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12話 悪役令息本領発揮
「うわっ」
人間驚くと地が出る。天真爛漫きゃるるんヒロイン(♂)に相応わしいのは「きゃっ」という声だっただろうが、僕にそんな演技をする余裕はなかった。
「ガードナー君、何が……うわっ」
隣の席のクラスメート、男爵令息が僕の机の中を見て、同じように短く叫ぶ。
そこにはネズミの死骸が入れられていた。死んでからかなり時間が経っている所為か、血は流れていないしカラカラに乾いていてミイラ状態だが、それでも驚いてしまう。
さて、教科書が破られていたのは先週だった。こんなものが入れられるとは、僕は本格的に誰かに不興を買ってしまったようだ。学園内では大人しく目立たないようにしていたけれど、にじみ出るヒロイン(♂)臭でもしたのだろうか。
(王子に寮のお弁当持ってくる役目を貰って、一緒に昼食を食べてるからかなー……)
特待生が目立てば、それだけで特権階級の者の目に入り躊躇なく潰される。それくらい、サッシャにもわかっていた。
「サッシャ」
授業が始まる前だからか、僕の叫び声を聞いてルーファスがすぐに気づいてそばに来てくれた。今朝も一緒に寮で朝食を食べたし、学園まで一緒に来たが、近頃それほど会話がないのはあの一件が尾を引いているからだ。
ルーファスは本当に無口だから、僕が話さなければ会話にならない。でも今からは態度を改め、ヒロイン(♂)と悪役令息になりきらねば。
「キンケイド侯爵令息様、なにがご用でしょうか?」
高位貴族に声をかけられ怯えた平民に見えるように、僕は眉を下げ小さな声で返事をする。隣の男爵令息が本当に気の毒そうにこちらを見ているのが居た堪れない。
「それは、なんだ」
僕の机の中には、小さな死骸がある。さてこれをどう説明したら良いかと思っていると、ルーファスの周りが輝き出した。
「待て、ルーファス!」
「ここでそれを出すな!」
「教室! ここは学舎だよ。戦場じゃないからっ」
「サッシャ君、頼むからルーファスを止めてくれっ!」
「え?」
僕は、ルーファスが水平にあげた手元が輝き、そこに何か細長いものが現れるのを呆然と見ていた。前にも一度見たものだ。確か……。
「エッケザックス」
ふたりの声が重なって剣が顕現した。光り輝く宝剣は、ルーファスの手に握られ、ますますその輝きを広げていた。
「……あー出しちゃった」
「どうすんだこれ」
「ローラント、下がってください」
「下がれないよ。ルーファス、いいかよく聞くんだ。それを床に置いて、一歩下がりこちらに来なさい」
ローラントの声が聞こえていたのか、ルーファスは以前と同じように床にエッケザックスをドンと振り下ろしじろりと睨みつけた。第三王子殿下より光り輝くルーファスは、まるで神の祝福を受けた尊い存在に見える。
まるで野生動物を手懐けようとしているような王子と幼なじみたちに、僕は笑いが込上げる。けれどここで笑うなんて失態は冒したくない。教室は凍りついたように静まり返っていた。こんな時に口を開くなんて、とっても目立つけどルーファスを止めなければならない。
「ルー……じゃなかった、キンケイド侯爵令息様、一体これは何事ですか? 危ないのでその剣はしまって欲しいのですが」
なんでそんなに怒ってんのかわかんないけど、室内で剣を振り回すのは危険だし、なんだか見ちゃいけないものを見ているような気がするので、今すぐ出したそれをまたしまって欲しい。
「神聖な教室に不浄なものを持ち込むなど、万死に値する」
ルーファスは僕を見つめながら教室中に響く良い声でそう言った後、顔を上げて周囲を見渡す。
「まあ、キンケイド侯爵令息様はあの特待生に憤ってらっしゃるの?」
「あの剣、伝説と謳われた王家に伝わる宝剣じゃないか?」
「本当にあったんだ。存在すら滅するという、伝説の……」
教室内のざわめきが戻ってくるとルーファスは、もう一度鞘に包まれた宝剣の先をドン、と床に打ちつけ静まらせる。
「ひっ」
そして剣を持ち上げると、右手でそれを抜こうとした。
「不浄を滅する」
「わーっ待て待て待て、ルーファス待つんだ!」
「抜いちゃダメ!」
「抜いたらまた始末書がっ」
「ルーファス、落ち着くんだ。その死骸はわたしが引き取ろう。すぐにサッシャ君の目の前から消し去るから、それを抜くな……サッシャ君きみからも……え?」
僕はルーファスと王子、それから幼なじみたちを無視して、僕の机に放置してあるネズミの死骸をハンカチに包み込む。
「王子、この学園で埋められる場所はありますか?」
「……あー、学園の庭を管理している者がいるはずだが、わたしが後で伝えておく。埋めてきてくれるのか?」
「はい、このままなんて可哀想なので。ご配慮、ありがとうございます」
王子が請け負ってくれるなら、授業が始まってしまっても大丈夫だろう。僕はハンカチに包んだ小さな塊を大事に両手で持つ。
「サッシャ、俺も……」
「キンケイド侯爵令息様はお早めにそちらの剣をお納めください。不浄とおっしゃるものは僕が貴方様の目に映らぬようにいたします」
ルーファスは小さなネズミの死骸を不浄と言った。確かにそうだろう。けれど死んだ後まで悪し様に言われるのを聞いて、僕は胸が痛くなった。きっと僕が死んだ後、父親もその妻もその息子も、もしかしたら生んだ母親も祝杯をあげたかもしれない。ただ死んでくれたと安堵したかもしれない。
今だって僕が死んだとしても悲しんでくれるような人はいない。
そう思ったら、干からびたネズミが自分みたいに思えた。
人気のない廊下を歩きながら、どこへ行こうかと考える。出来れば綺麗な花が見える場所がいい。そうしたらこの死んだネズミも、僕も、少しは救われるような気がした。
盛った土の前に小さな石を置き、手を土で汚したまま、その前で僕は手を合わせる。ちょうど庭の手入れをしていた人、……学園に雇われた庭師に会ったので王子の許可を貰っていることを告げ、花壇の端っこにお墓を作ることを許してもらった。そのまま土に埋めるのが嫌で、ハンカチごと埋葬した。僕のハンカチは、あと二枚になってしまったけれど、後悔はない。
「花を切って良いか聞くの忘れててごめんね。今度持ってくるから」
死んでカラカラに乾くくらい時間が経っているが、それでもなにもしないよりマシだろう。死ぬ時は痛かったかな、悲しかったかなと考えていると、なんだか目の奥がチクチクしてきた。ぐっと歯を食いしばり、泣くのを我慢する。いつだってひとりで前を向いて進んでいくのが僕だった。生まれ変わってもそれは変わらないと思っていた。それなのに近頃の僕はおかしい。寂しくてたまらない気持ちになる。
「全部ルーファスの所為だ……」
僕は弱くなんてなかった。生まれ変わったこの世界で健康な体を持てたので、図太く生きてやろうと思っていた。前世で出来なかったことを全部やって、幸せになろうと思っていた。でも、今の僕は全然幸せじゃない。
全部、ルーファスの所為だ、ともう一度口に出し、僕は地べたに座り込む。授業が始まり、誰もいないここなら少しくらい泣いても許されるだろう。僕は大きく息を吸い込み、膨らんだ涙を我慢せず流した。
埋められただけで、花のひとつも飾って貰えないネズミと、僕は同じだ。誰にも看取られず、静かに消えた。
そんな前世の僕とネズミを重ねて泣くなんてバカみたいだ。でも涙は止まらず、ポタポタと頬を流れて地面を濡らしている。涙を拭くハンカチすらない僕は、本当に何も持ってない。自分の心持ちひとつで、これからも生きていかなきゃならないと思うと、目の前が真っ暗になりそうだった。
ふわり……、と風が揺れた。
涙で曇る目を上げると、花びらが風に舞っていた。
「……え?」
ピンク色や白、黄色、色々な花が舞っていた。僕の上にも降ってきたそれを手のひらで受け止めれば、頭上に影が出来る。
「ルーファス……」
「泣いているのか?」
ルーファスの手から、花が空に放り出された。ハラハラと散る花びらが日に透けてとても綺麗だ。
「……ルーファス」
それ以外の言葉がなくなったように、僕はルーファスの名前を呼ぶ。
「泣かないでくれ」
「どうして?」
眉間の皺が三割増で顔に刻まれても、ルーファスの美貌は揺るがない。ぼんやりとそんなことを考えてしまうほど、僕の思考は止まっていた。ぎゅっと握った手のひらの花びらがくりゃりと潰れる。
「泣いて欲しくない」
「どうして?」
「胸が……、痛くなる」
「……どうして?」
ルーファスは僕と友達にはなれないと言った。今だって何度も「どうして」なんて聞かれたら、ルーファスはきっと困ってしまう。それでも僕は知りたかった。
「サッシャが、……大切だから」
そこの言葉だけで、それだけで良いと思えた。家族なんていなくても、友達なんて出来なくても、恋なんて知らないまま、また死んだとしても。ルーファスが言ってくれたその言葉だけで僕は満たされた。
「そーなんだ」
「ああ」
「……ルーファス、ありがとう」
「なにがだ?」
「お花だよ」
初めて食べたケーキも、泣いて震えるしか出来なかったあの日の温かい紅茶も、今小さなお墓に手向けてくれた花も、それ以上にルーファスの存在に感謝している。
友達じゃなくったって、ルーファスはこんなに僕を大切にしてくれてる。それだけで僕は大満足だ。転生した意味があったと思う。
「もう泣いてないか?」
不安なのか再度聞いてくるルーファスに、僕は大きく頷く。ルーファスが花を降らせてくれたから、びっくりして涙はもう引っ込んだし、頬を流れた涙は乾いてしまった。
「泣いてないよ! ルーファスは僕の涙を止めるのがうまいね」
ルーファスは長い足を折り曲げ、僕と目線を合わせてくれる。それから腕を伸ばして僕の頬に流れた涙の跡を指の先で撫でる。その優しくて温かい仕草に、胸がぎゅっと締めつけられた。
「サッシャ、友達になれないと言ったのは……」
「あー、もう良いんだ、ルーファス。学園に通っている間だけ、ううん、王子と恋する間……、ううん、今だけで、いいんだ」
そばにいてくれたら。
僕とルーファスが友達になれない理由なんて、数え切れないほど思いつく。そんなもの教えて貰わなくても、もう大丈夫だ。僕はルーファスの友達じゃないかもしれないが、大切だと思われている。それだけでいい。ルーファスを困らせるつもりなんて、今の僕にはなかった。
ルーファスはいつだって僕の為に行動してくれた。それは口で言う薄っぺらな友達なんていう言葉より、もっとずっと素晴らしいものだ。
黒く塗りつぶされていた胸の痛みが晴れていくような気がした。僕は立ち上がって、ズボンについた泥を払う。同じように立ち上がったルーファスを見上げて、僕は微笑んだ。
「ルーファス、来てくれて嬉しいけど、授業は大丈夫?」
からかうように言えば、ルーファスも表情をゆるめた。
「悪役令息はヒロインをいつも監視しているくらい見ているものだろう?」
「まあね。僕の教養のなさを見つけて攻撃する口実を探してるよね」
にやっと笑って、ルーファスの腰を肘で押す。ふたりは共犯者だ。王子と恋するために結ばれた、いつ切れても仕方ない細い糸で結ばれた、悪役令息とヒロイン(♂)という共犯者だ。
新しい教科書はルーファスが用意してくれた。真新しくて綺麗な教科書だ。ついでにノートや筆記用具も揃えようとしたのを止めて、僕はありがたくその教科書を貰う。学園を卒業したら、孤児院に寄付するためだ。
すでに寮に戻り、夕食もお風呂も済ませた僕の部屋でルーファスは腕組みをしてベッドに座っている。
「ルーファス、また眉間に皺が出来てるよ。そんなに考え込んでも今日のあれは事故だよ」
ネズミのお墓にお参りして、ルーファスと一緒に教室に戻る途中、三階のどこかの教室から植木鉢が落ちてきた。咄嗟にルーファスが腕を引いて助けてくれたから何事もなかったけれど、あのまま歩いていたら僕の頭は粉々になっていただろう。その代わり、落ちた植木鉢がバラバラになっていたけど。
「学園の管理体制が緩んでいるのかもしれない」
「事故だよ、事故。大体僕の命なんて狙って、得することある?」
僕は由緒正しい孤児なのだから、殺したって得るものは何もない。せいぜい学園が死体を処理するのか、孤児院に押し付けるのか、くらいだ。王子と昼食を一緒にしているくらいでは、命までは狙われないだろう。
「サッシャ、魔術の施された制服を頼んだからもう少し待ってくれ」
「……それが出来上がるまで登校するなとか言ってる?」
ルーファスは頷くが、僕はむすっとして唇を尖らせる。
「あのね、ルーファス。僕は特待生なんだよ? 成績を落とすような真似は出来ないっつーの。それに魔術のかかった制服がどれくらいの価値なのわかんないけど、絶対高いだろうから僕は受け取らないからね!」
「だが……」
ベッドから立ち上がってなおも言い募るルーファスに、僕はガラリと話題を変えた。
「そんなことより、もうすぐダンスパーティーがあるって張り出してあったけど、あれ何?」
生徒会主催であるダンスパーティーは、この王立学園の名物みたいなものだとクラスメートが話していたのを聞いていた。
「新入生が入学して、慣れた頃に行われる社交だ。現実の社交界とは違うが……」
ルーファスは答えながら、僕の猫っ毛をブラッシングし始めた。最初に持ってきた櫛とはまた別のものだ。僕の勉強机の引き出しには、日々ルーファスが持ってくるもので埋まりそうな勢いだ。僕はもう断るのを諦めて好きにさせている。高価なものは受け取らないことを、ルーファスも覚えて、購買で買えるような品質のものになっている。
「へー。美味しいもの出る?」
「出る」
ダンスパーティの主催は生徒会だ。その一員であるルーファスはどんな料理が出るのか知っているのかもしれないと思って聞いてみたら大当たりだった。
「それなら楽しみだな」
どんな料理が出るのか、今から楽しみだ。そしてふと、視線を下げて自分の服装を見た。お風呂に入った後なので、制服は脱いで寝巻きに着替えている。着古したヨレヨレのシャツとズボンのパジャマだ。
「ねー、ルーファス。そのダンスパーティーってドレスコードある?」
「タキシードだ」
「……制服じゃだめ?」
「……」
ルーファスは困ったように口を噤む。社交というくらいなんだから、制服じゃダメなんだろうなと僕はきっぱり諦める。
「僕、ダンスパーティーの日は寮にこもってるよ。まあ僕でも借りられる衣装があれば良いけどさー」
学園が主催するなら、特待生の衣装もなんとしてくれるかもしれないという淡い期待がある。
「サッシャ」
「何?」
「少し待っていてくれ」
「へ?」
ルーファスは勉強机に向かっている僕の髪を梳かしていた手を止めて、僕の部屋を出ていく。隣の自分の部屋に戻ったのだろう。なんだか嫌な予感がしたが、僕はそれを気のせいだと思うことにする。
部屋をノックする音がして、僕はやれやれと思いながら、立ち上がってドアを開けた。
「サッシャ、確かめる前にドアを開けるな」
「ルーファスだってわかってたから良いんだよ。それよりそれ何?」
ルーファスの手には、どう見ても高価な服ですと言わんばかりのカバーが掛けられた物が握られている。
「ちゃんと防犯意識を持っていないと。サッシャは危機感がない。世の中人畜無害な者ばかりではないし、寮とていつ不審者が入り込むかわからない」
「ルーファス、僕次からちゃんと確かめるから、許してくれる?」
「……それなら」
近頃のルーファスは小言が増えた。まるで保護者みたいに僕を守ろうとする意識があるみたいだ。嫌だなんて思ってない。くすぐったくて嬉しくて、幸せな気持ちになる。でもどこかで線引きをしていないと、ルーファスがいなくなった時、立ち上がれなくなりそうな危機感なら持っている。そして僕はルーファスが、僕の甘えた物言いに太刀打ち出来ないことを知ってしまった。今みたいに首を小さく傾げて問えば、大抵許される。
「で、それ何?」
「サッシャのダンスパーティーの衣装だ」
「……僕の、ダンス、パーティーの、衣装?」
区切って言ったのは、ルーファスの今の言葉は夢じゃないかな? と思ったからだ。
「ちゃんとサッシャの体型に合わせて作っている。カフスボタンはサファイア……」
「待って! ちょっと待って! なんでルーファスが僕の衣装なんて作ってるの?」
「一緒に参加したい、から」
「う……」
ルーファスの扱い方を覚えたのと同じように、ルーファスも僕の扱い方がわかってきたみたいだ。こんな風に願いを口に出されたら、大抵の事は叶えてあげたくなってしまう。
「こ、今回だけだからね! 次勝手に服なんて作ったら、口きかないからっ!」
「わかった。サイズは大丈夫だと思うが、確認したい。着てみてくれ」
ルーファスはそう言って、ベッドに置いて衣装を開いて置く。艶やかな布地で作られた、漆黒のタキシードを身につければ、ルーファスがいうように、僕のサイズにぴったりだった。真っ白なシャツは袖と首元に甘めになるようなフリルがつけられていて、可愛らしく思える。ボロボロのカーテンを開いて窓に自分を映して見れば、似合っているような気がした。
手を取られてなんだろうと思っていると、ベルベットの小箱に入れられた宝石をルーファスが袖口に付けてくれている。
空の色をしたそれは、ルーファスの瞳と同じ色だ。
「こ、これは絶対貰えないから。貸してもらうだけだから!」
ルーファスはそれには何も答えず、両手首にカフスボタンをつけると満足そうにして、僕の腰に腕を回した。
「よく似合っている」
「まあね。僕は曲がりなりにもヒロイン(♂)だからね」
黒い革靴まで用意されて、それを履けば僕の姿はどこかの貴族令息っぽく見えるかもしれない。
「ふふ、どうルーファス。僕、貴族令息っぽい?」
「とても綺麗だ」
「は?」
「……なんでもない」
「あはは、僕に見惚れた?」
からかえば真摯な表情を浮かべたルーファスが慎重に頷き、腰に回した腕に力が入った。
「ああ」
「……じょ、冗談だよ! もールーファスみたいな綺麗な人に言われたって、本気になんてしないよ。僕は自分を知ってるからね」
ヒロイン(♂)とはいえ、絶世の美少年なんてものじゃない。親しみやすい顔をしているし、整ってはいるだろうが、ルーファスとは比べものにならない。せいぜい、かわいいね程度だ。
「でも、ダンスパーティーか……僕、ダンスってしたことないんだけど、ルーファス教えてくれる?」
「ああ」
左手をルーファスの背に回され、右手を取られて握られる。顔を上げて見れば、ルーファスもこちらを見つめていた。
「一、二、三、でターン、繰り返しだ」
体を支えられ足を揃えて移動する。ルーファスがリードしてくれるからか、すぐにダンスに馴染んだ。狭い部屋をくるくる周りながら、体を揺らして踊るのは楽しい。
「あははっ」
思わず笑いが出てしまう。初めてのダンスがこんなに楽しいなんて思ってもみなかった。
「楽しいか?」
「うん。すっごく」
「ダンスパーティーでも踊ってくれ」
「うん! ……うん? ダメでしょ。ルーファスは王子の婚約者なんだから」
「……」
腰に回された腕にぎゅっと力が入る。けれど僕はダメだともう一度釘を刺す。
「僕だって王子と踊れないんだから、我慢して!」
どちらにしろ王子と踊るつもりなんてなかったが、ルーファスが諦めるようにそう言ってみる。
「ローラントと踊ったら俺とも踊ってくれるか?」
「んー……まあ、それなら? っていうか、男同士で踊ってもいいの?」
この世界はBLゲームと似た世界だし、男同士の結婚も許されている。けれど女性も普通にいるし、ルーファスと踊りたいと思っている貴族令嬢もいるだろう。だってこんなに綺麗なんだから。
「誰と踊っても許される」
ルーファスはそう言っていたけれど、婚約者がいるのなら最初はその相手と踊るのだろう。僕はこう見えても前世の記憶があり、漫画も小説も手当たり次第読んでいた。
「王子と踊りたい人が並ぶ列は長いだろうな」
「ローラントじゃなくて、俺と踊って欲しい」
「んー……まあ、機会があれば?」
悪役令息とヒロイン(♂)がダンスパーティーで踊るなんて、ちょっと滑稽だと思う。でももしチャンスがあれば踊ってみたい。今だってこんなに楽しいのだから煌びやかな会場で踊ればどれほど幸福な気分になるだろう。
見上げたルーファスは、余裕を持ってリードしながら僕を見つめていた。
「どうかしたか? サッシャ」
少し身を屈めて耳元で聞いてくるルーファスの声は、なんだか甘くてくすぐったい。ゾクゾクするような感覚が背中を辿って腹の底に溜まっていくような気がした。
形よく整った少し薄い唇から自分の名前を呼ばれると、心臓がドキドキする。でも自分だけがこんな風になっているのが悔しくて、僕はつい意地悪を言ってしまう。
「ねー、ルーファス。チューしたことある?」
背伸びしてヒソヒソ話をするように話しかければ、ルーファスはなんだ? というように見つめてきた。
「チュー?」
「口と口をくっつけるあれだよあれ! キス!」
「接吻か」
ずいぶん古い言い回しをするが、ルーファスもキスは知っているようだ。
「そーそれ、したことある?」
「ない」
少しだけ緊張しながら問えば、ホッとする返事が返ってきた。
「ないかー。じゃあ、ふたりともわかんないか。残念」
「なぜ?」
「んー? したことあるならどんな感じか教えて貰おうと思って。ほら、ゲームは全年齢だったから、ヒロイン(♂)、つまり僕と王子がチューして終わりにだったんだ」
エピローグでその後ふたりは幸せに暮らしましたと流れ、ゲームは終わるのだ。ただ、僕はまだ恋がよくわからない。王子と恋をすると言っているが、どんな風になれば恋になるのだろう。キスをすれば恋になるのだろうか。
わからないことばかりだが、きっと楽しいはずだ。だってゲームで王子と想いが通じ合ったヒロイン(♂)はキスをした後、凄く幸せそうに笑っていた。
「……してみたいなら、してみるか?」
「は?」
ルーファスは腰に回していた腕を外し、僕の頬を両手で包む。呆然とルーファスを見上げていると、美しい空の色をした瞳を細めてこちらを見つめていた。素晴らしく整った容貌を至近距離で見た僕は、動けなくなる。
あまりのことに目を閉じることも出来ないでいると、目の前が見えなくなり唇にちゅっと触れられた。すぐに離れたルーファスは、僕の様子を伺っているように見える。
「あ、ああああああ、あんた何すんだ!」
「キス」
「き、キキキキキ、キスっていうのは、いう、のは……その、あ……」
もう何を口走っているのか全然わからなかった。触れた唇がジンジンと熱を持っているように思える。手の甲で唇を擦ってもその感触は消えず、ますます熱くなってしまう。
「も、もう! ルーファス、さっきのは僕のファーストキスだったんだぞ! 初めてだったのに、何すんだよっ」
一発ぶん殴らないと気が済まないとばかりに僕は拳を握り締め、ルーファスの顔を殴ろうとした。
けれど見上げたルーファスは、艶やかな黒髪を揺らし、空の色をした瞳を細め、唇には笑みを浮かべていた。
「初めて、か」
「!」
無表情の時だって一目見ただけで、うっとりと見惚れるような美貌が、柔らかく微笑んでいる姿なんて、とんでもない破壊力を持っている。僕は握った拳が震える程力を込めて握ったが、ルーファスを殴ることは出来なかった。
「……ぐぬぬ、ルーファス、その顔に感謝しろよ!
「顔?」
「そう、顔!」
僕にはルーファスの顔を殴るなんて出来なかった。
「この容貌が失われるなんて、人類の損失だから、決して僕がキスを受け入れたわけじゃないから、そこんとこ誤解しないでよねっ」
「わかった。もう一回してもいいか?」
「話聞いてた!?」
僕はルーファスをドアのところまで引っ張っていく。そして部屋から押し出してやった。
「反省、して!」
「サッ……」
僕はルーファスが何か言う前にドアを乱暴に閉め、きちんと鍵も閉めた。たったこれだけで僕の息は切れていた。きっと顔も真っ赤になっているだろう。
「う……」
なんでキスなんて話題を出してしまったのだろう。僕のばか。王子とするはずのキスをルーファスとしてしまった。それが嫌なわけではない。嫌じゃなかった。けれど、それが問題だった。
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