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幸せに向かって4

 ネルフィルターをセットし、ミルで挽いたばかりの粉をドリッパーに入れる。今日は久しぶりにホンジュラスを選んだ。残りわずかだから買っておこうかな。  お湯を注いでまずは蒸らす。だんだんと泡が消え、ボソボソと穴があいてきたら2回目のお湯を注ぐ。そうするとコーヒーの香りが部屋いっぱいに広がり気持ちが落ち着く。そして3回目のお湯を注いでコーヒーが落ちきるのを待ち、落ちきったらサーバーを軽く回してからカップに注ぐ。  今日は定休日だけど優馬さんが忙しくてデートはナシ。なので海に行こうかなと思ったけれど、12月の海は寒くて行くのをやめた。なので家でコーヒーでも淹れて本でも読もうと思った。冬の海も好きだけど寒いのが難点だ。よっぽどのときは行くけれど、今日はそんな感じではないのでやめた。  お試しで優馬さんと付き合うようになってから定休日に家で過ごすのは初めてだ。と言ってもまだ1ヶ月だけど。でも、毎週月曜火曜日はデートをしている。再来週辺りは落ち着くと言っていたから、1人で過ごすのは今日と来週くらいだ。そして、来週の月曜日10日は俺の誕生日だ。つまり、優馬さんから告白されて1年が経つ。もうそんなになるのかと思うと早いなと思う。まさかお試しでも優馬さんと付き合うことになるとは昨年の俺は思いもしなかった。だって俺は大輝のことをまだ好きだし、迎えに来てくれるのを待っていたから。  そう。昨年の今頃の俺は変わらずに大輝のことを信じて待っていた。だけど、ドイツで見かけてしまった大輝の姿に俺は優馬さんとお試しで付き合うことにした。とはいえ、まだ大輝のことを忘れたわけじゃない。嫌いになったわけでもない。優馬さんのことはいいなと思っている。もしかしたら好きになれるかもしれない。でも、まだ大輝のことが好きだ。大輝のことを知って、好きになったのは高校1年のとき。そして2年生になってから付き合うようになった。好きになって、もう10年以上経つのか。そんな長い間ずっと好きでいたから忘れるには時間もかかるし、他の人を好きになるのにも時間がかかるのかもしれない。だとしたらこのままお試しでも優馬さんと付き合っていれば好きになれるかもしれない。だってほんとに優しくていい人なんだ。来週の俺の誕生日は忙しいのにディナーに誘われている。ほんとに良くしてくれているし、会っているときは楽しい。だから、きっと好きになれる。いや、好きにならなきゃいけないんだ。  ソファーに座って、カップに口をつける。すると、キャラメルのような甘い香りが鼻孔をくすぐり、口に含むとフルーティーな酸味が口に広がる。普段はグァテマラやマンデリン、ブラジルを飲むことが多いけれどホンジュラスも好きだ。そう言えば、優馬さんはホンジュラスは好きだろうか? 店には置いていないけれど、今度淹れてあげよう。  こういったとき優馬さんのことを考える時間ができてきた。前は大輝のことしかなかった。美味しいコーヒーを淹れたとき。美味しいケーキを焼いたとき。美味しいものを食べたとき。俺が考えるのは大輝のことだった。淹れてあげたいな。食べさせてあげたいな。そうやって考えていた。優馬さんのことを考えるようになったのはお試しで付き合い始めてからだ。こんな時間を積み重ねていけばきっと好きになれるはずだ。  そうやって考えながらコーヒーを飲んでいるとスマホが振動してメッセージの着信を告げる。誰からだろうと思ってテーブルに置きっぱなしのスマホを手に取ると、優馬さんからだった。  送られてきたのはコーヒーカップの画像と、一言。『湊斗くんのコーヒーが飲みたい』きっとどこかでコーヒーを飲んだんだろう。時間的に少し遅めのランチだろうか。忙しくなってから、店に飲みに来るのは1週間に1回くらいになってしまったので、俺の淹れるコーヒーが飲みたいと昨日もメッセージが来ていたなと思い出す。思わずクスリとしてしまう。仕事が落ち着いたらホンジュラスでも淹れてあげよう。そう思って、やっぱり豆を買っておこうと決めた。

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