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第4話
「まぁ一緒にいられるならなんでもいいけど」
ため息とともにようやく陽色くんは立ち上がった。会計に向かおうとする足を「もう済んでいるから」と引き留める。少し困った顔をされた。気を遣わせてしまったかもしれない。
「た、誕生日だから!」
と慌てて付け加えると、しばらく何事か考え込んでいたようだが、難しい顔を崩してくれた。
「ありがとうございます」
「う、ううん!」
店の外に出ると、その熱気に驚いた。もうすぐ秋が来るらしいけど、夜のこの蒸し暑さは未だ変わらない。思わずよろけた僕の身体をそっと陽色くんが支えてくれた。
「すぐ近くにこの時間も開いてるカフェがあるみたい。ケーキも美味しいらしいよ」
ひとり赤面していると、陽色くんは片手でスマートフォンをいじりながらそう言った。
口コミサイトに上がっているケーキの写真を見せてくれる。柔らかそうな生クリームのショートケーキだ。大粒のイチゴが乗っている。
「わぁ、美味しそう!」
「春さん、甘いもの好きなの?」
「うん、普段は食べないけど、疲れた日とかは自分へのご褒美にプリンとか買ったりするよ。コンビニのだけど」
「へぇ、そうなんだ」
「ん?」
何をそんなに喜んでいるのだろう。首を傾げれば、陽色くんは頬を赤くして、はにかんだ。
「春さんのこと、また少し知れてた」
「そ、んなこと」
「春さん、なかなか会ってくれないから。今の情報だって、結構きちょー」
俯く陽色くんの姿に、慌てる。
そんなふうに思っていてくれたことが嬉しい。僕だって会いたい。会っていいものなら毎日だって会いたい。
(けど、それはできない)
せっかく陽色くんからもらっている時間を、無駄にできない。たくさん楽しんでほしい。
「し、仕事、が」
「そうだよね、わがままいってごめんなさい」
「う、ううん!」
僕がもっと稼いでいたら。オメガじゃなかったら。本当にただの社会人だったら。陽色くんにもっと楽しい時間を過ごしてもらえるのにな。
(あ)
突然、大きく心臓が跳ねた。口元を抑えながら、慌てて鞄の中から携帯電話を捜す。
(もう少し、もう少しだから)
指先が小刻みに震えている。二つ折りの携帯を開いて耳にあてた。
「あ、すいません。わかりました、すぐ」
「春さん?」
「ご、めん、陽色くん! 僕、急な仕事に呼ばれて。行かないと!」
「え」
「本当にごめん。ご、ごめんなさい」
大きく頭を下げて駅があると思われる方向へ走り出す。
「春さん!」
振り返る。陽色くんが、大きく腕を振っていた。
「今日はありがとう! また連絡します! 絶対、また!」
その言葉が嬉しくて、小さく手を振り返す。
(早くこの場を離れないと)
通りかかった公園の、その中のトイレに入る。襲ってきたのは堪えようもない吐き気、跪き、便座へ顔を向ける。
出てくるのは胃液ばかりだ。
気分が悪いのに気分が高揚する。
「う、ひっく、う」
堪えきれず、手がズボンの中に入り込む。そこはもう濡れていて、後ろまでぐずぐずの状態だった。
(嫌だ嫌だ)
そう思うのに指が快楽を求めて動き出す。
「ぅ、は」
そのとき、誰かが入ってくる足音がした。
(トイレ、鍵、閉めた?)
一部冷静になった頭が抑制剤の存在を思い出す。けれど、ポケットから探し当てた錠剤シートは空だった。苛立ちに任せて、地面にそれをたたきつける。
足音は僕の前を通り過ぎて行った。
(怖い)
這いながら隅の方に行き、扉と対峙する。鍵は――締まっていた。ほっと息を吐く。そりゃそうだ。ドアが閉まっていれば鍵も締まっているに決まっている。
安堵と同時にまた、今度はより強く衝動が訪れた。吐き気と性的な欲求。
身体の中、ぐちゃぐちゃだ。
(気持ちよく、なりたい)
嘔吐きながら、下をいじる。ぐちゅぐちゅと音が響く。もう構ってられなくなっていた。それでも、必死で声だけは抑えながら、小さくなり、立てた膝に頭を埋める。
「は、」
意識を取り戻したのは、もう朝方になってからだった。気を失っていたのか、眠っていたのかはわからない。あれからもう何時間経ったのだろう。
口も手も乾いた嘔吐物や精液がこびりつき酷い有様だった。
幸いにも人気(ひとけ)はなかった。手洗い場で、顔と、手を洗う。けど服は汚れたままだ。このままだと電車には乗れない。
財布の中を見る。
(本当は陽色くんへのケーキ代になるはずだったのに)
鞄を前側に抱え、道でタクシーを拾う。行き先を告げ、乗った座席で、また目を閉じた。早くまた意識を手放してしまいたかった。そうでないと、後悔と自己嫌悪で死んでしまいそうだった。
(汚い、汚い、僕は汚い、汚いオメガ)
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