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三十九、暗い道の先にあった、僅かな希望。
櫻花は膝を付き、足元に転がってきたそれをゆっくりと拾い上げると、苦痛に歪んだ顔で抱きしめた。
閉じた瞼がゆっくりと開かれた時、そこにはいつもの美しく穏やかな眼差しはなかった。その胸に抱きしめていたものを丁寧に花の上に置き、強い眼差しでゆらりと立ち上がる。
ほぼ同時に、糸が消れるように花楓 は自由を取り戻すが、目の前に広がる自分の罪の証を思い知ると、その場に崩れ落ちた。
「······俺、俺が········皆、殺し、······」
顔を覆い蹲る花楓 の横を通り過ぎ、櫻花 は歩みを止めることなく、嫦娥 の立つ少し高い位置に造られた東屋へと飛んだ。
握りしめた手を開くと、感情のまま振り翳し、気付けば鈍い音と短い悲鳴がその場に響き渡った。
思い切り平手で殴ったせいで、掌に痺れるような痛みが走った。他人を、ましてや神を殴ったことなど一度としてない。
「私に、この場を一時的に離れるように仕組んだのもあなたですね! 一体この者たちが何をしたというんですか! あなたのようなひとが神だなんて、私は認めません! 今すぐに自らの罪を認め、その愚かな行いを悔い改めてください!」
神官たちが騒めく中、殴られよろめいた嫦娥 がくつくつと小さく笑い、肩を小刻みに揺らす。櫻花 はその様子に目を細め、胸元で彼女を殴ったその右手を覆うように、左手を添えた。
宴が始まる前、問題が起きたとこの邸の使者に外へと連れ出された。そして他の皆は先に宴に参加するようにと、指示されたのだ。
その時点で、気付くべきだったのだ。
これが、自分を皆から引き離すための、時間稼ぎであったことを。
櫻花 がおかしいと気付いてここに戻って来た時、真白い石楠花 の花は真っ赤に染まり、横たわった花の精たちの骸が、辺り一面に無残な姿で放置されていた。
駆け抜けた先で見たモノ。
それは、茶梅 の首が飛ぶ瞬間だった。
驚くことに、それを宴の余興として、東屋に集まっていた者たちは酒を酌み交わしていたのだ。天界に座する者の所業とは思えなかった。
顔を上げた嫦娥 は、弾かれたように高らかに笑いながら、待っていたとばかりに言い放つ。
「なんということ! この私 に手をあげるなんて! お前のような身の程知らずは、天界から追放してあげる!」
櫻花 は絶句する。それはあまりにも自分勝手で、傲慢な、神とは思えない言動だった。目の前の者は天界にある階級の中でも上位の神。
冷静に周りを見回してみれば、彼女の後ろにいる神官たちに見覚えがある。そのほとんどが、あの時、謁見の間にいた者たちだった。
「········本当に、私は、馬鹿です」
この事態は、自分の油断が招いたこと。
結果、この手から零れ落ちた、モノ。
櫻花 はそのすべてに絶望する。力が抜けたかのようにその場に座り込み、蹲り震えている花楓《ホアフォン》に声だけを向けた。
「········花楓 、私を殺してください」
呟かれた言葉に、花楓 は聞き間違いだろうと、思わず涙でぐしゃぐしゃになっている顔を上げる。そこには、背を丸めて顔を覆う櫻花 がいた。衣は血で汚れ、その顔は見えない。
「皆のところに、私を、連れていって······」
「そんなこと、赦されるわけないでしょう? あなたは、自分のせいで配下が死んだことを一生悔やみながら、下界で死んだように生きるのよ。二度と笑みなど浮かべられないように、絶望したまま生きるの! 枯れた花みたいにね!」
あはははは! と嫦娥 は櫻花 を見下しながら高笑いをすると、そのまま手を翳した。
「ごきげんよう、花神。二度と私の目の前に現れないでちょうだい、」
その言葉を最後に、櫻花 の視界は閉ざされた。
******
それから、何年も何十年も下界をあてもなく彷徨っていた。何度か天帝の分身が自分の許に現れ、天界の状況を伝えてきた。
あの後、天界は大騒ぎになり、そのすべては、恐ろしい鬼神 を所有していた、櫻花 の落ち度が招いた事態であると結論付けられた。
その鬼神 は、櫻花 が追放されたその少し後に行方知れずとなり、天界は彼を大罪人として捕らえるという名目で、全力で捜すことを決めたらしい。
その真意は、あの日の真実をその口から語らせるため。
あの場にいた神官たちは口を揃えて櫻花 が悪いと言うばかりで、天帝は埒が明かないと思い知った。
嫦娥 に関しては、力がありながら事態を止めなかった罪で、位を下げる事くらいしか現状ではできなかったそうだ。
そして話はさらに進み、黒竜と白蛇の前に立ち塞がった、あの夜の数刻前へ。
蓬莱 山の片隅で、朽ちているだろうあの堂へと櫻花 は足を向けていた。
あれから数百年、ここに赴くことはなかった。そんな櫻花 がここへとやってきたその理由。
それは、鷹藍 の口から出たひと言だった。
「君の堂に、最近妙な噂が立っていてね。私たちは表立ってあそこには立ち入れないから、気が向かないだろうが、調べに行ってもらえないだろうか、」
その頃には、櫻花 は地仙として下界とこの蓬莱 山を行き来していた。
とは言っても、花神だった頃に身を置いていた百花堂へ足を向けることは一度もなく、知己である鷹藍 やその配下の者たちと茶を飲んだり、他愛のない世間話をするのが目的だった。
彼らのお陰で、何百年も暗い道を歩いていた櫻花 は、少しだけ元の自分を取り戻しつつあった。作り笑いも上手くなった。
あの時とは、全然違う感情で浮かべられるその笑みが、自分でもあまり好きではなかった。
天帝は飽きずに使者を送ってくるが、もうあそこへ戻りたいとは思わない。下界で困っている者たちを助けたり、のんびりと旅をしている方が合っていると気付いたのだ。
そうは言っても、人助けをすれば功徳 は溜まってしまうので、適当な頃に小さな罪を犯し(おもに堂の供物をつまみ食いした罪)、天仙にはならないようにしていた。
櫻花 の足が止まる。
花の香りがふわりと風に乗って届くのを感じた。
手入れをする者を失った堂は、きっと雑草たちに覆われ、咲き誇っていた花々を枯らしているだろうとばかり思っていた。
しかし目の前に飛び込んできた景色に、思わず櫻花 は駆け出していた――――。
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