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(これは一体どういう展開!?)  僕は命を粗末にする彼の態度に怒っただけなのに……。  どうして、僕はキリアンにある意味迫られているのだろうか。 「な、ジェリー。俺に命じろって」  とろけるような甘い声に、鼓動がさらに大きくなった。  もしかしたら、キリアンに聞こえているかも――と思ったら、いたたまれない。 「む、無理、です。そんなの、僕には……」  そもそも、キリアンはお貴族さまだという。対する僕は庶民。  命じるなんてこと、僕には出来ない。 「本当にジェリーは自己評価が低すぎる。俺は周りにもお前を正当に評価してもらいたい」 「そ、そそそそんなのはいらないです」  僕は平穏に毎日を過ごし、平和な日常が欲しいだけだ。  言っておくけど、称賛とかが欲しいわけじゃない。師匠に認めてもらうことができれば、それでいい。 「僕、僕は――」  開いた僕の唇に、気が付いたら温かいものが触れていた。  驚いて目を見開いた。すぐそばにあるキリアンの精悍な顔。少しして離れていく彼の顔。 (く、口づけられた――!?)  気が付いて、僕は慌てて自分の口元を手で覆った。キリアンが僕の様子を見て、肩を揺らして笑う。 「なんだ。本当にキスの一つも経験がないのか」 「ないです! 恋人がいたことないって、言ったじゃないですか!」  あれ、言ったっけ?  エカードさんには言ったような気がするけど、キリアンがそれを聞いていたかどうかは定かじゃない。  僕は純粋な乙女じゃないから、ファーストキスに夢など見ていない。いきなり奪われたから戸惑っているっていうだけ。  視線をさまよわせて周囲を見渡す僕。キリアンは喉を鳴らして笑い続ける。  かと思えば、彼の腕が僕の腰をまた抱き寄せた。 「な、命じろ。――自分のために生きろって」  繰り返された言葉。  低い声には確かな甘さが含まれていて、胸焼けしてしまいそうだった。 「お前に命じられるなら、悪くない。俺に生きていてほしいんだろ?」  それはそうなんだけど――。 「だったら、きちんと命じないと。俺はまたいつ命を投げ出そうとするか、わからないぞ」  どういう脅しなんだろうか、それは。  むしろ、この状況の意味さえ理解できていない。  これって怒ったら懐かれてしまったとか、そういうことなのだろうか?  頭の中がぐるぐると回って、混乱して。僕が身体の力を抜くと、キリアンさんが自身の膝の上に僕を座らせた。  向かい合わせになり、キリアンの手が僕の後頭部に回る。 「ジェリー」  今まで幾度となく呼ばれた名前。  まさか、自分の名前がこんなにも甘ったるく感じる日が来るなんて、想像もしていなかった。 「き、きり、あん……」 「あぁ」  間違いなく、僕が言わないと終わらない。  少なくともそれだけはわかるのに、どうしても命じることが出来ない。ぎゅっと手を握って、僕はキリアンの顔を上目遣いに見つめた。 「僕のために生きて……くだ、さい」  小心者の僕にはこれが限界だった。  僕の言葉を聞いたキリアンはぽかんとする。けど、すぐに声を上げて笑い始める。 「なんだそれは。命令じゃなく、お願いだろ」 「う。そ、それはそう、ですけど!」 「まぁいい。これで、俺の命はお前に預けたも同然だ」  やっぱり、逆なんじゃないだろうか。  勇者の命を握る魔法使いがいていいはずがない。  混乱の渦に落ちていく僕をよそに、キリアンが僕の心臓の部分をこぶしでたたいた。大きく音を鳴らす心臓が、今は憎たらしい。 「ジェリー、俺を生かし続けろ」  僕の腰を抱き寄せ、自身と身体を密着させて。キリアンが囁く。 「――俺には、お前さえいればいいよ」  キリアンがつぶやいた言葉の真意を僕が知るのは――もっともっと、先のことだった。

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