櫻花(インホア)はその声に、苦痛に歪んだ表情を浮かべる。あの話し方も、声も、顔も、すべて。あの日を思い出させる。 　数百年経った今もなお、彼女は自分を苦しめ続けている。 　跪いたまま、雪が降り積もった地面を握り締める。その冷たさに、ほんの少しだけ平静を取り戻して、櫻花(インホア)は顔を上げる。濡れた左手が、なんだかあたたかい気がする。 　それは、きっと。 （大丈夫。私は、この試練を乗り越えてみせます） 　あの百花が咲き乱れる堂で、また、皆と共に生きると決めた。 　天仙となり、呪いを解き、そして再びあの場所へ帰る、と。 （もちろん、その時は······、） 　琥珀の眼を優し気に細め、思いを馳せる。 　そのためには、ここで、すべてを終わらせなければならない。 「あなたは、本当に可哀想なひとです」 「なんですって？」 　嫦娥(チャング)の鋭い眼差しが、櫻花(インホア)を刺すように向けられる。天帝を間に挟んだまま、反対側にいるお互いの視線が交わった。あの日と全く変わらない、自分に向けられた嫌悪の眼差しに負けそうになる。 　それでも。 「先程の話を聞いていなかったのですか？ あの日、あなたが命を奪わせた花の精たちの中で、魂魄が無事だった者たちが元の姿を取り戻したら、どちらにしてもあなたの罪は免れません。最後まで生き残っていた茶梅(チャメイ)がすでに目覚め、いつでも証言が可能となれば、もはや逃げ場もないでしょう」 「戯言を。天帝、あなたならこの薄汚れた地仙と、上位の神である私(わたくし)の証言、どちらが正しいかなんて火を見るよりも明らかでしょうに」 　黑藍(ヘイラン)は自分の頭がおかしいのかと、一瞬思ってしまう。どう考えても嫦娥(チャング)がすべての首謀者で、苦し紛れに言っているに決まっているのに、上位の神であると言うだけで、そちらの方が本当なのではないかと思いそうになる。 　それはあの日、自分が櫻花(インホア)に対して思ったことと似ていて。ぶんぶんと首を振るが、あの時の櫻花(インホア)の姿が頭から離れない。 （俺はあの時······地仙と神聖な竜の言い分、その場に他の者がいたならば間違いなく俺が正しいと言うだろうと、なんの躊躇いもなくそう考えた。そこに誰かの考えや是非は関係ないと、） 　それと同じことを嫦娥(チャング)は言っているようなものなのだ。その違和感に、ちっと舌打ちをする。 （くそ······なんでこんな時に、あの時のことを思い出すんだよ！） 　黑藍(ヘイラン)は拳を思い切り地面に突き立てる。なに、どうしたの、と白藍(パイラン)が呆れた顔で覗いてくるが、なんでもない！ と逆ギレした。 「いい加減にしろよ！ あんたがこいつにしたことは、醜い嫉妬心からの度を超えた嫌がらせだろ！ いつでも皆に囲まれてへらへら笑ってるこいつが、羨ましかったんだろーがっ」 　櫻花(インホア)は、沈黙を破って怒鳴り出した黑藍(ヘイラン)の言葉に苦笑を浮かべる。味方になってくれてるのか、貶されているのか、よくわからない。 「こいつのへらへら顔を奪って満足だったか？ 傷付けて、踏みつけて、楽しかったか？ けど残念だったな、こいつは今もこの通り！ 馬鹿みたいに毎日へらへら笑ってるぜ。あんたはどうだ？ 心から笑ったことなんてないんだろう、」 　黑藍(ヘイラン)はもはや自分が何を言っているのか、よく解らなくなってきた。しかし言い切った後、櫻花(インホア)は生あたたかい気色の悪い眼差しでこちらを見てくるし、白藍(パイラン)は同情に満ちた眼差しで自分を見るなり、肩をぽんぽんと叩いてきた。 　こほん、と天帝が咳払いをして、その場にまた緊張感が戻る。 「話はゆっくりと天界で聞くとしよう。なに、時間はたっぷりある。案ずることはない。己の所業を悔い改めるまで、何度でもあの日を思い出すといい」 　言って、天帝は嫦娥(チャング)に手を翳した。途端、その身体を金の環が捕縛し、身動きが取れなくなる。観念したのか大人しくなった嫦娥(チャング)は、口を噤んだ。 「櫻花(インホア)、長い間苦行を強いてしまったことを詫びさせてくれ」 　櫻花(インホア)の手を遠慮がちに取り、ゆっくりと立たせると、その手をすぐに放す。視線は見つめたまま、言葉もそれ以上紡がれない。 「いいえ、あなたはそれを伝えるために、何度も私に使いを送ってくれていたんですね。私はそんなことも知らずに、意地を張ってしまって」 　かまわない、と天帝はその秀麗な顔に小さな笑みを浮かべる。見下ろし見上げるような形で、ふたりは頷く。 　それ以上の言葉はいらなかった。 　しかし、優しく見つめていた櫻花(インホア)の顔が曇る。 　その次の瞬間————、 「危ない！」 　天帝の身体を押し退け、前に飛び出す。 　傍で控えていた花楓(ホアフォン)が振り向いた時には、その鋭い触手の先が櫻花(インホア)を貫いているように見えた。 　天帝もまた、押し退けられよろめいた身体をなんとか立て直し、振り向いたその時、同じ光景が目に飛び込んでくる。 　黑藍(ヘイラン)と白藍(パイラン)は跪いていたことと、三人が重なっていたせいで、何が起こったのかまったく見えない。 「······嫦娥(チャング)！」 　花楓(ホアフォン)は嫦娥(チャング)をものすごい勢いで振り向き、今にも目の前の者を葬り去らんとばかりに、その腰に佩いた剣に手をかけた。 「私は大丈夫ですから、どうか落ち着いて！」 　返ってきた声は、触手に貫かれたにしては、思いの外元気で······。 「え······だって、今、身体······血······え？」 　よく見れば、道袍を染めている血は乾いており非常に紛らわしいが、鮮血は飛び散っていなかった。 　花楓(ホアフォン)は命令通り剣を鞘に収めると、改めて櫻花(インホア)の前に駆け寄る。 　すると、貫通していたかと思われた鋭い触手は、両手を広げた櫻花(インホア)の脇腹辺りの衣を掠めただけで、本人は無傷であった。 「櫻花(インホア)様、良かった······俺、てっきり、」 　はあ、と大きく息を吐き出して安堵する。 　そして、櫻花(インホア)の包帯が巻かれている左手から肘の辺りを、白く長いもの(・・)がぐるりと螺旋のように動いたのを花楓(ホアフォン)は見逃さなかった。 「あはは······たまたま運が良かっただけですよ？ 災禍(さいか)の鬼の正体に気付いた時、この子の存在が切り札になると思ったんです」 　道袍の袖を捲り、左手に巻きついている白い蛇と視線を交わした。 　触手を躱せたのは、櫻花(インホア)の強運と肖月(シャオユエ)の幸運が招いた絶対的な運の良さだった。自分には絶対に当たらないと信じ切る、櫻花(インホア)も櫻花(インホア)だが······。 「白藍(パイラン)たちも肖月(シャオユエ)のことを黙っていてくれたので、助かりました」 「いや、俺は、あいつ逃げたなって思って、あえて突っ込まなかったんだが？」 「僕は、話題にすらしたくなかっただけだよ」 　あはは····と、櫻花(インホア)は困った顔で白蛇を見つめる。 　天帝は櫻花(インホア)の前に立って触手を片手で握りしめると、そこから一瞬にして炎が上がり、そのまま灰になって消えた。 「私を狙った、のではなく、必ず立ち塞がるだろう櫻花(インホア)を狙ったな？」 　嫦娥(チャング)はもはやこれまでと、力なくその場に崩れ落ちた。