姚泉(ようせん)のいた部屋を出て、紅(こう)宮から一歩出たその瞬間、無明(むみょう)はへたりと地面に座り込んだ。 「無明様!?」 　清婉(せいえん)は驚いてその左横で膝を付き、無明の細い肩を抱く。 「俺······、上手くやれてた？」 「大丈夫？ あのひとが纏っていた香(こう)のせいだね。途中から様子がおかしいと思ったけど、助けてあげられなくてごめんね？」 　逢魔(おうま)が正面で覗き込むようにして、無明の頬をその小さな両手で包んだ。その表情は辛そうで、いつも以上に顔色が悪い。 「香(こう)？ 私は何とも思いませんでしたけど······どうして無明様だけこんな状態に？」 　香(こう)と聞いて姮娥(こうが)の邸でのことを思い出し、嫌な予感が過る。あの時の香(こう)は宝具だったらしいが、まさか、と清婉(せいえん)は逢魔(おうま)の方に視線を向けてその答えを求める。 「無明が衣を剥いだ時、あの女が一瞬だけおかしな動きをした。たぶん、組み合わせることで毒になる香(こう)だろう」 「ど、毒っ!?」 　顔を青くして、清婉(せいえん)はあわあわと動揺する。 「······平気。ちょっとくらくらするくらいで······なんか、気持ち悪い、だけ」 「それは平気とは言いませんっ」 　無明の許可を取る前に、清婉(せいえん)は自分よりずっと小さい身体を抱き上げると、そのまま歩き出す。 　なるべく揺らさないように、ゆっくりと急いだ足取りで。 　呆気に取られていた逢魔が、その後ろを遅れてついて行く。ここでいつもの姿に戻るわけにもいかず、どうしようかと思っていたところだったので、清婉の行動に感謝する。 「俺、清婉、好きかもっ」 「へへ。俺も好きっ」 　無明は横に並んだ逢魔と仲良く視線を合わせ、同意する。 「ふたりして揶揄わないでくださいっ」 　顔を真っ赤にして、清婉は頬を膨らませた。その面白い反応を楽しみつつ、逢魔は上機嫌で鼻歌を歌いながら横を歩く。無明は安心しきってその身を任せていた。 「もっと早く、俺が神子だってことを清婉にも話したかったんだけど、ごめんね。俺、ちょっとだけ怖かったんだ」 　え？ と突然の告白に、足を止めて無明に視線を落とす。 「せっかく仲良くなれたのに、また離れていっちゃうんじゃないかって、怖くて。でも、それって、すごく失礼なことだよね。そんなひとじゃないって知ってたのに」 「無明様······私も、黙っていてすみませんでした。本当は、碧水(へきすい)を出る少し前から、なんとなくそうじゃないかって気付いてたんです。でも、隠しているみたいだったので、訊けなくて、」 　そんなに前から？ と無明は眼を大きくして見上げてくる。 「それに、まさかあの神子様が、目の前にいるなんて信じられなくて。でもいつもの無明様だと気付いてからは、そんなことどうでも良くなっていて······すみません、ものすごく無礼なことをたくさんしました！」 　瞼をぎゅっと閉じて早口でそんなことを言う清婉に、無明はじんわりと胸の辺りがあたたかくなるのを感じた。 「清婉、好き！ 大好きっ」 　思わず首に腕を回して抱きつく。瞼を閉じていた清婉は、その突然の行為に驚いて、思わず紫苑色の眼を見開いた。 　こんな光景を白笶(びゃくや)に見られたら、どうなるかわかったものではない！ と命の危険を覚えたが、運良くこの場にはいないので不要な心配だった。 「俺も好き！」 　逢魔が勢いよく腰に抱きついてきて、危うく無明を落としそうになる。 「や、やめてください！ ホントに、そういうの慣れてないんです！」 　と、清婉は叫びながら真っ赤な顔でそのまま走り出す。それでも、腰にぶら下がった逢魔を落とさないようにする気遣いは忘れない。 　何回このやり取りをすれば気が済むのだろうか。 　清婉は嬉しくて泣きそうだったが、恥ずかしさの方が勝ってしまい、感情が混乱してしまう。 　本当に、無明が主で良かった、と。清婉は他の誰でもなく自分を選んでくれたことに感謝をする。もし戻れるなら、あの日、最悪だ！ と心の中で叫んだ自分に教えてやりたい。 （······叶うならば、これからもずっと、あなたのお世話をしたいです） 　いつの間にか、そんな存在になっていた。 　大切な、大切な、主。 　絶対に、この世の誰よりも、幸せになって欲しいひと。 （私は、何の力もないけれど······せめて、無明様が笑っていられるように、私にできることをしたい） 　ぎゅっとしがみ付いて来る無明を抱き上げたまま、清婉はひとり、そんなことを思うのだった。 ＊＊＊＊＊＊ 　一旦、珊瑚宮に戻った無明たちだったが、夕刻前に市井の方へと移動する。その頃には無明の毒も抜けたようで、いつもの調子を取り戻していた。 　明日、市井の中を花轎(かきょう)に乗って朱雀宮まで運ばれる、「朱雀の嫁入りの儀」を、急遽行うことになったのだ。 　本来は、朱雀の神子候補が乗るものだったが、今回はすでに決まった神子が乗るということで、市井はその話題で持ちきりだった。 　福寿(ふくじゅ)堂では、白笶(びゃくや)と竜虎(りゅうこ)が無明たちの到着を随分と前から待っており、たった数刻ぶりの再会だというのに、何年も逢っていなかったかのような気分さえあった。　 「······顔色が悪い」 「あ、ちょっと、色々あって······でも、もう平気だから！」 　白笶は心配そうに眉を顰め、無明を見下ろす。本当は触れたかったが、なんとかその衝動を堪える。 　ここは外で、路は人が行き交っている。誰が見ているかもわからない。 　白笶も竜虎も福寿堂の臙脂色の仕事着を纏っていたが、隠せない風格が邪魔をして、どちらも変装はあまり意味がなさそうだ。 　無明は老陽(ろうよう)から貰った赤い衣を頭から被っており、近づいて覗き込まなければその顔は見えない。 　その横には幼子の姿をしたちび逢魔がおり、無明と手を繋いでいる。 「突っ込みどころ満載だが、とりあえず中に入れ。その衣は、ただでさえ目立つんだから」 　まるで自分が朱雀の神子です、と言っているようなものだ。まあ、それが狙いでもあるのだが。 「竜虎様、無明様の衣裳はどうなっていますか？」 「ああ、それなら、ここの店主が用意してくれている。一度袖を通してから、長さを調整すると言っていた」 「着付けはお任せください！」 　清婉はどんと自分の胸を叩いて、なんだかやる気満々だった。主の花嫁衣裳を着付けられるなんて、なんて幸せ！ と心の中で思っていたが、よくよく考えたら、おかしな話だと複雑な表情になる。 「あの、無明様、花嫁衣裳、本当に着たいです？」 　こういうのは、本人の意思もある。女装されられるのだ。しかも衣裳は花嫁衣裳。さすがの無明思うところがあるだろう。そう、思っていたのだが。 「花嫁衣裳なんて、きっとこれを逃したら一生着られないものでしょう？ 楽しみしかないよっ」 「そ、そうです？ ならいいんですが、」 　本当に嬉しそうに微笑んだ無明の顔が、衣に隠れていても手に取るようにわかって、清婉はほっとする。そして、同時に良いことを思いつく。 　その我ながら良い思い付きに、清婉は作戦開始の鐘を頭の中で鳴らす。 「竜虎様！ 少しお話がっ」 　堂に入ろうとしていた竜虎を捉まえて、清婉は自分の提案をこそこそと耳打ちする。 「······まあ、いいんじゃないか。そういう話なら、協力してやる」 　ふたりは頷き顔を見合わせると、まるで共犯者の如く笑みを浮かべるのだった。