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8話 悪役令息と隣国の留学生
ニーラサ王立学園の学生寮の朝食の席に高位貴族令息であるルーファス・キンケイドがいる。それだけで寮の食堂は水を打ったように静かだ。大きく取られた窓からそそぐ陽光に照らされて、ルーファスの美貌は光り輝いているように眩しく見える。
「サッシャ、このフレンチトーストは料理人のオススメらしい」
「う、うん、うまいよ、ルーファスも食べなよ……じゃなかった。……ええ、とても美味ですね。キンケイド侯爵令息様、お座りになってお召し上がりになっては如何ですか?」
いつものよう食堂の端っこに座っている僕の傍にルーファスは来て、あれこれ世話を焼いている。その姿を見て、寮生たちはざわめいていた。しかし、ルーファスがちらりと視線を向けると、何事も無かったかのように静まり返るのだ。
居た堪れない。
平民で孤児の僕に傅く侯爵令息とかありえないだろ! と叫びたいがここは寮生の目がある。外面を装備して対応すれば、ルーファスは不満気な眼差しを向けてきた。
「キンケイド侯爵令息?」
ルーファスの視線は、それは誰のことだ? と聞いていたので、僕はすぐさまもう一度その名を呼んでやる。
「キンケイド侯爵令息様」
「名前……」
「キンケイド侯爵令息様、座って、朝食を、召し上がりください」
一言ずつ区切って伝えれば、ルーファスも僕が以前人前ではこの呼び方をすると思い出したのか、素直に隣の席に着く。この食堂では、学園と同じように生徒が並んで、好きなものを頼んでいくスタイルだ。ルーファスもすでに朝食を選んで、テーブルに置いていた。
「スープ冷めちゃったんじゃない? ……じゃなくて、スープが冷めてしまいましたね。僕が入れ替えて来ましょうか」
「……いや、これで構わない」
ルーファスは美しい所作でスプーンを手に取り、スープを口に運ぶ。
いつもはざわめいている食堂で、寮生たちはルーファスの食事をする姿を凝視している。
(……早く食べないと遅刻するのにな)
かなりの量の食事を黙々と口に運ぶルーファスから、目が離せない気持ちはわかる。普通ならこんな高位貴族の令息が、一緒に食卓を囲むことなど有り得ないから、見慣れないのだ。
「サッシャ、人参は嫌いか?」
「……」
「サッシャ?」
無視したのにルーファスはもう一度声をかけてきた。僕は、人参が嫌いだ。好き嫌いをしてはいけないという孤児院の教えをもってしても、それは克服出来なかった。
シチューの中に少し入っているくらいなら我慢して食べるが、サラダの主賓みたいに存在を主張している生の人参には全面的に降参するしかない。
「もう大きくならなくても良いので」
孤児院で人参を残すとよく、大きくなれませんよ、と言われた。なので、僕はこう返すのだ。本当はもう少し身長が欲しいと思ってるが、それを諦めても人参は食べたくない。孤児院を出て、うるさく言われることがなくなったと思ったのに、とため息が出そうになる。
「……」
ルーファスは皿の端に避けていた人参をフォークで器用にすくうと、自分の口に入れた。
「サッシャの代わりに、俺が大きくなる」
「……何言ってんの、ルーファス……じゃなかった。何を仰っているのかわかりません」
僕たちが食事をしている周囲のテーブルには寮生は座っていないので、ふたりが小声で話せば誰にも聞こえない。それでも僕は用心のために敬語で話し続けた。でも唇が笑みの形になるのは、抑えられなかった。ルーファスにからかわれて、そして甘やかされているような気がする。
「……ルーファス、人参食べられるの?」
僕が体を寄せるとルーファスも体を傾けてくれた。耳元に口を近づけさらに小声で問えば、もちろんと頷かれた。
「これから出る人参は全部食べてくれる?」
「サッシャが望むなら」
甘えた声を出せば、嬉しそうな返事が返ってきたので、僕は厳しくダメ出しする。
「ダメじゃん。悪役令息なら、ヒロイン(♂)に人参も食べられないなんて、王子に全く相応しくないって罵るレベルだよ」
「……今はやらなくて良いだろう」
王子のいない寮内で悪役令息をやる必要はないだろうと、ルーファスは拗ねたような物言いをする。公平明大、清廉潔白な侯爵令息のルーファスがまるで自分に甘えているようで、僕はなんだか楽しい気分になる。
「まあね。でも、昨日練習したみたいに、今日は王子の前で悪役令息をやってね」
「わかった」
ルーファスは自分のメインの皿に置いていたハムをフォークで刺して、僕の口元に運んできた。
僕はそれを綺麗に無視して、自分の前に置いている皿から卵料理をすくって口に入れる。
寮の朝食は、昨日までと全然違っていた。硬いパンと、ほとんど具のないスープ、そして固茹でされた卵が一個の朝食から、新鮮な野菜のサラダに、具沢山のスープ、柔らかなパンにメインは卵を使ったスクランブルエッグとオムレツのどちらかを選べた。オムレツの中にはベーコンと根野菜が入っている。なんでそれを知っているかというと、今、まさに今、僕はそれを食べているからだ。
濃厚な卵と噛み応えのある根野菜とベーコンの味が混ざって得も言われぬ味わいがする。
「サッシャ……」
食事の美味しさに自然に笑みが浮かんでいた。ルーファスはフォークを宙に浮かせたまま、待て状態でいる。
「何でしょうか、キンケイド侯爵令息様」
「このハムは嫌いか?」
「僕の皿を見て。ちゃんと入ってるよ」
「だが、一枚しかない」
朝食は自分で量を調節出来るから、僕はハムを一枚しか取らなかった。だって、メインはとろけるオムレツだ。スープも具沢山だし、朝食を食べた後は学校へ行くのだ。お腹いっぱいすぎて、眠くなっては大変だ。
そう思っていたのに、打ちひしがれた犬のようになっているルーファスを見ると仕方ないなと思う。
「もう、他は自分で食べてよねっ」
小声でそう言うとフォークに刺さっているハムを身を乗り出して口にすると、一瞬周囲がシンと静まり返る。そして次の瞬間、椅子を立って大勢の寮生が食堂を出ていくのが見えた。
残っているのは遠くの席にいる寮生のみで、近くに座っていた寮生は軒並みいなくなった。
「……こんなに美味しい朝ご飯、みんな食べないのかな」
ジューシーなハムを咀嚼してから飲み込み、周囲からいなくなった寮生に疑問を浮かべる。
「もっと食べるか?」
「僕は自分の皿にあるものを食べます! それよりキンケイド侯爵令息様も早く食べないと、学園に遅刻いたしますよ」
「……」
「何?」
じっと見つめているルーファスに、何か言いたいことがあるのかと問えば、そっと皿の中身を指された。
「ハムを食べたい」
「まだあそこの大皿に残っているのではないでしょうか。取ってきましょうか?」
そう言って僕は皿にある最後の一枚であるハムをフォークで刺す。少しハーブの効いたハムはとても美味しい。こんな美味しいタンパク質なんて久しぶりだ。休日の朝食は少し無理をしてもお腹いっぱい食べてしまおうと決める。
「サッシャ……」
「もー、キンケイド侯爵令息様は仕方ありませんね。寮の食堂でだけ、ですからね!」
食べようと思っていたハムを差し出せば、嬉しそうにフォークに口をつけた。初めて出会った頃は、綺麗な顔の表情が動かなくて、さすが悪役令息の顔面偏差値だ、そこらの貴族と違う、と思ったものだった。
今はなんとなくルーファスの感情がわかってきたように思える。
「はい」
ルーファスの少し薄い唇からフォークを引き抜けば、美味しそうに食べていた。僕はそんな様子を見ながらどこか温かい気持ちになりながら、食事を続ける。美味しい食事が昨日から食べられて本当に幸せだ。学園に通えるようになって勉強が出来るだけでも幸せだったのに、今は美味しいご飯も食べられる。頼んでいる昼食だってきっと美味しいだろう。
パンをちぎり、サラダを食べ、スープを飲み、最後のオムレツを口に入れると、幸せいっぱいな気分で食べ終わる。空いた皿を片付けるために立ち上がれば、ルーファスも同じようについてくる。
「キンケイド侯爵令息様、従僕は連れてこられなかったのですか?」
この寮には遠方の領地があり、けれど王都に屋敷を構えていない、または通うのがめんどくさいという貴族令息もいる。その為、令息の世話をする従僕がついてくるのを許されているのだ。淑女たる女子寮の方は知らない。
「……必要ないと置いてきた」
「そうなのですか?」
「ああ」
僕は声を潜めてルーファスに問い掛ける。
「お貴族様って一人じゃ服を着られないって本当?」
「俺は着られる」
「そうですか。普段のルーファス様の着こなしと、本日の着こなしは少し変わっている様ですね。……ネクタイが、今日はちょっと歪んでおります」
返却口にトレーを返すと、ルーファスも同じように置く。僕はルーファスに向き直って、その場でネクタイを綺麗に結び直してやった。食堂へ行く前に部屋へ迎えにきてくれた時から、気になっていたのだ。
制服のネクタイの歪みを直した僕は、出入り口で重ねて置いてある弁当を配っている料理人の前に並ぶ。
「昨日の夕食も美味しかったけど、朝食も美味しかったです。ありがとうございます」
きっとこのお昼のお弁当も美味しいに決まってる。僕は嬉しくて料理人に礼を言って、お昼が入っているお弁当を貰う。前世はあまり食べることに興味がなかった。明日を生きることにも興味がなかったように思う。
でも今は、美味しいものを食べると嬉しくて、わからないことが理解出来ると楽しくなる。生きているのが楽しくて仕方ない。健康な体ひとつで僕は幸せだ。
「そう言っていただいて光栄です。ルーファス様、今朝のお食事はご満足いただけましたでしょうか」
料理人がわざわざ聞いてきたのに、ルーファスは弁当を受け取ってコクっと頷くだけだ。それだけでもその料理人はすごく嬉しそうにしていた。
僕たちは並んで食堂を出てから、三階にある部屋へ戻る。学園に行くための荷物を取りに行くのだ。人気のない廊下を二人並んで歩く。
誰もいないと思うと、気が抜けてしまう。いや、ルーファスの前だと抜けてしまうような気がする。
「そういえば、僕の隣の部屋って住めるような部屋だった?」
「大丈夫だ」
「そっか。ここに入る前に、隣りは雨漏りがするから入れない部屋だって聞いてたけど、勘違いしちゃってたな。ルーファス……キンケイド侯爵令息様、出掛ける準備をお手伝いいたしましょうか?」
危ない。ここは人気はないけれど、誰もいないわけじゃない。ちゃんと高位貴族令息と話すような言葉使いに変更しなければならない。先ほどの食堂でも気を抜いてしまっていた。
「必要ない」
三階にはあまり寮生がいない。廊下側は窓が並び、陽の光がそこから注いでいた。陽光の中に佇むルーファスは、眩しくて目を細めるくらい美しい。黒髪には天使の輪が出来、空の色をした潤んだ瞳もキラキラ輝いていた。
(王子もイケメンだけど、ルーファスはその更に上を行くなー……)
少し日に焼けた肌は艶やかで、匂い立つような色気もある。BLゲームの制作陣が悪役令息を輝かせようとこれでもかっ! と詰め込んだ美の結晶のようだ。その要素をもう少し自分にもわけてくれたら、王子との恋も少しは進んだだろうか。
「サッシャ?」
「あ、なんでもないよ。それじゃ、荷物取ってくるから、ルーファスも……」
「やあ、おはよう……」
カバン取ってきたら、という前に挨拶の声が聞こえる。僕はルーファスの後ろに顔を出して、その相手を見つけた。
「おはようございます。ナイジェル様」
丁寧に腰を折り、挨拶を返せば大きな欠伸で迎えられた。
「ナイジェル様、また徹夜されたのですか? 朝食の時間はもうすぐ終了となりますので、早く向かわれた方がよろしいかと」
「うーん……起きたばかりで今はまだ食べる気がしないけど、後でお腹はすくかなあ。でもここの食事美味しくないんだよね」
この寮生は同じ三階に住んでいる、隣国からの留学生だと聞いている。ナイジェル・ヴィーという名で、一学年上だった。褐色の肌、短い黒い髪、二メートル近い長身の美丈夫だ。本を読むのが好きで、よく徹夜をしていると聞く。サッシャに図書館の場所を教えてくれたのもこの人物だった。
「昨日のご夕食を召し上がりにならなかったのですか? 今までとは比べ物にならないくらい美味でしたのに」
昨夜の夕食の衝撃は、前世を思い出した時に匹敵する。何の肉かわからないが柔らかな肉のソテーは芳醇なソースがかかっていて何皿でも食べられそうだったし、デザートは甘くて幸せの味がした。
転生して好きな物を食べられる健康的な体になったのに、孤児院では食べたいものは食べれなかったので、昨日の夜は夢じゃないかと思ったくらいだ。
あんなに美味しい夕食を食べていないのかと思うと、ナイジェルが可哀想になる。そして手の中にあるお弁当を思い出した。ここにはきっととっても美味しい昼食……、サンドウィッチが入っている。お昼に食べるのを楽しみにしていたけれど、空腹な隣人……同じ階に住んでいるだけで、正確には隣の部屋ではないが会えば軽く会話するナイジェルに渡しても良いのではないか。
「ナイジェル様、よろしければこちらをお召し上がりください。先日お貸し頂いた本のお礼です」
「……それはきみのお昼じゃないのかい?」
差し出したお弁当を見て、ナイジェルは眠気が覚めたように目が瞬く。
「僕は先程、いつもより沢山朝食を頂戴いたしました。昼は学園の食堂へ参りますので、遠慮せずどうぞ」
昼に食堂へ行くお金なんて持ってないけど、こう言えば受け取ってくれるだろうという目論見だ。
「それじゃあ、遠慮なく」
けれど、ナイジェルへ渡そうとしたお弁当は、ルーファスに遮られた。
「こっちを食え」
僕が差し出した弁当はルーファスが身を乗り出して遮り、自分が持っていた分をナイジェルの腹に押しつけている。
「ルーファス……キンケイド侯爵令息様!」
「ありがとう、かな? えーっと、きみは誰? この寮にきみみたいな高位貴族令息はいなかったと思うけど」
一目で高位貴族令息とわかるくらい、ルーファスの見た目は寮生と違っている。手入れの行き届いた髪や肌、身につけている物、所作などだ。
「あ、申し訳ありません。昨日寮に入られました、ルーファス・キンケイド侯爵令息様でございます。……僕と同じクラスなので、よろしくお願いいたします」
「へぇ、昨日、ね。部屋はどこ?」
「ええ、そうなのです。僕の隣の部屋に」
「隣……」
「どうかなさいましたか?」
「いや昨日は学園を自主休講して昼寝……、じゃなくて、体調が思わしくなくて休んでたんだけど、そう言えば大きな音が響いてたけど、荷物を運び込む音だったんだね」
「ナイジェル様、また学園を無断欠席なされたのですか? いけません、特待生は国の支援がありこの学園に通えるのですよ。勉学に勤しむのが礼儀というものです。僕たちはこの国の、民の血税でここにいることが出来るのです」
僕は前世、学校にほとんど行けなかった。義務教育もろくに受けていないが、血縁上の父親が病院へ家庭教師を派遣してくれたので、ある程度の学力を持つことができたのだ。病院の先生や看護師、それに家庭教師から僕はいろんなことを教えて貰った。
漫画やアニメは勉強用にと携帯端末が渡されたことで一気にのめりこんだ。さっきナイジェルに言った言葉は、その受け売りだ。けれど、実際自分がここで学ぶことになって、国がサッシャ・ガードナーという存在の未来に対して、期待しているのを感じた。特待生制度はそのための先行投資だ。
「サッシャは真面目だなあ。わかったよ、今日は出席する」
「毎日、通学してください。それから目の下のクマが酷いです。タオルを温めて目に乗せると少しは改善しますよ。僕が持ってきま……んぐっ」
最後まで言えなかったのはルーファスが僕の口を手のひらで押さえたからだ。文句を言おうとしたが、押さえていて声がくぐもってしまう。
(離せ――っ!)
「むぐぐ――!」
「昨日休んで昼寝をしていたのなら、十分目は休まっているだろう。後は自己責任だ」
口どころか腰にも腕を回され、抱え上げるように引き寄せられる。温かくて大きな体に包まれ、僕はドキドキする心臓を押さえることも出来ない。
(な、なんでっ!?)
「弁当をくれてやったんだ。失せろ」
ルーファスの乱暴な物言いを聞き、僕は心底驚いてしまう。高位貴族令息の言葉使いとかなんとかより、あの、ルーファスが、まるで悪役令息のように、特待生に高飛車に言い放っている。
けれどナイジェルは全く気にした素振りも見せず、僕にウィンクすると弁当を持っている方の手を振る。
「はいはい。お邪魔虫は退散するかな。またね、サッシャ」
「むぐっ」
何か言おうとしても、ルーファスの手が邪魔で何も言えない。むーむーとうなり声を上げても、腰に回したルーファスの腕が強くなるだけで、外れそうもない。
そんな僕を助けるでもなく、ナイジェルは弁当を振りながら自分の部屋に戻っていった。
ナイジェルの姿が見えなくなると、ルーファスはやっと僕の口から手を退けてくれた。
「ぷはっ……ルーファス、なにするんだ!」
「髪が乱れてる」
腰に巻かれた腕も外れたのでルーファスに向きなおれば、そんなことを言いながら僕のいうことを聞かない乱れた髪を優しく撫でてくれる。いやそうじゃない。綺麗に梳かしつけていた髪を乱したのは、ルーファスだ。
「僕の髪を乱したのは、ルーファスだろ!」
「そうだな」
僕は怒っているのに、ルーファスはなんだか嬉しそうに髪を撫で続けていた。
「ルーファス、僕は怒ってるんだよ!」
「うん」
「もう、どうして笑ってんのさ!」
そこでルーファスは手を止めて、自分の顔を撫でた。
「笑っていたか?」
「笑ってたと、思うけど……」
そうか、と言ってルーファスは、僕の部屋のドアを開けてくれる。現実で見たことはないけれど、物語の中で描かれるエスコートされる令嬢のようだ。
最初から怒ってなんていなかったけれど、思わず笑ってしまい怒っているポーズすら崩れてしまう。
「ぷっ……あはは、ルーファスありがと」
「どういたしまして」
ルーファスは僕を部屋に促すと、静かにドアを閉めて部屋を出て行こうとしていた。本当に自分を部屋に入れる為だけにドアを開けてくれたらしい。ルーファスの大きな手が頬を撫でるように差し入れられ髪を流していく。
「荷物を取ったら戻ってくる。それまで誰が来ても、ドアを開けないでくれ」
「へ?」
「俺が来るまで、誰にもドアを開けないで欲しい」
「う、うん。わかった」
ルーファスがこの部屋で待っていて欲しいと願っているのなら、それを叶えてあげたい。僕は頷いてから「後でね」と答える。静かにドアが閉まり、僕はふらつきながら胸を押さえてベッドに寝転がった。ころんとお弁当がベッドに転がっているのを見ても、慌てることも出来ないくらいルーファスの行動に振り回されていた。
(なに、あれ?)
切ない声音で請われて、否なんて言えるはずがない。これからルーファスは自分を迎えにきて、そして部屋のドアをノックしてくれる。僕はハッとしてベッドから起き上がり、窓ガラスを見て手櫛で髪を梳かす。ふわふわでまとまりのない髪だが、なんとか収まった。教科書の入った鞄にお弁当を突っ込み持ち上げるとノックの音が響いた。
僕は急いでドアのところに行くと、「はい」と返事をした。
「サッシャ、俺だ」
ドアを開けるとルーファスがちゃんと立っていた。麗しい高位貴族令息然とした姿で、空の色をした瞳を細め、僕を見つめている。
「ルーファス!」
部屋を出てドアを閉める。
「昼間に、ドアを付け替える。誰も入らないように警備の者を置いているから心配しなくていい」
「警備? そんなのいらないよ。僕の部屋にあるの、着古した寝巻きくらいだよ。わざわざ盗むようなもの何にも置いてないから、平気」
「……そうか」
ルーファスは不満というような声をしていたが、反対はしなかった。この部屋に置いているものはほとんど学園に入学することが決まって国から支給されたものばかりだ。貴族令息は部屋のベッドや家具を入れ替えをするらしいが、僕は備え付けのもの利用している。それでも孤児院で共同で使っていたものに比べたら雲泥の差だ。
「それより、今日こそ昨日の練習の成果を発揮してよね」
「……わかった」
「本当かなあ? じゃあ今、僕を見下すような目で見てみて!」
「……こうか?」
ルーファスは僕に向かって色っぽい流し目をくれた。
「ちがーう! そうじゃないでしょ、ルーファス! 僕が昨日なんて言ったか覚えてる!?」
「……胸を張って、顎を上げ、斜め十五度。尊大に見えるように鼻で笑って、『下民め』……こうか?」
「うーん。もうちょっと何かが足りない気がするけど、いきなり完璧には出来ないしね。まあまあいいよ。その調子で頑張っていこう!」
「ああ」
ルーファスと一緒に三階の廊下まで廊下を歩く。それから僕は気合を入れ直した。僕ことヒロイン(♂)が馴れ馴れしくするのは、攻略対象者である王子にだけだ。人目がある時は、王子以外には外面対応をしなければならない。
僕は孤児院出身なので、それは処世術みたいなものだった。敬語で丁寧に接すれば、大抵敵を作らない。学園に通い、恋をして、そして未来で幸せに生きていくために王城の文官になるのだ。
今度こそたくさんの経験をして、いっぱい楽しいことがある人生を生きたい。
BLゲームのヒロイン(♂)に転生したのだから、悪役令息さえちゃんと僕をいじめてくれたら、王子と恋が出来るしそのあとも幸せになれると僕はこの時まで信じていた。
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