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1-30 花轎

 一夜明け、頬に触れてきたあたたかい指先で目を覚ます。ゆっくりと開けた瞼の隙間に見えたその顔を見つめ、自然と笑みが零れた。 「······すまない」  白笶(びゃくや)が申し訳なさそうな顔で見下ろしてくる。寝台の上に腰掛けたまま、今度は横になっている無明(むみょう)の長い黒髪に触れた。  あの後、少ししてから花嫁衣裳を脱ぎ、化粧を落としてもらい、髪形も元に戻してもらった。いつもの黒い衣裳に身を包んだ無明の顔に、あの時の暗い影はもうなく、"宵藍(しょうらん)"として福寿堂の者たちに接していた。  夜になり、白笶が朱雀の神子の護衛という名目で同じ部屋で待機することになったのだ。いつものように、ふたり、言葉を交わす。ほとんど無明がひとりで話していて、白笶は「うん」とか「そうだな」とか簡単な返事を返す。  途中で逢魔(おうま)が遊びに来て、部屋が賑やかしくなる。無明もとても楽しそうだった。  三人でいることは、なによりも大事だと、白笶は思っている。遠い昔、かつての神子もそうだったように、無明にとっても逢魔はかけがえのない存在になっているようだ。  少し違うとすれば、あの頃は自分の子供のように逢魔を慈しんでいたが、今は大事な友として慕っているように思える。 「無明、疲れたでしょ? もう寝た方が良い。明日のためにも」  瞼が重くなり始めている無明に気付いて、膝の上に座っている、小さい子供の姿のままの逢魔が見上げてきた。  この姿の逢魔が、狼の姿と同じくらい好きだという無明の望みもあるが、当面いつもの姿に戻れない逢魔にとっては幸福なことだった。子供の姿で膝の上に座り、抱っこされているのだ。幸福以外の言葉が見つからない。  そうやって甘え倒していた逢魔を無表情で見つめている白笶の感情は、いつもの如くまったく読めなかったが。 「俺は外を見張ってるから、あとはよろしくね、」  居心地の良かった膝の上から降りて、返事を待たずにさっさと出て行ってしまった逢魔を見送り、白笶は無明に視線を戻す。  こくん、こくん、といつの間にか椅子の上で転寝をしている無明がそこにはいて、ぐらりと傾いだ身体に慌てて手を伸ばす。机を挟んでぎりぎり届いた手が肩を支え、なんとか椅子から倒れずに済む。 (ずっと気が張っていたのだろう。逢魔に感謝しないといけないな)  無明から不死の話を聞いた後、白笶は自分の想いを伝えた。その言葉を告げた後も、ずっと無明は自分に抱きついたまま離れなかった。その身体が離れた時、そこにはいつもの彼がいた。 (君は強いな······しかし、時には今日のように弱音を吐いてもいい。他の者にできないなら、せめて、私の前では、)  無明を軽々と抱き上げ、寝台へと運ぶ。動かしてしまったせいか、気付いた無明の瞳がこちらを見上げてくる。 「······白笶、このまま俺の傍にいてくれる?」  寝ぼけているせいか、少し舌足らずな口調で甘えてくる無明を寝台の上に寝かせ、白笶はその横に腰を下ろした。  握られた手は冷たく、自分の左手に熱を求めるかのように指先が絡められる。 「わかった。君の傍にいる」 「········ありがとう、」  言って、安堵したのか再び瞼を閉じた無明の頬に、白笶は空いている方の指でそっと触れた。  そしてそのまま夜が明けたのだ。  無明は自分が言ったことを起きるまで守っていた白笶に対して、嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちが入り混じる。 「俺の方こそ、ごめんね。まさか朝までそのままでいてくれるなんて思ってもみなくて········大丈夫? 少しは眠れた?」  ゆっくりと身体を起こす無明の肩を抱き、そっと支える。 「護衛が寝ているわけにはいかない。だから、ずっと君を見ていた」  その秀麗な顔に浮かんだ優しい笑みを目にした時、無明それ以上なにも問う必要はなかった。 ******  福寿堂の店先がいつも以上に賑やかになっていた。それは朱雀の神子をひと目見ようと集まった光焔(こうえん)の民たちと、福寿堂の店主である銀朱(ぎんしゅ)とその配下の者たちによる人垣だった。  そして時間通りに、朱雀宮から運ばれていた花轎(かきょう)と、その担ぎ手たちが到着する。  竜虎(りゅうこ)白笶(びゃくや)は銀朱の配下たちに紛れ、後ろの方に控えている。清婉(せいえん)逢魔(おうま)は、花嫁衣裳の上にあの赤い羽織を纏った無明の傍に控え、店の奥でその時を待っていた。 「無明、すごく綺麗だね」 「当然です! だって無明様ですからっ」  自信満々にそんなことを言う清婉に、無明は紅色の唇を思わず緩める。 「"無明"じゃなくて、今は"宵藍"だよ、ふたりとも」   そ、そうでした、と清婉は慌てて口を両手で塞ぐ。まあ今は周りに誰もいないので問題ないのだが。 「ここからはひとりで大丈夫。後の事は任せたよ」  紅蓋頭と呼ばれる赤い薄い布を頭から被り、顔を隠す。そして、入り口の扉が外側から開かれた。  急に差し込んできた光と、先程まで遠くで聞こえていたざわめきが、急に押し寄せるように目と耳に入って来る。  扉の先の左右に列が作られ、正面の花轎まで続いていた。  用意された花轎は、朱漆塗で描かれた金蒔絵(きんまきえ)や浮彫がほどこされており、その周りには網目のある流蘇つきの赤布で装飾がしてあった。  それはとても華やかで美しく、神子候補の失踪の件さえなければ、それに乗ることに躊躇はしなかっただろう。 「朱雀の神子様がこんな近くで見られるなんて!」 「思っていたより小柄ね、」 「きっと見目美しい方に決まっている!」  様々な声が耳に届く。  無明は眼を一度閉じ、自分の中で気持ちを整える。ゆっくりと開いたその瞳には、強い決意が現れていた。それは紅蓋頭で隠されているため、誰にも見えない。    真っすぐに花轎を見つめ、一歩を踏み出す。 (ここからが、本番。大丈夫。この先、なにが待っていようとも)  担ぎ手のひとりが手を差し出し、それに右手を乗せる。担ぎ手は中に座ったのを確認すると、他の担ぎ手たちに合図を送った。  その合図で四人の担ぎ手たちは同時に花轎を担いで立ち上がる。進んで行く花轎を中心にして、人だかりの中、道が自然に開かれて行く。  遠く離れていく輿を、見えなくなるまで民たちが見守る中、福寿堂の者たちは各々の任務のために散る。残された銀朱は、ひとりそれを最後まで眺めていた。 (さて、奴らはどうでるか······まあ、どんな謀を企てようが、そのすべてに対応してみせますけどね)  いつもの穏やかで優しい顔に不敵な笑みを浮かべ、敵に対して宣戦布告をする。  そして良く晴れた空を見上げ、その時を待つのだった――――。 ****** 第一章 花轎 ~了~

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