10 / 21
9話 悪役令息は食事より会話を楽しむ
昨日と同じように午前の授業が終わると、僕は王子やルーファスに促され、中庭の東屋に来ていた。どこか居心地の悪さを感じていても、これはイベントが進んだ証拠だと前向きに考える。王子の隣をキープして席に座ると、僕の反対の隣にはルーファスが腰掛けた。
出来れば王子を挟んで座るのがベストだと思うが、まあここでも良いだろうと無理やり納得する。
それに今日は新しい料理人が作った、楽しみなお弁当がある。丸いテーブルの上に恭しくそれを置くと、途端にルーファスにそれを取られた。
「ちょ……っ!?」
「これが新しい料理人が作ったものか?」
「ああ。夕食も朝食も問題はなかった。臨時予算が降りたら、もう少しマシになるだろう」
ルーファスは王子から問い掛けられ、弁当の包みを開けながら答える。お弁当サイズの籐籠には色とりどりのサンドウィッチが入っていた。香ばしいパンの香りと新鮮な野菜、それにあれは多分ローストビーフだ。
「あのぅ、僕のお弁当ですが、何かありましたかぁ?」
美味しそうなお弁当を勝手に開けられ、サンドウィッチは王子とルーファス、そして幼なじみたちの口に消えていた。
(あああああ……っ)
僕のお昼がパンのカスを残して消えていくのを、黙って見ているしかない屈辱をわかって貰えるだろうか。食べ物の恨み怖いんだぞ! と口に出せないが、考えてしまう。空になった弁当箱を悲しく思いながら、ため息をつくのを我慢していると王子に話しかけられた。
「サッシャ君には重要な仕事を任せたい」
「はい! 僕に何なりとお任せくださいっ!」
王子に何かを頼まれるなんてイエス、か、はい、か、喜んで! しかない。
「しばらくの間、寮で出されるお弁当を持ってきて欲しい」
「イエッサー……じゃなかった。喜んでお持ちいたしますぅ。数は五人分でよろしいでしょうか?」
寮のお弁当の美味しさに食べたくなったのなら、人数分用意すれば僕の口にも入るだろう。しかし、王子の答えは違った。
「きみの分をリースが味見することになる。まあ、新しい料理人はルーファスが手配したから心配はしていないが、前例があるからしばらくは監視を入れないとね」
捕縛された料理人たちは不正をしていたと聞いたし、料理の質も悪かったと聞いた。新しい料理人はそのとばっちりに監視を受けることになるのかと少しかわいそうに思うが、僕には王子の頼みを断ることが出来ないので仕方ない。
「僕の分ですね。承知いたしましたぁ!」
王子に媚びた声で承諾を伝えながら、さて、僕のお昼はどうやって工面しようかと考えていると、目の前にスープの皿が供される。
「?」
顔を上げて見れば、いつの間にか王子の侍従がテーブルに昼食を並べていた。
「あのぅ、僕は……」
「サッシャの昼は俺たちと一緒だ」
「そうそう。寮の弁当は品質を調べるために俺が食うし」
「本来は生徒会の仕事なんだから、お弁当を運んでくるサッシャ君がここで食べるのは当たり前だよー」
「学園運営の為に努力するのが生徒会だし、その手伝いをするんだから、ここで一緒に食べましょうね。」
ここでサッシャが食事をするのは当たり前だと、ルーファスと幼なじみたちが色々説明してくれる。
「……そうだ。わたしたちは食事より会話を楽しむのだが、それでも良いだろうか?」
「はい。僕もお喋りは好きですぅ」
昨日王子に毎日昼食を一緒にと言われたが、本当だったのかと驚く。そして会話を楽しむと言ったか? 僕は孤児院とここしか知らない言わば箱入り孤児だ。貴族令息が楽しめる会話なんて出来るだろうかと不安になる。
「本日は魚料理となっております。お好きでしょうか?」
「好きです!」
「それはようございました」
壮年の侍従がにっこりと微笑み、さあ冷めないうちにお召し上がりくださいと声を掛けてくれる。
ルーファスの悪役令息としての行動はまだまだだが、僕は王子との恋に一歩近づいたような気がして嬉しくなる。ここで一緒に食事をと言われて、納得したようなわけがわからないような気がしたが、僕は前向きに考えることにした。
(僕こと、ヒロイン(♂)はイベントをこなしてる!)
多分きっとそうだ、と思いながら、僕は美味しいスープを口に運んだのだった。
天気の話から始まって僕の好きな食べ物や色、とくに思いつかないが趣味や苦手な食べ物、身長体重足のサイズまで話して、昼食は終わった。
一体あの尋問じみた会話はなんだったのだろう。王子のことは何ひとつわかっていないのに、僕の個人情報はひとつ残らず吐き出してしまった。
授業開始まであと少しというところで、東屋を出て教室に戻ることになり椅子から立ち上がる。
その時、ルーファスが僕を見ていることに気づき、ゆっくりと瞬きして合図する。僕は一気に興奮したが、それを表には出さずそっと王子に近づく。
「あ……っ」
緊張していたからかもしれない。僕は天性の運の悪さを発揮して、東屋に何故か転がっていた石を踏んでしまい、よろけてしまった。
「サッシャ君っ!?」
王子が手を差し伸べてくれる。その拍子に服の端に触れてしまった。王子の服をしっかりと掴む前にルーファスが動いて、僕の手を弾いた。
パチンと音をさせたその衝撃より、王子の方が驚いているようだ。
「止めてください、キンケイド侯爵令息様っ!」
さあ、ルーファスの悪役令息開始の時間だ。
僕は目に涙をため、そう訴える。けれど、僕を見つめる相手の瞳は温度を無くしたように冷え切っていた。ルーファス・キンケイド侯爵令息は、高位貴族子息の誉れとも呼べるような所作で袖を払うと、冷たく言い放つ。
「下民が」
「!」
ルーファスの表情も声音も、そして顎の角度まで完璧な悪役令息だった。思わず見惚れてしまうほど、その姿は神々しく光り輝いている。
スタンディングオベーションして、叫びたいほどの感動をルーファスは僕に与えてくれた。反応出来ないでいると、王子が変わりに苦言を呈してくれた。
イベントだー! と脳内お祭り騒ぎだった僕は、そこで気合いを入れ直す。ぼんやりしていちゃダメだ。ここぞとやらねば、ヒロイン(♂)の名が廃る。
「ルーファス! いくらなんでもその言い方は……っ」
王子は手を払われた所為でよろけた僕を、支えるように肩を抱き寄せてくれた。そうそう、こーやってスチルでも抱き寄せてくれたシーンを見たな、となんだかわからない感動が浮かび上がる。気を抜くとにやにやした笑いが出そうで僕は頬の内側を噛んで我慢する。
少し俯いて悲しげに見えるようにして、僕はおずおずと口を開く。
「あの、僕、そそっかしくて、足元をよく見てなくて、石を踏んで転んだだけなんです。王子に何かしようなんて思ってなくて……っ」
「黙れ。ローラントから離れろ」
僕と王子の間に乱暴に入ってきたキンケイド侯爵令息は、左右に割るように腕で引き離す。王子から乱暴に引き離された僕は、その勢いのまま地面に尻餅をついて転んでしまった。
ルーファス! 最高のパフォーマンスだよ! と内心喝采をあげる僕とは裏腹に、王子は本当に驚いているようだ。
「ルーファス! 一体どうしたというんだっ! サッシャ君が転んでしまったぞ!」
ヒロイン(♂)に乱暴を働いて、王子に軽蔑される悪役令息がそこにいた。
僕は地面に尻もちをついたまま、そおっとキンケイド侯爵令息を見上げる。キンケイド侯爵令息……、ルーファスも僕を見ていた。そして(これでいいか? 間違ってないか? というか、転ばせてしまってごめん。今すぐ助けたい)という目をしていた。僕も今すぐ抱きしめて、頭を撫でて褒めてやりたい。
(サイッコーだよ、ルーファス! 百点満点な悪役令息の行動と言動だ! 褒めてつかわす! 後でクッキーも作ってあげちゃう!)
僕は目配せしてそれを伝えると、ルーファスはほっとしたように肩をおろした。
おい、気を抜くな。優しい目で僕を見るな。手を差し伸べたくてうずうずしてますって雰囲気を出すな。まだ悪役令息は終わりじゃない。ここからが、勝負なんだ。
「キンケイド侯爵令息様、すみません……僕、本当にわざとじゃないんです」
「そうだよ、ルーファス。一体どうしたというんだ? お前らしくもない」
「……ろーらんとカラ、ハナレロ」
「ルーファス?」
棒読みになっているし、いつもと違い様子のおかしいルーファスに、幼なじみたちも怪訝に思ったのか近づいてくる。いつまでも地面に座り込んでいることも出来ないと、僕は立ちあがろうとした。すっと差し出された手が見えて、僕は目的を達成した気になる。これは、きっと王子が僕に手を差し伸べてると顔を上げ、そこで違う顔を見つけ驚愕した。
(なんでっ?)
ここは王子に颯爽と手を差し出される場面ではないのか。差し出された手を唖然として見ていると、じれたように手が伸びてくる。そこにいたのは、ナイジェルだった。どうしようと迷ってると、さっと目の前にルーファスの体が立ち塞がる。
「どいてくれる?」
高位貴族の子息だとわかっているのに、ナイジェルはふてぶてしくそう言う。
「何故?」
「何故? 理由なんて簡単だろう? 転んでしまった可愛い小鳥を助けるためさ」
「俺がやる。貴様は引っ込んでいろ」
「転ばせた原因が?」
「わ――っ! 僕、自分で立ち上がれます。ナイジェル様、ご迷惑をお掛けして申し訳ございません。転んだのも自分の所為なので、気になさらないでくださいっ」
これはまずい、とってもまずい。せっかくの悪役令息が台無しになる予感をひしひしと感じる。
「自分で転んだ? 俺にはそこの侯爵令息に転ばされたように見えたけど」
確かにそうだ。それは事実だ。けれどこれはルーファスに悪役令息として行動して貰っただけであり、演技のようなものだ。転んだ僕のために怒っているのはわかっているが、困ってしまう。
「ち、違うんです。僕が不用意に王子に触れたので、婚約者であるキンケイド侯爵令息様は、その、気に障ったというか、ほら、婚約者ですよ。そんな相手に平民が近づいたら、良い気はしないっていうか、だから仕方ないんです。僕が悪いんです!」
「……婚約者だからといって、気に入らなければ他者に、それも身分低い者に暴力を振るうのが高位貴族子息のやり方とは、この国の質も知れる」
「わ――っ! 違うんです。この国の他の貴族の方がどうとかわからないんですが、キンケイド侯爵令息様はそんなことしませんっ! 本当に僕が悪いんですっ」
本当のルーファスはこんなことは決してしない。僕が王子に近づくためお願いして悪役令息をやって貰っているだけだ。それをナイジェルに話すことは出来ないので、もどかしい気持ちになる。
「……サッシャは本当に優しいな。だけど、怪我をしているかもしれない。保健室に行こう」
ナイジェルはそう言って、もう一度僕の手を取ろうとするが、ルーファスがそうさせないように防いでいる。二人は睨み合って、一歩も引かない構えだ。
「大丈夫です! 僕、丈夫なことだけが取り柄なので!」
転んだと言っても尻餅だ。地面に打ちつけた尻ももうそんなに痛くない。保健室なんて大量の血が出ない限り行きたくないと思ってる。前世、散々消毒液の匂いのする部屋にいたのだから、あの匂いはもう嗅ぎたくない。
「ルーファス、確かにサッシャ君が怪我をしていないか心配だ」
「保健室にはルーファスが責任持って連れて行くのがいいんじゃないか?」
「次の授業の先生には俺たちが伝えておくから、行って来なよ。それとも俺の媚薬使う? 痛みはなくなるけど、ちょっと大変なことになるけど……」
「ルーファス、サッシャ君の顔色も悪くなっている。運んであげなさい」
王子に言われたルーファスは、僕の膝裏に腕を回すと一気に抱え上げた。
「ひゃあっ」
「待て、転ばせた張本人に運ばせるなんて……っ」
「だ、大丈夫です。僕は平気ですから。ナイジェル様ももう教室に戻ってください。次の授業が始まります」
ここでナイジェルに居座られたり、助けられたりするとルーファスが悪役令息やった意味がない。僕は必死で大丈夫なこと、僕に構わず授業を受けて欲しいことを伝えた。ナイジェルは最後まで迷っているようだったが、王子がルーファスに任せて大丈夫だと請け負ったので引いてくれた。
良かった。僕の所為でナイジェル様が不敬罪とかにならなくて。人目のあるところでルーファスに悪役令息をさせるとこんなことが起こるのならば、僕はこれからの計画を改めなければならない。
***
ルーファスに抱え上げられ保健室へ運ばれる状態で、考え込んでいると頭上から声がかけられる。
「サッシャ、痛むのか?」
「ううん。もう痛くないよ。それより降ろしてよ。僕、歩けるし」
「ダメだ。怪我していないかまだわからない。すまなかった。転ばせるつもりはなかったんだ」
「いやいや、ルーファス! さっきの悪役令息はサイッコーの出来だったよ。僕の理想をこれでもかって詰め込んだ悪役令息そのものだった。あれで王子との仲が深まったと思う」
「そうか?」
「うん。ちょっと台詞が棒読みだったけど、アドリブで王子から離れろって言ったタイミングもバッチリだったし。ルーファス、すごく頑張ったね!」
僕は腕を伸ばしてルーファスの頭を撫でてやる。隣に歩いている時は身長差がありすぎて出来ないが、今は抱え上げられているので顔がすぐ近くにあるから出来ることだ。
「あの下民がって言い方、物凄く良かった! ゾクゾクするほど悪役令息っぽくて、最高だったよ。ルーファスに無理させてるのはわかってるけど、本当にルーファスは悪役令息が似合う!」
「そうか」
「うん! で、そろそろ降ろして」
「ダメだ。怪我をしていないか確認するまでは降ろせない」
校舎に入り渡り廊下を歩いて、保健室までルーファスに抱え上げられながら向かう。途中、教室に戻る生徒たちに見られていたが、僕にはどうすることも出来なかった。
(せっかく王子の前で悪役令息出来ていたのに、こんな風に抱っこして保健室に連れて行くなんて、台無しじゃないか! 恥ずかしい。ううう、でも今は怒れない……)
公衆の面前で高位貴族であるルーファスに逆らうなんて出来ない。この世界の身分制度は厳しいのだ。だからこそ攻略対象者たちはヒロイン(♂)の天真爛漫さに惹かれるのだろう。一般的に市井の者が貴族に近づくことはないので、貴族子息は平民のことを珍しい生き物程度に思っているのかもしれない。
僕は大人しくルーファスの腕の中に収まり、運ばれていく。
校舎の一階にある保健室には常時、養護教諭がいるはずだが、部屋は空っぽで誰もいなかった。ルーファスは僕を医療用のベッドに座らせると、養護教諭がいないことを確かめ眉間の皺を深くする。
「職務怠慢だな」
「いやいやいや、保健室のせんせーだってトイレとか行くだろうし、他にも仕事あるだろ。ちょっと席を外しただけかもしれないんだから、そんな風に言うのは……」
「サッシャ、尻を出せ」
「は?」
養護教諭がいないことに憤りを感じているルーファスを諌めていたのに、どこにそんな要素があったのか、とんでもないことを言ってくる。
「どうなっているのか確認したい。尻を出せ」
「尻を……?」
「出せ」
出すのが当然というようなルーファスの態度に、僕は呆けてしまう。
(え? 今ルーファス、なんてった? 尻を……いやいや、清廉潔白な侯爵令息が、僕にケツを出して見せろなんてそんな下品なことを言うはずがない。今のは幻聴だな)
さっきのは空耳、幻聴だったと決めつけ、僕はその考えにしがみつく。
「早く出せ」
けれどルーファスはそんな現実逃避を無惨にも打ち砕いた。
「何、を?」
「尻をだ」
「現実だった!?」
信じたくない現実に、僕は思わず大声を出す。そしてここから逃げるために腰掛けていたベッドから立ち上がる。
けれどルーファスがそれを許してくれるはずもなく、目の前にでっかい体が立ち塞がる。
「あのさぁ、もう全然痛くないし、保健の先生もいないし、教室に戻ろうよ」
「この目で見なければ、安心出来ない」
「だから、痛くねーって言ってるだろ!」
「⋯⋯」
目の前にある大きな体を両手で押そうと思ったが、体格差のために反動で後ろに倒れただけだった。ベッドの上に戻ってしまった僕は、反対側から降りて逃げようとして、後ろを向く。逃げられると思ったのは勘違いだった。腰を掴まれ、上着の裾を捲られる。ベルトを外す為かもう片方のルーファスの手が前に回ってくる。
その時、打ちつけた尻にルーファスの体が当たった。
「っ!」
「やっぱり痛いんだな。見せろ」
「い、痛くないって言ってるだろ!」
あっという間にベルトが解かれ、ズボンのボタンも外される。制服の裾は捲りあげられ、あとはシャツを抜いて下着を下げれば僕の尻は丸見えになる。
「ぎゃ――っ! ルーファスのえ、えっち、……やめっ」
「保健の先生、指切っちゃったんです。バンソーコーをくださ……え?」
いきなりドアが開けられ、入ってきたのは担任のラツェリ・デューダーだった。デューダーはベッドの上で揉み合っている二人を見て、固まってしまう。
「あ、の……」
なんと言っていいのかわからず、でもこのままじゃいけないと僕は先生に声をかける。その声で我に返ったのか、先生はルーファスに向かって厳しい表情を向けていた。
「……キンケイド君、不純異性……、いえ同性交遊は構内で禁止されてます。私は教師として、きみを止めなければなりません。たとえきみが高位貴族子息だとしても、強姦は犯罪です。けれど不思議ですね、清廉潔白と誉れ高いきみが、真面目で勤勉な特待生であるサッシャ・ガードナー君を手籠にするなんて。私はこの目で見たことしか信じませんが、それでも……」
先生はいつもの落ち着きをなくし、口早に離している。ルーファスは僕の腰から手を離し、そしてそんな先生に対してとんでもないことを口にした。
「見たのか?」
「ええ、この目でしっかりと。きみがガードナー君に対して不埒な行いをしようとしたところをね。私は生徒を守る教師として……」
「サッシャの肌を見たのかと聞いている」
「は?」
「わ――っ先生、違うんです。僕たちは、その、僕が転んだんで、その、怪我の様子を見ようとして、そんな不埒な真似なんてしてません!」
「え?」
恥ずかしくて顔が真っ赤になってしまう。同じように先生の顔も赤くなり、僕とルーファスを交互に見ている。
「転んで尻餅をついたんですっ! だから、怪我していないか見るって言ってて、ルーファスは僕に不埒な真似なんてしてませんっ」
「そうなんですか?」
「サッシャが転んだのは事実だ」
「あれ? じゃあ私の勘違いですか?」
「そうです、そうです。勘違いです。ルーファスが……いや、キンケイド侯爵令息様が僕なんかに劣情を抱くはずがありませんから!」
「そうなんですね。勘違いしてすみません。ところで怪我なら私が診ましょうか?」
「イエ、結構デス」
お尻を見られるのなんて誰にだって嫌だ。少し痛みはあるが、別に命に関わるほどじゃない。前世、病院にずっといた僕は今世保健室が苦手だった。入学前に健康診断を受けた時も早くそこから逃げ出したくてたまらなかった。
ルーファスが外したボタンを留め、ベルトを付け直すと制服の上着の裾を元に戻す。早く教室に戻らなければ午後の授業が始まってしまう。
僕はルーファスを押し除けてベッドから降り、出口に向かおうとした。その時、またドアが開いて今度は養護教諭が戻ってくる。
「あら、お客さんがたくさん。ごめんなさいね。女性特有の用があったのよ。あらあら、デューダー先生、また怪我をしたんですか?」
「はい、指を。それでこちらのガードナー君なんですが、転んで尻餅をついたそうです」
「そうなの? ちょっと下を脱いで見せてみて」
「いえ、僕はもう全然痛くないですし、午後の授業が始まってますのでこれで失礼いたします。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでし……っ」
「脱いで見せて?」
養護教諭は僕の腕を掴んでにっこりと微笑む。
「え、でも……」
「キンケイド君、そこから降りて、部屋を出てくれる? あ、デューダー先生も、そこにバンソーコーがあるの知ってますよね。一枚あげますから、それ持って出ていってくださいね。さあ、ガードナー君、脱ぎましょうね」
「え、あの、その、……」
「あら、お肌スベスベね。若いっていいわあ」
「ルーファス、僕やっぱりルーファスに手当てして貰いたい。寮に戻ってからでいいからっ!」
恐怖のあまり僕はルーファスに手を伸ばす。ここにいたら確実に何かを失いそうで怖くなる。なりふり構っていられない。そんな僕をルーファスはすぐさま助けてくれた。抱え上げて養護教諭から引き離し、すぐ様保健室を飛び出してくれる。
部屋の中から残念だわーという声が聞こえてきて、自分の判断は間違ってなかったと胸を撫で下ろす。今度はルーファスの腕に座るように縦にだき抱えられ、教室へ向かう。
「ルーファス、もう降ろして。教室までこんな格好で行けない」
「だが……」
「お尻が痛くなったら言うから」
ちゃんと正直にルーファスに申告すると約束すれば、ルーファスも黙って床に下ろしてくれた。ほっとして息を吐き出してから、ルーファスを見上げる。
「ありがとう、ルーファス」
授業が始まって人気のない廊下は、声が響く。僕は口を手で押えて誰もいないことを確認するように周囲を見渡した。
「大丈夫だ。誰もいない」
「本当?」
「ああ、サッシャには嘘は言わない」
「ルーファスは誰にだって嘘は言わないでしょ」
僕の為に悪役令息になってくれているが、本当のルーファスは優しくてかっこよくて、頼りがいのあるとても良い人だ。こんなことがなければ、友達になって欲しいくらいの。そこまで考えて、今の僕たちの関係はいったいなんだろうと思う。僕はルーファスの優しさに甘えているだけだ。いつかルーファスの為になにか出来ればいいのに。
「サッシャ?」
「なに?」
「もう教室まで着いたが……やはり少し保健室で休んでいた方が良かったんじゃないか」
「いやっ、僕は本当に大丈夫!」
慌てて答えればルーファスは納得していないような表情を浮かべながらも、それでもそれ以上保健室に戻ろうと促すことはなかったことに安心する。誰もいない廊下を歩きながら、僕は隣を歩くルーファスをちらりと見上げる。ルーファスはそんな僕に気づいて、そっと手を取ってくれた。こんなに優しい人に、僕は何をさせているんだろう。
「サッシャ、ドアを開けても良いか」
「うん!」
ドアを開ける前に手を離す。教室にはすでに担当教科の教師が来ていて、僕たちふたりに気づいて入るように促してくれた。
「ガードナーが怪我をして保健室に行ったと聞いている。席に着きなさい」
「はい、ご迷惑をおかけいたしました」
静々と頭を下げると、僕は自分の席へ座った。ルーファスも席に着く。身分がものすごく違うからか、僕の席は一番後ろの出入り口側、ルーファスたちは一番前の窓側だ。視力も聴力も人一倍良い健康体は素晴らしい。どんな場所からでも教師の声が聞こえるし、黒板に書く文字も見える。
僕は一番後ろの席にポツンと用意されている席に座って、授業の教科書を出そうとした。バッグから取り出そうとした教科書があまりにも軽くてびっくりした。
取り出した教科書はビリビリに破かれており、見るも無惨な姿になっていたのだった。
ともだちにシェアしよう!

