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5話 悪役令息と宝剣
午後の授業が終わり、サッシャは教室を出て学園の敷地内にある寮へ帰る。
ルーファスたちと同じクラスだが、教室内ではあまり近寄らないようにしていた。というより、近寄れなかった。王子の周囲にはいつも幼なじみたちがいたし、その周りには近寄ろうとする女生徒たちが群がっていたからだ。
それにサッシャは他の生徒とは違い、教科と教科の間の休み時間も予習と復習に宛てていた。学ぶことが楽しいのもあるが、孤児院出身では学べないことが多々あり、その埋め合わせを今しているのだ。
午後の授業が終わったあと、他の生徒たちは帰り支度をしているけれど、サッシャはまだノートを開いていた。
(よし! こことここ、それで、ここをデューダー先生に聞きに行こう。こっちはこの前見てた図書館の本に載ってたような気がするから帰りに寄って調べよう。あ、今日はダメか。ルーファスが来るから、明日にしよーかな)
孤児院でサッシャに勉強を教えてくれたのは、王立学園に推薦してくれた司教だった。孤児院と教会は隣合った場所に立っていて、孤児院を出るまでの間、勉強などを見て貰えるのだ。その時にサッシャの優秀さに気づいた司祭にサッシャはその才能を見出され、学園入学に向けて勉強を始めたのだった。
前世の記憶があったし、病院に住んでいたような生活をしていたが、家庭教師がつけられていたので、サッシャとしてこの世界で生きていても年齢相応の学力はついていたと思う。けれど、貴族や金持ち達の子息に比べたら圧倒的にこの世界のことを知らなかった。
サッシャは今、その差を埋めようと必死で勉強しているのだ。
「サッシャ……?」
(この国の地理も歴史も面白い。隣国についてももっと詳しい本があればいいのにな。本が高価なのは辛いなあ……)
前世と違い、ゲームの世界に似ているとはいえ、印刷技術が未熟なこの世界では、まだ本は一般的ではなく大衆の娯楽にはなり得ないのだ。学術的な本はさらに高価で、平民が気軽に買えるものではない。王立学園に入って図書館を知り、サッシャはそれに夢中になっていた。貸出可能なら、申し込み用紙を書くだけで部屋で読むことも出来る。
「サッシャ」
名前を呼ばれた僕は、驚いてぎゅっとペンを握りしめノートに落としていた視線をゆっくりと上げる。僕に話しかける同級生は今のところ皆無だったので、幻聴かな、とも思ったが、そこには名前を呼んだ相手がちゃんと立っていた。
「ルー……キンケイド侯爵令息様。もしかして、僕を呼びましたか?」
「ああ。すまないが、少し生徒会での仕事がある。寄り道しないで部屋に帰っていてくれ」
「えっと……それなら、図書館に寄りたいんだけど……じゃなかった。寄りたいんですが、良いですか?」
時間には限りがある。王立学園に入学して、王子と恋をしようと思っていたが、勉強する時間も大事だし、疎かには出来ない。成績を落とせば自分をここに推薦してくれた司祭様に申し訳がたたないし、それに知らないことを知ることはとても楽しい。
クッキーを作るのも止められたし、ルーファスが生徒会の仕事をしている間に、調べ物を片付けてしまいたかった。
「……わかった。では、生徒会の仕事が終われば迎えに行く」
「いらねーよ! いや、あの、その……」
きっぱり断ろうとした時、ここはまだ教室で周りには聞き耳を立てているクラスメートがいることに気づく。
キンケイド侯爵令息様に口答えしている、という囁き声にサッシャは肝が冷える。孤児だということで遠巻きに見られているのは知っているが、高位貴族の子息に悪態をついたと学園生活に支障が出るのは避けたい。
「……まっすぐ寮に帰ります」
「ああ」
ルーファスは安心したように頷くと王子と幼なじみたちと教室を出ていく後ろ姿を見送る。僕は教科書などをカバンに入れ抱え、寮に戻るため教室を後にしたのだった。
教室を出て、学園から寮まではそんなに時間が掛からない。考え事をしながら歩くのは良くないと思いながらも、今日もルーファスが部屋に来るのならなにか出して持て成したいと考えていた。広い玄関を入り、部屋に向かう途中で足を止めた。
(そうだ。ルーファスが生徒会の仕事してくるなら、まだ時間あるんだしクッキー焼いて待ってようかな?)
それはとても良い考えのように思えた。豪華な食事に慣れているルーファスは、サッシャが作る素朴なクッキーが舌に合うのだと考えて、ハッとする。
(あれ? この設定、どこかで……)
王子に手作りクッキーを差し入れするイベントで、王子は王宮のゴテゴテしたクッキーは苦手で、ヒロイン(♂)の作る素朴なクッキーを好きになるという設定があった。
(王子も美味しいって言ってくれてたし、たくさん作ってルーファスに分けてあげよう)
その為には皿洗いのバイトを今度は二週間はしないとダメかなと思いながら、部屋に戻り鞄を勉強机に置くと、制服のままもう一度部屋を出る。
制服は国から支給されているが、私服は孤児院で支給された一着と寝巻き、あとは下着が数枚しかない。寮の貴族子息には僕の私服姿はあまりにもボロに見えるのか、私服姿で寮内をうろついた時に驚かれたので部屋を出る時は制服にしている。
目的地である厨房へ行くと、夕食の仕込み前なのか僕にクッキーの材料を分けてくれた見習い料理人が一人で野菜の下ごしえをしているところだった。
「あの、お願いがあるんですが……」
意識して可愛く聞こえるように声を出すが、野菜の皮剥きをしていた見習い料理人は顔も上げずにそっけなく言い放つ。
「お茶は二万ゼニー、菓子付きなら五万ゼニー、ちょっとした軽食は十万ゼニーになります」
この世界はBLゲームに似ているからか、日本の円がゼニーとなっていた。前世、お金を使ったことがなかった所為で、日本の物価とこの世界の物価がどれだけ違うかわからないが、孤児院育ちのサッシャとしてはお茶一杯でもあり得なくくらい高いなと思う。だからこそ、貴族令息とお金持ちの子息しか厨房に依頼を出すことが出来ないのだ。
「いえ、お金はないんですけど、皿洗いのバイトをするのでクッキーを作らせて欲しいんです」
そこまで言ってやっと見習い料理人は顔を上げてくれた。
「やあ、|ガードナー《孤児院育ち》。またクッキーを作らせて欲しいって?」
「はい! 今度はもう少し多めに作りたいんですけど、バイト期間でどれくらいになりますか? きちんとその期間働くので出来たら、今から作りたいんですけど」
孤児院育ちはよくこうやって揶揄われる。慣れてしまった嘲りを無視して、自分でも呆れるほど図々しいお願いをする。こうしないと悪役令息をやってくれると言ってくれたルーファスに、何もあげられなくて申し訳なく思う。
(ルーファスは、僕のために悪役令息をやってくれると言ってくれた。だから、クッキーをあげたいんだ)
「ふうん。図々しいな」
「すみません。でも僕ちゃんと皿洗いしますから!」
前にやった時も一度もサボらなかったし、洗い終わってからも皿の一枚一枚、カトラリーの一本に至るまで綺麗になるまできちんと磨いていた。実績はちゃんとあるのだ。
「だけど今からだろ? それだけじゃ足りないな」
「えーっと、あ、野菜の下拵えもやりましょうか?」
「それだけでも足りない。もう少しすれば他の料理人が来るんだ。その間ヒヤヒヤしてなくちゃならないだろ?」
確かにその通りだった。前は皿洗いが終わって、見習い料理人しかいない深夜に厨房を貸して貰えたのだ。
「でも僕、どうしても今作りたいんです」
ルーファスがクッキーを食べて「美味い」と言ってくれた顔が思い浮かぶ。床に籠を置いて野菜の皮剥きをしていた見習い料理人は、立ち上がってサッシャをジロジロ見てきた。
「こっち来いよ」
「はい!」
クッキーの材料を分けて貰えると思った僕は、嬉しくて元気よく返事をした。その後厨房の奥にある小部屋の扉を開けた見習い料理人に押し込まれた。
え? と思う間もなく、薄暗い小部屋の壁に体を押し付けられ、大きな体の見習い料理人の太い腕が首を押さえる。
「ぐ……っ!?」
いきなりのことに反応出来なかったが、僕は手足をばたつかせて押さえている腕を外そうとした。けれど僕と見習い料理人では全く体格が違った。びくともしない体と、苦しさ、そしてこれからどうなってしまうのかという恐怖に体が震えてしまう。
「わかるだろ?」
臭い息を耳元に吹きかけられなから、そう囁かれた。さっぱりわからなくて呆けてしまう。なぜ見習い料理人はこんなことをしているのか理解出来ないのに、わかるって何がだろうか。
(わかるって何が? 今、何が起きているんだ?)
首を押さえている腕はそのまま、体で押さえ込まれていた上半身が少し離される。ほっとしたのも束の間、見習い料理人の手のひらが、服の上から体を撫でていた。
「や、やめ……っ」
許可もなく体に触れられて、気持ち悪くて仕方ない。医師の触診だって、最初に触りますよと断ってからだ。なのに、この見習い料理人は壁に押さえつけて、許可も取らずに体に触っている。
悠長なことを考えている暇はないと思っても、僕の体は自由にならなかった。焦るばかりで良い案も浮かばず、どうしたら良いのかパニックになる。
心臓が早鐘を打ち、嫌な汗が湧き出る。喉がカラカラに乾いて、悲鳴をあげたいのに掠れた声しか出なかった。震えが止まらず、瞳の奥がチクチク痛んで、涙が盛り上がってくる。
「ああ、泣くのか。孤児院育ちなんだろ? こんなことしょっちゅうだろうが。クッキーと引き換えに、お前の体を俺の好きにさせろ」
「……ひっ」
男の象徴を手のひらで撫でられ、ビクッと体が大きく震えた。
(孤児院育ちがなんだって言うんだ! ぼ、僕はこんなことしたことない! クッキーと引き換えだって、いや、だ。な、なんとか、なんとか、しないとっ)
吐き気を催す相手の行動に、自分自身を叱咤しても力の差は歴然で、どうにも出来ない。いやらしい笑みを浮かべながら見習い料理人の顔が近づいてくる。唇を引き結びどんなに首が苦しくても、一発頭突きをしてやると震える体に喝を入れる。
その時、大きな音をさせて扉が開いた。薄暗い部屋の中に希望の光が差したように感じた。見習い料理人越しに見たが、光が眩しくて目を細めてしまった。
「キンケイド侯爵令息様、下がってください」
誰かの声が聞こえて、ルーファスが来たのだと分かった。不意に体が自由になり、足の力が入らず床に座り込む。ドサッ、ドスッと音がしてそちらを見れば、見習い料理人が小部屋から投げ捨てられ厨房に転がっていた。
「な、何を……俺は、あいつに迫られて、い、痛い、やめ、やめてくれ、あいつがッ悪いんだッ」
見習い料理人が何か言っているが、ルーファスはその襟首を掴み、乱暴に振り回し壁にぶつけていた。その度に食器や料理道具が床に落ちて酷い音を立てている。
まるで人形を振り回しているように、ルーファスは見習い料理人を掴んでいた。その手を離して床に叩きつけると、口中で何か呟いている。
キラキラと光り輝くものが、ルーファスの手の中に現れた。青白く輝くそれがなんなのかわからないが、見ているだけで震えそうになる程のオーラを放っていた。
「お……俺は、悪く、ない……あいつが、あの孤児が……」
床に沈んだ見習い料理人が血走った目でサッシャを睨んでくる。
「言いたいことはそれだけか」
「ヒイッ」
「エッケザックス」
ルーファスはエッケザックスと呼ばれた浮かんでいる剣を手に取ると、床に転がって恐怖に震えている見習い料理人を見下ろす。その眼差しは冷たく、路傍の石を見るようだった。
「わ――っ! ローラント、ルーファスが乱心してる!」
「と、止めないと! えっと、鎮静剤、鎮静作用のある薬品は、あ――、出てこない。これは惚れ薬、こっちは媚薬、こっちは……」
「ルーファス、エッケザックスを出すな! こんなところで簡単に出して良い剣じゃないんだよ。お、落ち着け! その剣で存在ごと消そうとするんじゃない!」
ルーファスを止めようとするが、幼なじみたちはそばに近寄ることすら出来ないでいる。
「ルーファス、サッシャ君はどこだ? そんなモノに構う暇があれば、やることがあるだろう?」
慌てる幼なじみとは裏腹に、王子は落ち着いた声でまだ小部屋にへたり込んでいるサッシャを指す。
その途端にルーファスの意識は、見習い料理人からサッシャへ移った。そんなルーファスに対して、見習い料理人はまた言い訳を口に出す。
「ヒイッ! お、俺は悪くない、俺はあいつに、あの孤児に誘われたんだ。だ、だから……」
「ばか! せっかく意識をそらせたのに、火に油を注ぐな!」
「わ――、やめろよ。ルーファス!」
「サッシャ君、ルーファスを止めて!」
お願いと幼なじみたちが、扉の開いた小部屋にいるサッシャに声をかける。
「そいつ、消しちゃって、ルーファス」
「「「「!!!!!!!」」」」
幼なじみたちも王子もサッシャの言葉に声も出ないほど驚いていた。サッシャも自分がこんな冷たい声を出せるなんて思っていなかった。
「わ――っ! サッシャ君、きみの怒りはもっともだけど、ルーファスに手を汚させないで!」
「こいつは司法できっちり捌くから、お願いルーファスを止めて!」
「先生に質問しに行っても良いし、惚れ薬でも媚薬でもなんでも作るから、ルーファスを困った状態にしないでっ」
「サッシャ君!」
王子にもう一度名前を呼ばれた僕は、瞬きを繰り返して今の状況を確認する。見習い料理人にクッキーと引き換えに体を要求され、危うい時にルーファスに助けられた。
「やめて、ルーファス。剣をしまって」
ルーファスはサッシャから握りしめている剣に視線を落とし、そしてもう一度サッシャを見つめた。まるでそれが本当のサッシャの望みなのかと確認するようにじっと静かに心を見透かすように見つめている。
「僕、ルーファスにやめて欲しいって本当に思ってるよ」
ルーファスは再度サッシャに言われ剣を逆手に持つと、そろそろとその場から逃げ出そうとしていた見習い料理人の首元を掠るように床に突き刺す。ドンッ、と地響きをさせて突き刺さった剣に、見習い料理人は失禁していた。幼なじみたちは下がって、今度は騎士服を着た数人が見習い料理人を捕縛していた。
僕は感情が止まってしまったように、ぼんやりとそれを見ているしか出来なかった。
視界に影が出来て、顔を上げればルーファスが僕の前で背を屈める。
「……ぁ」
何か言わなくちゃと思うのに、舌が痺れたように動かない。それでもここにこのままいることは出来ないことくらいわかっている。僕は自分自身を叱咤して、立ちあがろうとした。けれど膝が震えてふらついてしまう。
「サッシャ……」
ルーファスがまるで宝物にように、僕の名前を呼んでくれる。それだけで全てが決壊した。力の入らない腕を必死で上げて、ルーファスに回す。酷い顔をしているだろうから、誰にも顔を見せたくなくてその胸に顔を埋めた。ルーファスはそれを許してくれそうな気がした。泣きたくなんてない。こんなことで負けたくなかった。
震えるばかりで何も言えないでいると、体がふわりと浮き上がる。
「後は任せていいか?」
ルーファスが誰かに何かを言っているのを遠くで聞きながら、抱きしめられた腕の中で力を抜く。
「おい、こんなあぶねーもん置いたまま任せるな!」
「片付けてから⋯⋯っ」
誰かの声が聞こえるが、僕の意識には残らない。ゆらゆらと揺れながらルーファスに運ばれていることだけがわかっていることだった。
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