった。
ここでドアを開けて、飛び出すべきなのかもしれない。でも、できなかった。
頭の片隅で、過去の俺がささやく。
――奏輔は、頼もしい兄貴分だと。
「そ、うすけ」
奏輔の指先が俺の顎をすくいあげる。
黒い瞳に射抜かれると、身体から力が抜けた。
「これはあくまでも提案だ。断ってくれてもいいよ」
前置きをした奏輔が、俺の唇を親指でなぞった。そして、顔を近づけてくる。
あと少し動いたら、唇が触れ合う。キスをしてしまう。
緊張からごくりと生唾を呑み込んだ。
「祈、俺と恋人になろうよ。もちろん、結婚前提でね」
耳に届いた言葉が信じられなかった。
奏輔はゆっくり目を細めて、愛おしそうに俺の頬を撫でる。
「俺と結婚しようよ。俺、昔から祈のこといいなぁって思ってたんだ」
背筋がぞわぞわとする。撫でられた個所が熱いのは、気のせいだろうか。
「冗談、きついって」
目を逸らす。このまま奏輔を見ていると、頭がおかしくなりそうだ。
それくらい、今の俺は冷静ではなかった。
「この場面で冗談なんて言うわけがない。……俺は本気だよ、祈」
助手席のシートがぎしりと音を立てた。背中にドアが当たる。同時に、頭が窓ガラスとぶつかった。
「俺、これでも将来有望なんだ。俺と結婚したら、祈は一生苦労せずに過ごせると思うよ?」
頭の中に流れ込んでくる奏輔の言葉は、まるで呪文だ。
――こちらに堕ちてこいと言っているみたいだった。
「ほしいものはなんでも用意する。だから、俺と結婚しよう」
耳をふさごうとした。なのに、その手を奏輔に掴まれた。恋人のように指を絡め、窓ガラスに押し付けてくる。
「亜玲といるよりも、ずっと幸せにしてあげる。お前だって、あんな男は嫌だろう?」
胸の奥がずきんと鈍く痛んだ。
あれ、なんで俺、こんなに傷ついているんだろう。しかも、亜玲のことで……。
「それに、俺と結婚したら一種の復讐になる。亜玲に対する一番の復讐は、お前が亜玲の側から離れてしまうこと。そして、ほかの人間と結ばれることだ」
知っている。それくらい――嫌というほど、知っている。
「祈は亜玲が嫌いなんだよね? だったら、いい条件だと思わない?」
あくまでもこれは提案だと、奏輔は繰り返した。
俺はうつむいて、黙り込む。頭の中がめちゃくちゃだ。
「――と、ちょっと突然すぎたかな。とにかく、食事に行こうよ。きっと、祈も気に入ってくれるから」
奏輔は再度エンジンをつけて、車を走らせる。
高速道路に乗り、あっという間に市外へと。しばらくして、隣の県に入ったとナビがアナウンスした。
「サービスエリア、寄りたかったら教えてね」
「……あぁ」
とてもそっけない言葉になってしまった。
しかし、仕方がないじゃないか。奏輔が変なことを言うから。変なことを――提案してくるから。
(奏輔はずるい。俺に強制してこない。あくまでも、俺が自主的に選んだことにしたいんだ)
亜玲を拒み、奏輔と結婚する。きっと、今までの俺なら前向きに考えただろう。
だけど――今の俺は、どうにも前向きに考えることができなかった。
(俺、亜玲を支えたい。助けたい。守りたいって思ってるんだよ……)
どこか儚い亜玲を、俺は守りたい。おこがましいことだってわかっているのに。
(俺は馬鹿だし、お人好しだ。――どうがんばっても、亜玲のことを放っておくことができない)
再度胸の中に芽生えた情は、膨らんでいく一方。消えてくれない。しぼんでくれない。
自分の気持ちがわからない。それが、こんなに気持ち悪く感じたのは、生まれて初めてだった。
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