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第2話

「あ、僕、払っておくから先に出てて」 「それ欲しいの? よかったら、プレゼントさせて?」 「映画のチケット、もう買っておいたから。はい」  財布の中身がどんどん減っていく。 「ありがとう、春さん」  けど、そう嬉しそうに笑ってくれる陽色くんを見ていると、僕までもが嬉しくなる。これまでの苦労が報われるというものだ。  寂しくて泣いたこととか、抑制剤の副作用と必死で戦ったこととか、とにかく我武者羅に働いたこととか、全部がどうでもよくなる。空っぽだった心が満たされていくの感じた。 「あのね、僕、陽色くんに会いたくて、でも会えなくて、すごくつらかった。今日は、会ってくれて本当にありがとう」  言ってしまってから、重たかったかうざかったかと不安になったけど、変わらず陽色くんは微笑んでくれていた。手が、強く僕の手を握ってくれた。 「うん、俺も。会いたかった」  ああ、神様! これは何のサービスですか。僕、明日、死ぬのかな。それでもいいや。  映画館内に入ると同時に異変を感じた。陽色くんの手を離し、後ずさる。 「春さん?」 「僕、ちょっと、トイレ、に。す、座ってて、ね」  本当は走り去りたかったが、振動が更に刺激になるのが怖くて、できるだけゆっくり背を向けた。   (まずい、まずい、まずい)  視界が狭くなっていく。トイレの青い男性マークを確認し、壁に手をつきながらそこに入る。幸いにも開いていた個室に入り、鍵を閉める。  途端に抑えていた吐き気がこみ上げた。 「っ、うえ」  冷たい手先でポケットの中を探る。 (抑、制剤)  身体が熱くなっていく。なんで、こんなときに。嫌だ。一月以上抑えていた発情期が、もし、今、このタイミングで本格的に来てしまったら。  そう考えるだけでぞっとした。 (怖い、嫌だ、早く)  涙がぼろぼろ零れる。滑り落ちた錠剤のシートを、床に膝をつき、拾い上げ、一粒一粒取り出し、落ちては掌の中に戻しを繰り返しながら、一気に口の中に入れた。  それから、隅に座り膝を抱え、吐き気と戦った。 (効いて、効いて、お願い、効いて)  どれくらいそうしていただろう。気がついたときには、吐き気も発情の前兆も収まっていた。ほっと息を吐く。  携帯電話の表示を見れば、映画が始まってから既に30分近くが経っていた。 (戻らないと)  トイレの地べたにつけていた尻を叩く。 (あ、手、汚れちゃった)  それどころか、トイレに落ちたものを飲んでしまった。 (汚い)  壁伝いにふらふらと立ち上がり、個室のドアを開け、丹念に手を洗った。 (汚い)  口も何度もゆすぐ。  ひとりだったらいい。けど、今日は違う。陽色くんが傍にいるのに。ペーパータオルで手と顔を拭き、鏡の中の自分を見る。血の気がない頬を掌で叩いた。  トイレを出ると同時に、陽色くんに会った。 「なかなか戻ってこないから……。大丈夫?」 「あ、うん、ご、ごめん、トイレ行こうとしたら、その、急な仕事の電話があって、ごめん。も、戻ろう」  『仕事』ってなんて素敵な言い訳なんだろう。陽色くんはそれ以上は何も問おうとはしなかった。  気を遣わせてしまった。観たいって言っていた映画なのに、途中で抜けさせてしまった。薬を飲んだばかりで情緒が不安定になっているのか泣いてしまいそうだ。 「春さん、ほら」  差し出してくれた手から、思わず身を引いてしまった。目を見開き、僕を観る陽色くんから顔を伏せる。 「えと、あ、き、汚いから。トイレ、出たばっかりで」 「なにそれ」  陽色くんは、小さく笑ってくれた。

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