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1話 「悪役令息」とは?
悪役令息とは、物語やゲームなどでヒーローやヒロインの恋のエッセンスとなるライバル的存在である。
そのライバルが強力で、恋が前途多難であればある程、ヒーローとヒロインの恋やストーリーは盛り上がるものだ。
僕の恋のライバル的存在、ルーファス・キンケイド侯爵令息は眉目秀麗、成績優秀、無口無表情であるが、下の者を闇雲に見下す事もなく、平等で公平な人間と評判だ。我が国では第三位以下の王子には後継者問題もあり、男の婚約者をつけるという伝統の為、第三王子の婚約者として、幼い頃からその地位についている。
お約束のBLゲーム設定だ。
王子の婚約者であり幼なじみでもあるルーファス・キンケイド侯爵令息の美しい黒髪は襟足が長く、ひとつに括っていて片側の肩から流している。切れ長の瞳は吸い込まれそうな空の青で、詩人がそれで歌を創ったという逸話まであった。
手足が長く高身長であるが、ひょろりとした印象はなく、きっちり筋肉もついていて、剣技の授業では負け知らず。その為、肌は日焼けしているが美しさを損なうどころが美の底上げしている。
その均整の取れた体の上についている顔は、神が采配したとしか思えないほど見目麗しく、幼い彼を見た著名な画家がキンケイド家の当主に土下座して肖像画を描かせて欲しいと懇願したという。
初めて彼を見た時僕は「イケメン滅びろ」と呟いていた。
……はっきり言って、なんで僕のライバル的存在にこんなイケメンを配置したの! と神様に文句を言いたい。
僕こと、サッシャ・ガードナーは平民だ。それも孤児。親の顔なんて知らない。産まれたばかりの頃、孤児院の前に捨てられ、身を証明するものなど何一つなかった紛うことなき孤児だ。
まあ、それはいい。僕にはこんな生まれでものし上がることが出来るアドバンテージ、いわゆる優位性……前世の記憶を持っている。個人的な記憶もある程度はあるが、なにより覚えているのがゲームの内容だった。
そう、この国は前世でやったBL恋愛ゲームの世界にそっくりだった。
そして、僕はこのゲームの中でヒロイン(♂)である。ベビーピンクの髪は緩く巻いた猫っ毛で、毎朝必死に手ぐしで整えている。赤みの強い紫色の瞳を持ち、ぱっちりした二重の可愛い系の顔だ。誰もが振り向く極上の美少年というわけではないが、まあ、可愛いねという感じで可もなく不可もない。
容姿は普通だし、孤児だし、努力はしてるけど、頭だってそんなに良くない。誰だって、ルーファスと比べたらどちらを選ぶかわかりきっていた。
(でも僕は、ヒロイン(♂)ポジなんだから!)
十六歳から十八歳まで通うここで、楽しい学園生活を送り、恋をするのが僕の長年の夢だ。そして孤児である僕がこの学園に通えているのはひとえに自分の努力と、国の施策の賜物である。
王立学園「ニーラサ」は学びたい者に広く門戸を広げている。様々な分野の学問を王国中どころか世界中から集めており、教師陣は優秀で、近隣諸国からの留学生も多い。
この学園の入学試験に合格すれば、貴族はもとより平民、孤児と呼ばれる者まで平等に学ぶことが出来る場所だ。
しかも特待生になれば成績上位の維持は必要だが、十六歳で入学し、十八歳で卒業するまでの学園生活に必要な費用は国が負担してくれる。
その後、王城の文官を目指したり、国の研究機関に就職したりとさまざまな未来が開かれる。特権階級にいる貴族の子息令嬢はともかく、ここで学ぶ平民は、皆未来を見据えて勉学に励んでいた。
僕もその一人だ。ここで成績優秀のまま卒業すれば、孤児の僕でも王城の文官になることだって夢じゃない。この国の中枢が平民にも門戸を開き、優秀な人材確保するのに、血筋は不要としたのは、三代前の王様でそれは今も続いている。
生活様式は近代的とはまだ言えないが、その前衛的な考え方をゴリ押しして浸透させてくれたのはありがたかった。おかげで他国の追随を許さないほど、この国の教育機関は発展していっている。
そうでなければ僕はここに通うことも出来なかっただろう。さすがに国の要職につく人物はまだ貴族が多いが、それでもかなりの平民が国の中枢で働いている。
(まあ、僕もそんな文官狙いだけど……)
そんな平民がこの学園には沢山いて、切磋琢磨している。裕福な平民や貴族の子息もうかうかしていられないのか、真面目に取り組む者が多い。
まあ、特権階級に胡座をかいて、成績優秀だが貧乏な平民を貶めようとする者もいる。そんな相手には近づかないのが良策だ。それに僕にはそんな事に巻き込まれている暇はない。
幼い頃から学ぶ環境を整えられていた者と、必死にならなければ学ぶことすら出来なかった孤児の自分では土台が違う。
気を抜けばすぐに成績を追い抜かれるので、日頃から予習復習は欠かせないし、わからないことは恥ずかしいなんて考えず、わかる人に理解出来るまで質問する。でも学園生活はそれだけではない。
とある場所を目指して歩いていた僕は、目当ての人を見つけて、息を整え可愛く見えるように口を笑みの形にする。
「王子~~! 今日も会えて嬉し、げっ!」
広い学園内には、中庭がいくつもある。大小様々な東屋が設置されており、そのひとつは暗黙の了解で王族とその側近のみが利用する場所となっていた。
その隔離された特別な場所は、ゲームで何度も訪れていたので知っている。誰もが遠慮して近づかないその場所に、僕があえて近づいているのはわけがある。
僕はニーラサ国の第三王子のローラントに向かって手を振りながら、馴れ馴れしく走り寄る。遠慮なんてしていたら、恋なんて出来ないのだ。
そして王子まで後少しの場所まで来た時、何かにつまづいたのか体が傾いて地面に倒れそうになる。
自分で言うのもなんだか、僕はよく転ぶ。体か運命がそんな仕様なのだろう。
王子は目の前で転びそうになった僕を助けようとして腕を伸ばすが、その前に側近であり婚約者でもあるルーファス・キンケイドが出てきた。
僕の体勢を崩した細い体を、その逞しい腕で支えると、怪我はないか? と艶のある声をかけ、立たせてくれる。
「チッ……えーと、あの……ありがとうございまぁす」
思わず舌打ちしたのを誤魔化すように微笑んだが、なんでお前が助けるんだ! と思いっきり不満です、という表情を浮かべルーファスの腕に掴まりつつ体勢を整える。そしてその後ろに立っている王子に向かって首を伸ばした。
「王子! あの、今日はクッキーを焼いてきたんです。良かったら一緒に……」
白いハンカチに包んで、リボンを結んだそれは昨日寮の厨房を借りて作った渾身の手作りクッキーが入っている。
「クッキー?」
王子はクッキーと聞き、興味を示したように繰り返す。けれど差し出したそれは王子ではなく、ルーファスの手に渡った。
「俺が預かる」
「えー、でもぉ」
邪魔すんな、とばかりに睨めば、納得出来る理由を告げられた。
「ローラントが口にするものは全て毒味が入る。それが終われば、渡すことが出来るからそれまで待て」
渡さないと意地悪で言っている訳ではなく、正規の手続きを踏めば食べて貰えると説明されれば、引くしかない。
「わっかりましたぁ」
残念だと言うようにぷるぷるピンクの唇を尖らせ王子を見れば、仕方ないねと目配せされた。
ローラント・エル・ニーラサはこの国の第三王子だ。金髪碧眼、フォーク以上の重たいものは持ったことがないと言われても納得しそうなたおやかさがある。
桜貝みたいに艶やかな爪から足先まで手入れの行き届いた肢体、陽の光を浴びて輝く豪奢な金髪、肌に影を落とす豊かなまつ毛の下には、紺碧の海と呼ばれる瞳が見える。
緩く微笑み目を細めた姿は、どこの宗教画だ? と悶えるほど神々しい。
正統派王子様が目の前にいるのを実感し、僕はもうひとつの目的を口にする。
わからない問題は、わかっている人物に質問するのだ。人に教えるのが好きなタイプは、真面目な質問をして理解しようと努力する人間を好ましく思うものだ。勉強も進み、好感度も進み一石二鳥だと僕は考えている。
「王子、今日の授業で先生が言っていた、階級間での考え方の相違につい……あっ」
ここは外で、風通しの良い東屋だ。周囲には植木や花壇があり、当然虫もいる。王子の近くに肌を刺して血を吸う小さな虫を見つけ、思わず手を振って払ってしまう。その拍子に王子の服に触れそうになる。
(これは好機、では?)
偶然を装ってボディータッチするのは、ゲームでもよくある好感度を上げる行為だ。手で虫を払った後、傍にあった王子の服の端に触れようとしたがその直前に手首を掴まれて服から離された。
「……あの、ごめんなさい」
僕の手を掴んだのはルーファスだった。言葉では謝りながも、邪魔すんな! と視線に込めて睨んでやる。
「王子、触っちゃダメでした?」
ルーファスから視線を外し、王子に向かって可愛く見えるように上目遣いで見上げれば、困ったように微笑まれた。その理由はすぐにわかることになる。
「ローラントの服には登録者以外が触れると攻撃する防御の魔術が掛かっている。攻撃しなければなんともないはずだが、不用意に触れるのは危険だ」
「そ、そーなんだ……」
危なかった。先程転んで王子に触れそうになっていた僕を、王子を押しのけでまで支えてくれたのは、それがあったからなのだと気づく。
不用意に触れてあやうく吹っ飛ばされるところだったと思っていると、ルーファスが王子を見つめて、王子は仕方ないと言うように頷く。
なんだろうと思っていれば、とんでもないことを告げられる。
「明日には俺たちと同じように、ローラントの防御魔術への承認を登録しておく」
「は?」
何を言われたか一瞬理解出来なかった。目の前の男は、側近と同じように自分を扱うと、……婚約者の座を狙って虎視眈々としている自分に、婚約者に触れる許可を出すと言っているのだ。
(僕に嫉妬もせずになにやってんだよ、こいつはっ!)
初めて会った時から、ルーファスの行動は全く悪役令息のそれではない。評判通り誰に対しても平等で公平に接する。優しいとさえ言える。こんな優秀な婚約者がいる王子が、顔も頭も普通で内面は性悪の自分に惚れるなんて思えない。
悪役令息がもっと僕に対して嫉妬して、意地悪して、虐めてくれないと、ゲームのように恋が進まないではないか。
今日まで我慢に我慢を重ねていた所為で、今にも爆発しそうだ。まるで自分なんて相手にならないと言われているようだった。
「王子、ちょっと、キンケイド侯爵令息様を、借りても、良いですかぁ?」
ここでルーファス相手に怒鳴っては、今まで王子の前で可愛い子ぶりっこしていた演技がぶち壊しになる。けれど思わず区切って喋ってしまう程、怒りが込み上げていた。
(僕なんててんで相手にならないって思ってるわけ!?)
僕の剣幕に押されたのか、王子はチラリとルーファスを見てから許可するように頷く。
「どうぞ?」
「ありがとうございまぁす。さ、キンケイド侯爵令息様、一緒に来てくださいますね?」
嫌なんて言わせない勢いで腕を引けば、ルーファスは素直に僕の後を着いてくる。
それがまた僕の怒りに火を注ぐ。
(僕なんて本当に相手にならないと思ってるんだ!)
唇を引き結び、東屋を出て校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下まで到着した。この近くには周囲から見えない場所があり、僕はそこにルーファスを連れ込んだ。
密集している木立のひとつに背中を押しつけて、キッと睨みつけてやるが全く気にされていなかった。それどころか名前をフルネームで呼ばれ、話しかけられる。
「サッシャ・ガードナー、先程の質問だが……」
ルーファスが何か言う前に、僕はルーファスの胸に指を突きつけて怒鳴ってやる。
「あんたさあ、一体どーゆーつもり! 僕が王子奪っちゃってもいいの!?」
「奪う?」
なんのことかわからないというように首を傾げる姿も様になる相手に、僕の怒りのボルテージもますます上がってしまう。
「そーだよ! 僕が王子の婚約者に成り代わってやるって言ってんの!」
「成り代わる……?」
王子の婚約者はこの目の前の悪役令息、ルーファス・キンケイドだ。この国では余計な後継者争いをしないため、第三王子以降は男性と結婚することになっている。
僕と同学年の王子は第三王子で前世でやったゲームの中での僕の推しだった。その記憶によると他にも攻略対象者はいるが、どうせなら前世の推しである王子と恋仲……、自分を好きになって欲しいと思っている。
だからこそ、前世を思い出した後、必死で勉強してこの学園に通えるよう頑張ったのだ。
入学が決まった後、始まるはずの学園生活と王子との恋に僕は胸膨らませていた。
入学式からが勝負だと、僕はシナリオ通りに遅刻しそうになって王子の前を走り抜けた。
単純な方法だが、周りにいないタイプの人間を演じれば「おもしれー女」括りで気に止めて貰える。何度もそれを繰り返し、その他大勢から個人を認識して貰えるようにするのだ。
僕が頑張っている間、ルーファスが何をしていたかと言うと、何もせずぼんやりと僕の行動を見つめているだけだった。悪役令息がヒロイン(♂)に虐めをすると、王子やその幼なじみたちが庇ってくれて、仲が進展するのがこのBLゲームの醍醐味だ。
先程王子にぶつかりそうになって止められたのが、初めての妨害らしい妨害だ。
それなのにルーファスは僕の言葉を繰り返すばかりで、焦燥感なんて微塵も感じない。僕なんて相手にならないと言わんばかりだ。
「うかうかしてると、僕があんたの代わりに王子の婚約者になってやるからな! それなのに、あんたは僕を排除もせずただぼーっと見てるだけなんて、あんた真面目に悪役令息やる気あんの!?」
思わず興奮してまい、余計なことも言っているが止まらなかった。
「悪役令息……とは?」
また言葉を繰り返され、地団駄を踏んでしまう。
「だーかーらー! あんたは悪役令息なんだから、僕が婚約者の王子に近づくのを止めさせるために教科書破いて近づくなって警告したり、ボディータッチしようとした僕に俺の婚約者に触れるなって頬叩いたり、気安く話しかけるのを見たら下賎な口を開くなって遮ったり、……それから権力を使って暴漢に僕を襲わせたり、その、色々やることあるだろ!……いたっ」
興奮に振り回した手を、側に立っている木の幹にぶつけてしまい痛みに思わず呻く。
でも僕は間違ったことは言っていないはずだ。
防御魔術で怪我しないように助けたり、明日には触れられるように許可申請するんじゃなくて、もっと他にやることがあったはずだ。
「それは器物破損や、暴行、倫理観の劣る行為だな。権力とは上の者が弱者を虐げる為に使うものではない。……大丈夫か?」
ルーファスはそう言いながら、僕の打ちつけた手を取って問題がないか見てくれる。赤くなった手を痛ましげに見ると、優しくそっと撫でてくれた。
「く、……正論すぎて何も言い返せない。それから手、離してよ!」
敵であるべきルーファスに、こんな風に触れられるとなんだかよくわからない感情が浮かぶ。それを振り払うように手を取り戻した。
「みだりに触れて、すまない」
素直に謝るルーファスに何か言い返さなければと思うが、何も思い浮かばないでいると話を続けられた。
「それから先程の話だが、サッシャ・ガードナーは勉強が好きだろう。もう卒業された先輩に譲ってもらった教科書を大事に使用していると聞いている。そんな大切な物を破ることなど、出来るはずがない。知識欲があり、わからないことがあれば教員に質問に行くことも。ボディータッチというが、王子の側を飛んでいた虫を払って服の端に触れそうになっていたことも見ていたからわかっている。ローラントに話しかけるななど、将来臣籍降下されるローラントが困らないように、民の生活についてわかりやすく説明していたのを、俺は知っている」
「待って! 本当に待って! な、なんで……っ」
そんな事を知っているのだろうか。
ルーファスは僕に興味がないと思っていたのに、物凄く詳しい。よく観察していたみたいに僕のこれまでの行動をスラスラと説明されて恥ずかしくなる。どうして? と思っているとその理由がすぐにわかる。
「ローラントは王族だ。これまでもローラントの側近くに寄ってこようとする者は大勢いたから、その相手は詳細に調査機関が調べる」
「そ、そーなんだ」
僕のことも詳細に調べあげられている、ということだ。
(あーこれはダメかぁ。王子と恋をするのは諦めた方が良いのか……)
孤児だということは、ガードナーという家名を使っていることですぐにわかってしまう。
それは国が主導になっている孤児院の子どもは全て所属している孤児院の名前を名乗るようになっている為だ。
ガードナー孤児院の、サッシャという風に。
(孤児なこと、恥じた事なんてねーけど、でも、やっぱり……)
僕が孤児になったのは、育てられもしないのに僕を作った男女の所為だ。責任は全てその二人が負うべきであり、僕は胸を張って堂々と生きていくんだと思っていた。
(……僕はルーファスにだって、全然相手にされてない)
頑張って王子に近づき、恋をしようとしていたがルーファスが僕の相手なんてしてくれないから、これまでのイベントはほとんどこなせていない。
ほんの少し可愛いだけの自分と、貴族の血筋であり、高等な教育を受け、誰もが振り向く容姿に、全ての才能を持つルーファスではライバルなんてなりようがないと考えて、そこでムッとする。
ゲーム通りにストーリーが進まないのは、目の前にいる人物、ルーファスの所為だ。
「それもこれも、あんたが悪役令息をちゃんとやらないからだ!」
平民の孤児が王子に近づくことを不服として、ルーファスが僕に意地悪な態度を取らないから、王子だって僕を守ってくれない。
悪役令息の魔の手から守られてこそ、ヒロイン(♂)だろうが! と不甲斐ない毎日に鬱屈していた感情を持って、ルーファスを睨む。
このままでは王子と恋をするなんて夢のまた夢だ。せっかく頑張ってこの学園に入り、王子と恋をしようと思ったのに僕の薔薇色の未来が灰色になってしまいそうだ。
「なんで、悪役令息しないんだよぉ……。あんたがやんないから、王子との仲が全然進展しねーじゃん。勉強も教えて貰ってねーし、クッキーだって一緒に食べれなかった。あんたが無理やり奪って、それを見た王子がその行動を叱責して、クッキーを取り戻してくれて、一緒に勉強しながら二人で食べるってのが今日のイベントだったのに……」
でも王族が平民の、それも孤児の作ったものをそのまま食べられるはずがない事くらい僕だって理解出来る。それに意地悪でそう言ったわけではなく、毒味が終われば渡してくれるとも言っていた。
でもそんなことわかっていても納得はできない。これまでストーリー通りに進んでいなくて、王子との恋なんて一ミリも進んでいない。
頑張って行動してきたことが全て無駄になりそうで、不安になり目の奥がチクチクしてきた。ルーファスの前でなんて泣きたくないのに感情が昂って止められない。瞳に水の膜が張り、みるみる膨らんで頬に溢れた。
「……!」
ルーファスはそんな僕を見て、初めて表情を変えていたがもう知った事ではない。ライバルの前で泣くなんてみっともないが、我慢出来なかった。
「ううっ……。なんであんたが悪役令息なんだよ! 悪役令息ってのはあんたみたいに公平じゃないし、優しくもない! もっと意地悪で人を見下してて、人を脅したり、権力使って悪いこといっぱいして……僕と王子の仲を引き裂こうとして、それで……っあんたとゲームの悪役令息の同じとこなんて、無口で無表情で綺麗な顔してるとこだけだ!」
初めてルーファス出会った時、こんな綺麗な人が自分を虐めるのだと、驚いたことを覚えている。
それくらいルーファスは美しかったのだ。
僕は嗚咽を我慢出来ずに、うわーんと泣き始めてしまった。
そんな僕を見て、普段の優雅な動きがどこかへいったように、ルーファスはぎくしゃくしながらポケットを探ってハンカチを取り出すと差し出してきた。
敵から貰うものなんて何もない! とそっぽを向けば、ルーファスは一歩踏み出して僕の頬に流れた涙をハンカチでそっと拭ってくれた。
どうして悪役令息なのに、こんなに優しくしてくれるのだろう。
僕だったら恋心を持って婚約者に近づく輩になんて、ハンカチどころか落書きしたメモ紙一枚だって渡さない。
ますます情けなくなって涙が溢れた。
「……俺がその悪役令息をやらないから泣いているのか?」
「……ぐずっ……は?」
「悪役令息をやれば、泣き止むか?」
「へ? いや、まあ、その……」
ルーファスの言葉になんと答えたら良いのか考えていると、涙も引っ込んでいく。
「泣き止んだな。ほら、鼻水が垂れてる。ちゃんと拭け」
丁寧な所作で涙と鼻水を拭いたハンカチを、ルーファスは僕に握らせてくれた。無表情だがその視線はもう泣かないか? と心配しているように見えた。
ぐすっと鼻を啜り上げ、手の中のハンカチで鼻を隠した。誰かに心配されるなんて、今までなかったからくすぐったく思える。
「悪役令息をやってやるから、俺に教えてくれ」
「⋯⋯いいの?」
僕はこの学園で恋をしたいと思っていた。ゲームと同じように行動したら、きっとあんなふうに素敵な恋が出来ると思っていた。だからゲーム通りに悪役令息らしく行動しないルーファスに一方的な憤りを感じていたのだ。
「ああ」
悪役令息は僕の邪魔をしてくるというのが、本来のストーリーだったはずだ。決して、ヒロイン(♂)に悪役令息とはどんなものかなど教えを乞う存在ではない。
でも目の前にいる清廉潔白で公平明大なルーファスは悪役令息らしい行動なんて、とても出来そうもない。
「じゃあ僕が、あんたを立派な悪役令息に育ててやる!」
こうして僕はルーファスを、立派な悪役令息に育てることになったのだった。
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