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6話 悪役令息とヒロイン(♂)の涙
ルーファスに抱え上げられ、その腕の中で揺られていると、なんだか体の力が抜けてくる。僕は瞼を閉じて、ルーファスの腕に寄り掛かる。ルーファスはそんな僕を抱えたまま廊下を歩き、階段を上がり、建物の端っこへと向かう。
「サッシャ、鍵は?」
しばらく歩いた後、ようやくルーファスは僕に声をかけた。ぼんやりしたまま顔を上げ目を開けると、ルーファスの美しい真っ青な瞳がこちらを見つめている。
「かぎ?」
それはなんだろうかと思い、首を傾げる。ルーファスはそんな僕を見て、足で蹴ってドアを開けていた。軽いドアは簡単に開いてしまう。
「……壊れたら弁償しなくちゃならないんだから、丁寧に開けて」
「わかった。鍵が壊れているようだから、新しいドアをつけよう」
「え?」
部屋の鍵なんて最初から渡されていないが、他の部屋はついているのだろうか。まあ僕の部屋には盗られるような物は何も置いてないから、鍵なんてあってもなくても変わらない。
「鍵、壊れてたの? 僕、弁償とか出来ないんだけど」
学園を卒業して働き始めたら、お給料が出るだろうからそれまで待って貰えるだろうか。
部屋に入ったルーファスは、僕をそっとベットに降ろしてくれる。それから開きっぱなしのドアを閉めに離れてから、また戻ってきた。
「鍵は俺が直す。気にしなくていい」
「僕が壊したかもしれないのに?」
「一度も鍵をかけたことがないのに、壊せないだろう」
「それもそっか」
この時の僕はぽやぽやとしていて、話している内容の半分も理解出来ていなかった。ただ、早く一人になりたくて、ルーファスの動きをじっと目で追う。
「サッシャ、大丈……」
ルーファスの言葉が途中で止まったのは、きっと僕が大丈夫なわけがないと気がついたからなのだろう。僕はルーファスを安心させるように、ニコッと笑う。
「僕は平気だよ。ルーファス、助けてくれてありがとう。それに、ここまで運んでくれて」
「……ああ」
ルーファスは笑っている僕に手を伸ばしたが、途中でその手を止めた。触れることを僕が嫌がるかどうか確かめることすら躊躇するその動きに、ルーファスの優しさを感じる。
「僕は本当に大丈夫」
もう一度言えば、ルーファスはほっとしたように小さく息を吐き出した。その時、ドアがノックされる音が聞こえてきた。
「誰だろう……」
ほんの少し怯えた声になってしまった。しまったと思った時は、もうルーファスが僕を背に庇うように立ち、振り返ってドア越しに誰何する。
その声は僕には向けたことのない、冷たくて温度のない声だった。
「誰だ」
「……キンケイド侯爵令息様、第三王子殿下より温かいお茶をとのことで、お持ちいたしました」
廊下にいる人物は王子の指示で来たようだった。ルーファスは一度僕に視線を向けてからドアに近づき、薄く開けて何かを受け取っている。すぐにドアは閉められ、ルーファスがベッドに戻ってきた。
ベッドの横にある勉強机の上に、受け取った籐籠を置いた。籠の蓋を開けると、クッションに包まれたティーポットとカップが出てくる。ルーファスはテキパキとお茶を入れて、僕に差し出してくれた。
「あり、がとう……」
繊細な草花の描かれた真っ白なティーカップは、割ったらいくらいするんだろうと思うとじっくり見ることも出来ない。
でも入れられた紅茶はいい匂いがして、ソーサーを膝に置くと行儀は悪いだろうが両手でカップを持ってふうふうと息を吹きかけてから一口飲む。温かい液体が喉を通り、胃の中に落ちてそこから温かさが体に広がる。
ほっと息を吐き、湯気をたてるティーカップの中身を見つめながら、どうしてこんなことになってしまったのかと、ぐるぐると答えの出ない考えが回り始めた。
(あ、これ良くない兆候だ。頭、空っぽにしなきゃ……)
こんな風に決して答えが出ないことを考えるのは、精神衛生上忌避すべきことだ。僕はそれを経験上良く知っていた。前世だけど。
「ルーファス、お茶をありがとう。あの……」
もう帰っても大丈夫と言う前に、目の前に小さな皿が出された。そこには焼き菓子……、クッキーが乗っていた。絞った生地にドライフルーツとナッツが乗っている見た目も綺麗で可愛いクッキーだ。食欲はなかったが、差し出されるまま一つ摘んで食べれば、サクサクして香ばしく、甘くてとても美味しかった。
(これが普段ルーファスが食べてるクッキーかぁ……)
僕が作ったクッキーなんて、クッキーじゃない。ただ小麦粉とバターと卵、砂糖を混ぜて焼いただけの物だ。こんな美味しいクッキーを食べ慣れているルーファスが、僕のクッキーを美味しいと言ってくれたのは、優しさなのだろうと思う。
それなのに、お礼にまたクッキーを作ってあげようなんて烏滸がましいことを考えて、その所為でこんなことになってしまった。
「サッシャ?」
考え込んでしまった僕に心配げなルーファスの声が聞こえる。僕はにこやかに見えるよう唇を笑みの形にして答えた。
「このクッキーすごく美味しいよ。ルーファス、クッキー好きでしょ? 食べてみなよ」
「……」
ルーファスは僕と勉強机の上にあるクッキーの入った缶を見つめて、それから腕を伸ばしてそれを掴む。何故か眉間に皺を寄せながら、齧っている。
「美味しい?」
僕の問いにルーファスは首を横に振る。
「サッシャのクッキーが美味しい」
ルーファスは本当に優しい。僕が嬉しくなる言葉をいつだってくれる。今日、ルーファスは寮の部屋に戻って外に出ないでくれと言っていた。その約束を破って、厨房に行ったからこんなことになったのに、責めるような事は一言だって口にしない。
あの見習い料理人は、僕が誘ったとか言っていたのに、一瞬だってそれを信じなかった。僕のことを、信じてくれていた。
この件で僕が悪いなんて全く思わないけれど、それでもルーファスに迷惑をかけてしまったと思う。
右手で摘んでいたクッキーの残りを口に放り込み、左手に持っていたカップから紅茶をごくごくと飲み干す。ふう、と肩で息を吐いてから、僕はカップをソーサーに戻して手に持つとベッドから立ち上がる。床に足が着いた途端、少し揺れてしまったが、もう足は震えていなかった。元気になれたのは、全部ルーファスのおかげだ。
「紅茶とクッキーをありがとう。あ、そうだ」
僕はカップとソーサーを勉強机に置く。そしてポケットを探って、昨日ルーファスに借りたハンカチを取り出した。きちんと手洗いしてアイロンもかけて、ピカピカのハンカチだ。
「昨日借りたハンカチ、ちゃんと洗ったから大丈夫だと思う」
綺麗なハンカチは肌触りもよく、高価な物なのだろう。涙を拭いてくれた時、少しもざらついたりせず、柔らかで肌に優しかった。
「ありがとう、ルーファス」
「……」
ルーファスはじっとハンカチを見つめていて、その後、ゆっくりと僕の手からハンカチを受け取ってくれた。
「もう泣かないか?」
静かな声だった。
「……泣かないよ」
声が震えないようにするので精一杯で、それ以上何も言えない。
「これは?」
ルーファスの手が伸びて、目の下の濡れた場所を指の腹で拭ってくれる。
「泣いてない!」
「ああ、そうだな」
ルーファスは一歩僕に近づいて、後頭部に手を回して引き寄せた。温かいルーファスの体に包まれて、抱き締められたら嗚咽が漏れる。
「……っ」
ゆっくりと背を撫でられる。優しくて温かくて、ルーファスの腕の中はとても安心出来た。ひと撫でごとに手が触れている場所から温もりが染み込んで、冷えた心を温めてくれる。おずおずと腕を伸ばしてしがみつくように、ルーファスの体を抱きしめた。
ますます強く抱きしめられ、僕は涙が決壊したように、ルーファスの服をびしょ濡れにしたのだった。
気まずい。
とんでもなく気まずい気分で、僕はちらりとルーファスに視線を向ける。
すぐに気がつかれ、なんだ? というように視線を返されたから、愛想笑いを浮かべた。僕の手には先ほど返したはずのハンカチが握られている。涙と鼻水に濡れているので、また洗ってアイロンをかけなければならない。
(……まずい、こんなんじゃ、ヒロイン(♂)たる僕の沽券にかかわる)
優しく気弱なヒロイン(♂)とは違い、僕は天真爛漫で物怖じしないきゃるるんヒロイン(♂)だ。ゲームではその明るさに、王子や幼なじみたちも惹かれている。
ちょっと見習い料理人に触られたくらいで、悪役令息のルーファスに抱きついて、わんわん泣くとは何事か。気合を入れる為に、僕は泣いて赤くなった頬を両手で叩く。
「……あれ?」
ぎゅっと目を閉じて力一杯叩いたはずなのに、両手は顔の表面に浮かんでいるだけで、頬に触れてもいない。そおっと目を開けると、ルーファスの手が僕の手首を掴んでいた。
「サッシャ、何をするつもりだ?」
「え? 喝を入れようと、思って……」
ルーファスの雰囲気が今までと全く違い、怖く感じる。
「昨日も言ったが、何かを殴りたくなったら、自分の顔ではなく俺の顔を殴れ」
「……昨日も言ったと思うけど、その顔を殴るとか正気? 世界の宝が損失するって言っただろーが!」
「サッシャが、自分の顔を殴るなら、俺も俺の顔を殴る」
「!」
そんな脅しある? とハンカチを握りしめながら目を見開いていると、ルーファスは身を屈めて静かに顔を近づけてくる。至近距離で見るルーファスの整った容貌は、破壊力抜群だ。目が潰れるなんてものじゃない。魂すら昇華してしまいそうなくらい美しい。語彙力のない僕には無理だが、吟遊詩人がまだ幼いルーファスを見て、詩を誦んじたという噂は本当なんじゃないかと思う。
「サッシャ」
耳に響く声は、甘く蕩けてしまいそうなほどの優しさが込められているように感じ、僕は勘違いしないようにごくんと唾を飲み込む。何か言葉を発しようと思うが、何も思い浮かばず、ただルーファスの美しい顔を見つめるだけだ。
(ま、まさか……)
「少し赤くなってるな。冷やした方が良いだろうが……」
「そっちか~~ッ、いやわかってた。そーだよな! そうに決まってる!」
まさかルーファスが僕にキスしようしていると誤解するなんて、僕はなんてバカなんだ。思わず立ち上がって叫んでしまった。
「サッシャ?」
「うん。もう大丈夫。本当に大丈夫だから!」
「……ああ」
「ルーファス、このハンカチ、また貸してくれない? 洗って返すから。それからクッキーを包んでいた僕のハンカチどうなったか知らない? 流石の僕でも王子に直接は聞けなくてさあ。あ、捨てたんなら、それはそれでいいんだけど……」
クッキーを包むためのハンカチは食べ物を包むために念入りに洗ってアイロンをかけ、殺菌したつもりだ。そしてあのハンカチは手持ちのハンカチの中で、一番見栄えが良く新しいものだった。
無くなってしまったのなら仕方ないが、ハンカチはあれを含めて三枚しか持ってなかったので、これからは一日ごとに交互に使うことになるが仕方ない。
「……ハンカチは、なくしてしまった。それでこれを……」
ルーファスはボケットから、真っ白なハンカチを取り出して僕に差し出す。
「え? 受け取れないよ」
あのハンカチはクッキーを包んでいた。物を包む包装紙と同じだ。人にあげた物なのだから、無くしたからと言ってルーファスからハンカチを貰うのはちょっと違う。ルーファスは受け取らない僕を見て、ハンカチを見て、そして口を開いた。
「キンケイド家では、人の物を無くしたら、同等かそれ以上の物を贈るという、家訓があって、俺がサッシャのハンカチを無くしたので、サッシャがこのハンカチを受け取ってくれないと、とても困ったことになる」
「困ったことって?」
「……」
言いづらいのか、それとも口先だけの言い訳なのかわからないが、ルーファスは僕にこれを貰って欲しいらしい。
「わかった。ハンカチは貰う! ありがとう!」
あからさまにホッとしたルーファスを見て、僕はやっと心から笑えた。柔らかな肌触りのハンカチは縁に刺繍がしてあって、とても綺麗だった。
「ルーファス、この刺繍って意味ある?」
「……特にない」
「あ、そーなんだ。綺麗なハンカチをありがとう。大切に使うね」
頷いたルーファスは、ほんの少し目を細めて嬉しそうだ。本当にルーファスが来てくれて良かった。
「あれ? なんでルーファスはともかく、王子たちも寮に来たの?」
先ほどあまり気にしていなかったが、厨房には王子と幼なじみたちも来ていたように思える。他にも騎士服を来た人達が何人かいた。
「……厨房で不正が行われていた」
「不正?」
「ああ。すでに料理人たちは捕縛している。だが心配しなくても今日から新しい料理人を手配しているので寮生の食事は大丈夫だ」
後日、厨房の料理人三名は、寮生の食費を横領していたとして捕縛されたと聞いた。また、横領に関わっていなかったが、見習い料理人はここに来た当初から平民で弱い立場にいた寮生に対して強姦や暴力を振るっていたとして、罪を問われ鉱山での使役となったらしい。……僕はかなり後になってそれを知った。
「そーなんだ。今度の料理人さん、僕にクッキーの材料分けてくれるといーんだけど」
「作りたかったら俺に言えと伝えた筈だ」
「ルーファスに言ったら、内緒でプレゼント出来ないじゃん」
「プレゼント?」
「そ。助けてくれたお礼。クッキー、好きなんでしょ」
「好きだ」
目を細め、唇を緩めたルーファスのその表情は、まるで微笑んでいるように見えた。すぐに消えてしまったが、きっとこれは貴重な表情だろう。
(ルーファスの笑った顔、初めて見た……それに、クッキーのことだけど、好きって言われるの心臓に悪い)
こっそりため息をついた僕は、気を取り直してルーファスに向き直る。
「じゃあ、お礼に作るね」
「ああ、だが、厨房には俺から声を掛けておく」
「え?」
なんで? という表情が出ていたのだろう。ルーファスはちゃんと説明してくれた。
「今日から俺もこの寮に住む」
「は?」
「今日から……」
「いや、そこはわかった。わかったけど、なんで? ルーファスは、王都にちゃんと家があるよね?」
高位貴族であるキンケイド家は、王都の王城近くに別邸を構えている。ここから少し離れているが、それでも馬車で通うことは可能だ。ほとんどの高位貴族はそうしていて、寮に住んでいるのは王都に屋敷のない貴族子息か、通うには大変な商人の子どもや、サッシャのように特待生で入ってきたものだ。要するに通うためのお金がない、または勿体ないと思っている。
「悪役令息としての振る舞い方が、まだ未熟だ。サッシャの近くにいた方が良いと思った」
「……ッ!」
悪役令息になることをこんなに真剣に考えてくれるなんて、ルーファスはなんて優しい奴なんだろうと僕は感動する。
「ありがとう、ルーファス! それじゃ、今から悪役令息たる者の行動をふたりでやってみよう!」
変わり身が早いと言われようと、僕にとっては死活問題だ。
僕はベッドの前に立ち、ルーファスを見上げる。先ほどまでの訳のわからない雰囲気を払拭するべく、僕は腰に手を当てた。気分を変えて、さあ、悪役令息たるべき行動についてルーファスに伝授しなければならない。
やっぱり王子との恋が進むためには、ルーファスが悪役令息になり、いじめられているヒロイン(♂)の僕を王子が庇い禁じられた恋に身を焦がす、というストーリが必要だ。ルーファスは噂通りの公正明大、清廉潔白な雰囲気がするから、そこから変えていかねば。
「ちょっとベッドに座ってて」
身長差があるため、僕が見本を見せるにはルーファスには座ってもらわないとダメだった。ルーファスの前に立ち、顎を上げて斜め十五度を保つ。見下すように視線を下げてから、ルーファスにこの動きの意味を説明した。
「ゲームの中で悪役令息がやって動きだよ。胸を張って、顎を上げ、斜め十五度。尊大に見えるように鼻で笑って、『下民め』……さあ、やってみて」
ゲームのスチルで見た事がある悪役令息のルーファスは、美しい顔を嫉妬に歪めながら、ヒロイン(♂)を見下していた。
ルーファスが立ち上がり、僕をベッドに座らせると先ほど僕がやって見せたように顎を上げた。見下される視線、さらりと揺れる黒髪、吐息のひとつまでも目が奪われる。
「下民め」
麗しい声と、暴力的なまでの美貌も相まって、その一言は凄まじかった。
「きゃ――――ッ! ルーファス、最っ高!」
まるで悪役令息になるべく生まれたようなルーファスの存在に、僕は歓声を上げる。
これだよこれ、これが僕が求めてやまない悪役令息だ。
「ルーファス、次は……」
僕は理想的な悪役令息の姿にうっとりして、厨房でルーファスが持っていた剣のことや、侯爵令息が学園の寮に住むことの重大さを理解していなかった。
そして、ルーファスが僕の部屋の場所を知っていたことさえ、長く気づかなかった。
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