4 / 21

第4話

「まぁ一緒にいられるならなんでもいいけど」   ため息とともにようやく陽色くんは立ち上がった。会計に向かおうとする足を「もう済んでいるから」と引き留める。少し困った顔をされた。気を遣わせてしまったかもしれない。 「た、誕生日だから!」  と慌てて付け加えると、しばらく何事か考え込んでいたようだが、難しい顔を崩してくれた。 「ありがとうございます」 「う、ううん!」  店の外に出ると、その熱気に驚いた。もうすぐ秋が来るらしいけど、夜のこの蒸し暑さは未だ変わらない。思わずよろけた僕の身体をそっと陽色くんが支えてくれた。   「すぐ近くにこの時間も開いてるカフェがあるみたい。ケーキも美味しいらしいよ」  ひとり赤面していると、陽色くんは片手でスマートフォンをいじりながらそう言った。 口コミサイトに上がっているケーキの写真を見せてくれる。柔らかそうな生クリームのショートケーキだ。大粒のイチゴが乗っている。   「わぁ、美味しそう!」 「春さん、甘いもの好きなの?」 「うん、普段は食べないけど、疲れた日とかは自分へのご褒美にプリンとか買ったりするよ。コンビニのだけど」 「へぇ、そうなんだ」 「ん?」  何をそんなに喜んでいるのだろう。首を傾げれば、陽色くんは頬を赤くして、はにかんだ。 「春さんのこと、また少し知れてた」 「そ、んなこと」 「春さん、なかなか会ってくれないから。今の情報だって、結構きちょー」  俯く陽色くんの姿に、慌てる。  そんなふうに思っていてくれたことが嬉しい。僕だって会いたい。会っていいものなら毎日だって会いたい。 (けど、それはできない)  せっかく陽色くんからもらっている時間を、無駄にできない。たくさん楽しんでほしい。 「し、仕事、が」 「そうだよね、わがままいってごめんなさい」 「う、ううん!」    僕がもっと稼いでいたら。オメガじゃなかったら。本当にただの社会人だったら。陽色くんにもっと楽しい時間を過ごしてもらえるのにな。   (あ)  突然、大きく心臓が跳ねた。口元を抑えながら、慌てて鞄の中から携帯電話を捜す。 (もう少し、もう少しだから)  指先が小刻みに震えている。二つ折りの携帯を開いて耳にあてた。 「あ、すいません。わかりました、すぐ」 「春さん?」 「ご、めん、陽色くん! 僕、急な仕事に呼ばれて。行かないと!」 「え」 「本当にごめん。ご、ごめんなさい」  大きく頭を下げて駅があると思われる方向へ走り出す。 「春さん!」  振り返る。陽色くんが、大きく腕を振っていた。 「今日はありがとう! また連絡します! 絶対、また!」  その言葉が嬉しくて、小さく手を振り返す。 (早くこの場を離れないと)   通りかかった公園の、その中のトイレに入る。襲ってきたのは堪えようもない吐き気、跪き、便座へ顔を向ける。  出てくるのは胃液ばかりだ。  気分が悪いのに気分が高揚する。 「う、ひっく、う」  堪えきれず、手がズボンの中に入り込む。そこはもう濡れていて、後ろまでぐずぐずの状態だった。 (嫌だ嫌だ) そう思うのに指が快楽を求めて動き出す。 「ぅ、は」 そのとき、誰かが入ってくる足音がした。 (トイレ、鍵、閉めた?) 一部冷静になった頭が抑制剤の存在を思い出す。けれど、ポケットから探し当てた錠剤シートは空だった。苛立ちに任せて、地面にそれをたたきつける。 足音は僕の前を通り過ぎて行った。 (怖い) 這いながら隅の方に行き、扉と対峙する。鍵は――締まっていた。ほっと息を吐く。そりゃそうだ。ドアが閉まっていれば鍵も締まっているに決まっている。 安堵と同時にまた、今度はより強く衝動が訪れた。吐き気と性的な欲求。 身体の中、ぐちゃぐちゃだ。 (気持ちよく、なりたい) 嘔吐きながら、下をいじる。ぐちゅぐちゅと音が響く。もう構ってられなくなっていた。それでも、必死で声だけは抑えながら、小さくなり、立てた膝に頭を埋める。 「は、」 意識を取り戻したのは、もう朝方になってからだった。気を失っていたのか、眠っていたのかはわからない。あれからもう何時間経ったのだろう。 口も手も乾いた嘔吐物や精液がこびりつき酷い有様だった。 幸いにも人気(ひとけ)はなかった。手洗い場で、顔と、手を洗う。けど服は汚れたままだ。このままだと電車には乗れない。 財布の中を見る。   (本当は陽色くんへのケーキ代になるはずだったのに)  鞄を前側に抱え、道でタクシーを拾う。行き先を告げ、乗った座席で、また目を閉じた。早くまた意識を手放してしまいたかった。そうでないと、後悔と自己嫌悪で死んでしまいそうだった。 (汚い、汚い、僕は汚い、汚いオメガ)    

ともだちにシェアしよう!